牧師プロフィール | 北本福音キリスト教会      

1953年12月3日生まれ。竹下景子さん、元横綱北の湖などと同い年で俗に言う「花のニッパチ(昭和28年) 」です。しかし、精神的には今でも自分はヤングだと思っています。九州生まれ、関西育ちで、1987年から埼玉 県人となりました。そのため、今なお家では大阪弁を話し、蕎麦よりも関西風のうどんを好み、毎年失望させられな がら相変わらず阪神タイガースを応援してしまう関西人です。中学生の頃は、モンキーズ(若い人は知らないでしょ うが、ビートルズのアメリカ版で1970年頃は結構人気がありました。)のデービー・ジョーンズに似ているとか 、20代の頃は田中健に似ているなんて言われましたが、それも遠い昔の話です。

大学ではフランス語を専攻し、卒業後は非常勤で大阪の予備校YMCAで受験英語を教えたり、いくつかの大学で第二外 国語としてのフランス語(つまりほとんどの生徒はやる気がないという授業)を教えたりしていました。その後留学 を試みましたが、うまくいかず、転職することになりました。というのも、ある奨学金がもらえるものと思い込み、 仕事を辞めて留学準備をしていたため、学校に戻るタイミングを逃してしまったからです。あわてて英字新聞で仕事 を探し、1987年の4月から東京にある「カナダ大使館」で翻訳官として働くことになりました。その後学術交流 担当に変わりましたが、大使館の仕事はとても楽しく、いろいろな経験ができました。日本人職員は残業が許されず 、5時半になるといかつい顔したカナダ人の守衛から「Go Home!」 といわれるのです。どうやらカナダの機密(そんなたいそうなものがあるんでしょうかね?)を盗まれな いためだったようです。当時「Hanako」という雑誌が出たばかりで、大阪からあこがれの東京に出てきた私と家内 は、よくその雑誌を片手に青山や渋谷のおいしい店めぐりをしたものです。今から考えると、それがたたったのか、 私は東京に来て急に太ってしまいました。それは今もなおらず、体脂肪率は26-29%です(最近誕生祝に体脂肪 率を計れる体重計を買ってもらいました)。

大使館に勤めている頃、私は「65才まで自分の人生は安泰だ。」なんて思っていました。ところが人の人生はなか なか思うようにいかないものです。平和で気楽な4年間が過ぎる頃から、私の人生はふたたび大きく方向転換するこ とになります。上京したときに、私たちは埼玉県の中央部にある北本市(知っている人は少ないでしょうね。)に住 むことになりました。何しろ、当時はバブル絶頂期ですから、東京に住むには家賃が高すぎました。そして、同時に 北本福音キリスト教会に通うようになりました。さらに教会の牧師先生が突然辞任することになってしまったのです。私た ちの教会は単立と言って、教会のグループである教団、教派に加わっていないので、牧師が辞める=牧師がいなくな るということでした。当時教会学校の校長をしていた私は、教会の役員会から、月に二回の日曜日礼拝の説教をする ように頼まれました。慌てて、注解書や説教集を買って、月曜から金曜までは大使館の職員、土日は教会のスタッフ という二重生活が始まりました。90年の9月からそんな生活が始まりましたが、2,3ヶ月するうちに、「こんなこ とは長く続けられない」と感じるようになりました。そして、同時に神様に祈り始めました。「自分の生涯を神様の 働きのために捧げるべきかどうか示してください」という祈りでした。

ある日、説教の準備のために、ある説教集を 読んでいましたが、イエス様が十字架にかかる前にエルサレムに入られる記事に出くわしました。イエス様は弟子た ちに「ろば」を連れてくるように言われました。他人のろばを連れて来いというのです。もし持ち主が何か言ったら 「主がお入用なのです。」と答えなさいという指示でした。この「主がお入用なのです。」というよく知られた言葉が 、その時、何か自分の胸に強く迫りました。自分はとても牧師になれるような人間ではない。ろばのように頑固で、 信仰も深くないから牧師になるなんて無理だ。そのように考えていた私に、イエス様が「私がお前のうえに乗っていくべき道を教えるから、私のろばになりなさい。」と語っておられるように感じました。自分の弱さばかりを見てい た私は、主が一緒ならなんとかなるかなと思うようになり、牧師先生や教会の役員たちに相談をして、ついに、自分 の仕事を辞めて生涯を神様のために捧げる決断をしました。
それから、東京の浅草橋にあるウェスレアン・ホーリネス神学院(舌をかみそうな名前です)に入り4年の学びを終 え(その間に1年間アメリカに留学しました)、95年4月29日に正式に牧師となりました。それ以来、教会の人 々に助けられ支えられながら牧師として神に仕えています。家内の名前は優子と言います。教会や集会などでピアノ を弾いています。こどもはいません。彼女は今コンピューターミュージックに凝っていますが、なかなかむずかしい ようです。信仰のことでいろいろ議論することもありますが、神様に合わされた夫婦として楽しくやっています。

