説教 | 北本福音キリスト教会      

2023年8月13日 『人を殺すことの意味』(マタイの福音書5章21-26節)

 先週の個所では、主イエスが、自分の教えと旧約聖書の関係について2つのことを話されました。。一つは、主の教えは、旧約聖書の律法を破棄するものではなく、律法を成就するものであると教えられました。もう一つは、律法学者やパリサイ人たちは自分たちが熱心に律法を守っていると思い込んでいましたが、それは、人に見せるための行為であって、彼らの心は神様のみ心から遠く離れていることでした。それで、主イエスは5章20節で、「あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入ることはできません。」と言われたのです。そこで、続いて、主イエスは、5章21節から48節までの箇所で、旧約聖書の律法を正しく解釈しなければならないことを、6つの律法を取り上げて説明されました。したがっだとて、6つの律法について、主イエスは同じ表現を使っておられます。その表現とは、「あなたがたは~と言われているのを聞いています。しかし、わたしはあなた方に言います。」という表現です。主イエスの時代の人々は、自分の聖書を持っていませんから、自分で聖書を読むことはできません。彼らは、会堂に礼拝に行った時に、パリサイ派の人々の教えを聞いてはじめて聖書の律法について知ることなったのですが、律法学者やパリサイ人たちは、旧約聖書の律法そのものを人々に教えていたのではなく、自分たちが独自に解釈したものを教えていました。主イエスの説教を聞いていた人々は、彼らの教えが旧約聖書の律法そのものだと思っていました。それに対して、主イエスは「しかし、わたしはあなたがたに言います。」と言われました。とても権威のある言葉です。主イエスは、律法を成就するために来られた方ですから、律法が私たちに何を求めているのか、それを決める権威を持っておられる方です。律法学者やパリサイ人たちが教えていた人間的な解釈は、ほとんとが「~してはいけない」ということでした。つまり、いろいろなことをしないことによって、神様から義と認められると教えていました。しかし、主イエスは、律法の原則は、「~しないこと」にあるのではなく、神様が求める義を愛する人になることだと、旧約聖書の6つの律法の教えを通して教えられました。今日はその最初の律法に関するイエスの教えです。

  • 殺人に関する教え

 21節で、主イエスは言われました。「昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。」「殺してはならない」というのは、モーセの十戒の中の6番目の戒めですし、人を殺す者は裁きを受けなければならないという教えは、旧約聖書の中で何度も語られていますが、神様がモーセに十戒を与えるよりもずっと前に、神様は箱舟を造ったノアに対して人を殺した者は殺されなければならないと教えておられます。創世記9章6節を読みましょう。「人の血を流す者は、人によって血を流される。神は人を神のかたちとして造ったからである。」話は、少しそれますが、創世記9章6節には、なぜ殺人が悪いことなのか、その理由がはっきりと記されています。それは、人は、皆、神のかたちに似せて神様によって造られた者だからです。進化論によれば、人のいのちは偶然の結果生まれたものです。偶然、地球上に生きた細胞が生まれ、偶然、その細胞が進化を始め、そして、長いプロセスを経て、偶然、人間という存在が生まれました。偶然生まれた者を殺すことがなぜ悪なのか、それを示す根拠が、進化論にはありません。例えば、たまたまそこにあった物は、誰のものでもないとすれば、つぶしても、よごしても、悪いことだと言うことができません。しかし、それが、誰かの物であったり、誰かがそこに置いたものであれば、それを壊したり汚したりすることは悪の行為になります。人間が、進化論が言うように、すべて偶然の結果生まれたものであるなら、なぜたまたま生きている人を殺すことは悪になるのか、説明がありません。しかし、聖書は、はっきりと教えています。私たち、一人一人は、神様のデザインで神様に似せて造られた者です。神様が造られた者を殺すことは、確かに悪なのです。旧約聖書の中に、殺人は非常に悪い行いであって、それゆれに、人のいのちを奪った者は殺されなければならないと繰り返し教えられています。