「私がクリスチャンになったいきさつ」

私は1972年に大阪外国語大学に入学しフランス語を専攻しました。ついでに英語も上手くなりたかったので、「 留学生友の会」というサークルに入りました。大学には文部省の奨学金をもらった国費留学生が常に100人以上い ました。彼らは最初6ヶ月間大阪外大で日本語を勉強し、それから日本各地の大学で自分の専攻分野を学ぶのです。 そのような留学生と友達になって楽しく過ごそうという気楽なサークルでした。1年生の後期に入って来た留学生の 中に「グレアム・フォーセット」というニュージーランド人がいました。あくの強い留学生が多い中で、何か優しそ うで引かれるものがありました。学食で話したりしているうちに、ある日彼が「クリスチャンの集会に行ってみない か」と私に誘ってきました。それまで特に宗教に興味があったわけでもないし、聖書も一度も読んだことがなかった のですが、彼が行くなら一緒に言ってみようかと軽い気持ちで集会に行きました。

それは「Youth With A Mission」という団体が水曜日の夜に英語に興味を持つ人のために開いていた集会でした。通 訳付きの英語のメッセ ージを聞いた後、交わりの時がありました。私は、そこで聞いたメッセージの内容はぜんぜん分かりませんでした。 しかし、そこで出会ったクリスチャンたちの輝いた顔が非常に印象的でした。その頃、私は、大学の勉強がつまらな いとか家にいても楽しくないとか、何かいつもぶつぶつ文句を言って毎日を過ごしていました。ところが、そこで出 会ったクリスチャンは喜びに満ちているように見えました。その秘密は、聖書を読めば分かるかなと思って、聖書を 読み始めました。すると「すべての人は神の前に罪人である」という教えにぶつかりました。

当時大学1年生の私は 非常に傲慢だったと思います。自分は正しい人間だと思っていました。いや、そう思いたかったのです。あの人のよ うなことはしていないなんて思って(結構悪い友達もいましたし)、自分は悪い人間ではないと思い込もうとしてい ました。でも、家に帰れば親には反抗的な自分がありました。初めは、自分が悪い人間だなんて思いたくなかったの ですが、聖書を読んだり、集会のメッセージを聞くうちに、自分の心の中の自分勝手さ、醜さが少しずつ見えてきま した。そんな時夢を見ました。自分が高層ホテルの一室で火事に巻き込まれていました。窓から身を乗り出して助け を求めているんですが、後ろからどんどん火が迫ってきてもう絶体絶命でした。その時、夢の中で考えていました。 「今、自分が死んだらどうなるのだろう。死んだら自分はどこへ行くんだろう。自分は裁かれるのだろうか。」そう 言うことを考えているうちに目が覚めました。それから、もう少し真剣に聖書を読むようになりました。

ある日、私 を集会に誘ってくれたグレアムが貸してくれた信仰書を読んでいました。その中に、イエス・キリストが十字架にか かって死んだのは、実は、私の罪の刑罰を身代わりになって受けたことなのだと書いてありました。「本当は私こそ 十字架にかけられるべき人間だけれども、代わりにキリストがその刑罰を受けてくださった。それは私たちが罪の裁 きから解放されて新しく生きるためである。人が友のためにいのちを捨てる、これよりも大きな愛はない。」そのよ うなメッセージが書かれていました。それまでにも聞いていたメッセージでしたが、その日は特別 に私の心に強く迫 ってきました。

自分は自分勝手な人間だけれど、そのような人間をも愛して許してくださるキリストの愛ってすごい なと感動しました。聖書について分からないこと、知らないことはいっぱいありましたが、その日、私は自分の人生 をキリストにかけてみよう。この方の教えに従って生きて行こうと決心して、すごく短く、へたくそなお祈りを生れて始めて祈りました。 それ以後、失敗が何度もありました。壁にぶつかったようなときも何度もありました。しかし、神様は忍耐をもって 私を愛しつづけ導きつづけてくださいました。そして、まさか自分が牧師になるなど夢にも考えていませんでしたが 、不思議な神様の導きで、現在、牧師として神様に仕えています。私は、いくつか仕事を変わりました。40才過ぎ てから牧師になりました。でも、今、私は確信を持って言うことができます。「私は、牧師として神様に仕えるため に、この世に生れてきたのだな。」これからも、少しでも神様のお役に立ちたいと願っています。