 ここで、主イエスは「昔の人々に対して『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのをあなたがたは聞いています。」と言われました。「人を殺してはならない」というのは、有名なモーセの十戒の中の6番目の戒めです。」出エジプト記の20章に記されています。これは、非常に厳粛な神からの命令であり、これに違反する者には神からの厳しい裁きがあることが明かです。しかも、この言葉は、主イエスが20節で、神の義は、律法学者やパリサイ人の義にまさっていることを教えておられるので、殺すということには、ただ単に人を殺すこと以上のものが含まれていることを感じさせます。それに対して、後半の「人を殺す者はさばきを受けなければならない」と言う個所は、直接の神のさばきのことを言っていません。申命記の16章に、イスラエルの民が住む町に裁判官を立てて公正な裁きをしなければならないという命令があって、イスラエルの民は、それぞれの町に裁判官を置き、人間の間で起きた様々なトラブルや事件の裁判を行っていました。従って、後半の言葉は、人を殺すということの重大さが消え去っていて、人間社会で起きる様々な犯罪の一つであって、人間が人間の義に基づいて裁判するもののように考えられています。そこには、人を殺すことが神から与えられた律法に対する重大な違反であるという事実がほとんど消えています。彼らは、人を殺すとは、実際に人を殺すと言う行為であり、他の法律違反の行為と同じように、人間が裁いて終わりにするものと考えていました。しかし、主イエスは、神から与えられた律法は、単に目に見える結果として起きた行動だけを扱うのではなく、もっと奥深い人間の心に関わるものであることを教えようとしておられるのです。ダビデがイスラエルの王になるために選ばられた時に、神ご自身が言われた言葉があります。「人はうわべを見るが、主は心を見る。主イエスは、旧約聖書の律法全体を要約すると2つの戒めになると言われました。それは、全力で神を愛することと隣の人を自分自身のように愛することです。十戒には人間関係に関する律法が6つありますが、それは、すべて、人が自分の隣人に対して正しい人であるのか、人が自分の隣人を自分自身のように愛しているのかを問う律法なのです。律法は、そこに記されていることをその言葉のとおりに行動すること以上に、その律法が意味している精神が何であるかを正しく理解しなければなりません。そこで、主イエスは、「殺してはならない」という律法に込められた精神とは何なのかということを教えられました。22節で主は言われました。「兄弟に対して怒る者はだれでもさばきを受けなければなりません。」ギリシャ語には「怒る」という言葉が2つあります。一つは「シュモス」という言葉で、この怒りは、ぱっと燃え上がってすぐに消える怒りを意味します。もう一つは、「オルゲー」という言葉で、これはいつまでも覚えていて忘れようとしない怒りを表す言葉です。主イエスは、ここでは「オルゲー」という言葉を使われました。聖書は、怒ることそのものを禁じてはいません。主イエスも、エルサレムの神殿が商売の場所になっていたのを見て、激しい怒りを表されました。しかし、主イエスは、人々から個人的な軽蔑や罵りの言葉を受けた時に怒ることは一度もありませんでした。私たちは、主イエスとは正反対で、罪や不正に対して怒るのは遅いのですが、他人から個人的にひどいことを言われたりひどい仕打ちを受けると一瞬で激しい怒りを覚えます。このような怒りは、そのままにしておくと別の罪を犯す危険が高くなります。聖書は、いつまでも根に持っている怒り、忘れようとしない怒り、和解することを拒むような怒りは禁じています。エペソ人への手紙の4章26節では、パウロはこう語っています。「怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。」私たちは、怒りを感じることがありますが、その感情は、非常に注意して取り扱わなければなりません。人に対する怒りの場合、その怒りを断ち切らずに、心の中で思い出したり、あれこれ考えていると、その人が罪を犯す危険性は非常に高くなります。怒りはコントロールしなければ危険なのです。そして、多くの場合、そのようなくすぶり続けた怒りは、言葉になって現れます。

  • 言葉による罪

 22節の後半で、主は言われました。「兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。」ここで、「ばか者」と訳されている言葉は、ユダヤ人の言葉では「ラカ」と言います。新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、ここでは「ラカ」とへブルの言葉がそのまま使われています。ラカという言葉があまりにも強烈な意味を持っていたためにギリシャ語に翻訳することができなかったからです。この言葉は、何も考えることができない人、頭が空っぽの人、という意味で、非常に強い軽蔑の気持ちがこもった言葉です。しかも、神様が神様のかたちに似せて造った人を、そのように激しく罵ることは、神様を罵ることと同じであり、その人を殺すことと何ら変わらないことをしているのです。最高法院とは、ヘブル語でサンヘドリンと呼ばれる70人からなる国会であり最高裁判所のような組織で、ユダヤ教トップの大祭司が議長を務めていました。最高法院は、当時のユダヤでもっとも深刻な犯罪の裁判を行っていて、死刑を宣告することもありました。使徒の働きの6章で、初代教会の中心人物であったステパノがこの最高法院によって死刑を宣告されて、石打の刑によって処刑されました。人に向かって「バカ」という人は、殺人と等しい深刻な罪を犯したのであって、最高法院で死刑を宣告されても仕方がないと主イエスは言っておられるのです。私たちは、他人の罪に対しては厳しいですが自分の罪に対しては非常に甘い考えを持っています。したがって、22節のような言葉を読んでも、これは比ゆ的な表現だから言葉通りに受け取らなくてもよい、などと自分に都合よく考えますが、主イエスが「最高法院でさばかれる」と言われたのであれば、その罪は、最高法院で裁かれなければならないほど深刻な者であること忘れてはなりません。

 また、主は言われました。「兄弟に『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。」「愚か者」と訳された言葉はギリシャ語の「モーロス」という言葉が使われています。この言葉には、ただ単に愚かなという意味だけではなく、神を信じない者、神に逆らう者という意味を含んでいます。この言葉に相当するヘブル語の言葉には「マラ」という言葉がありますが、詩篇の中でたびたび使われる言葉です。例えば、14篇1節に「愚か者は心の中で「神はいない」と言う。」というのがありますが、ここでも「マラ」が使われています。したがって、ここで、「愚か者」というということは、「お前は神に逆らう者だ。」と神様を持ち出して相手を裁く言葉です。したがって、「愚か者」は「バカ」という言葉よりもより一層相手を罵る気持ちが強い言葉です。22節のイエスの言葉は、人の罪の深刻さがひとつずつ深まっていることを示しています。まず、兄弟に対して怒る者から、人の心の悪が始まります。その心が「バカ」という言葉によって表されて、その悪がより深くなります。そして、次に、「愚か者」つまり「神に逆らう者」と人を裁くことによって、その悪はさらに強くなっているのです。だから、「愚か者」と人を裁く者は、火の燃えるゲヘナに投げ込まれると主は言われたのです。ゲヘナとはもともとエルサレムの南側のヒンノムの谷を意味する言葉でした。その谷は、かつて偶像礼拝が行われていた場所だったのですが、ヨシヤ王が宗教改革を行って、偶像礼拝に関するものすべてを取り去って、その谷を永遠に呪われた場所とし、最終的にイエスの時代にはゴミ捨て場になっていました。ごみの腐敗や臭いを抑えるために一日中火が燃え続けていたので、人々は地獄を連想していました。主イエスは、人が神でもないのに、他の人を裁いて罵ること、その人の名誉を傷つけることが一番重い罪であり、その人は地獄に投げ込まれるべきであると言われたのです。行動においては、人を殺していなくても、怒る者、罵る者、人を裁く者は心の中で殺人を犯したのと同じなのです。

  • 和解のすすめ

 主イエスは、殺人を禁じている律法を、人を殺すという行為だけに限るのではなく、私たちの言葉や思いにも当てはめるべきであると教えられたのですが、23節以降は、さらにその律法が適用される範囲を広めておられます。人を殺してはいけないという律法は、ただ、消極的に、人に対して怒らない、罵らない、憎しみを込めて人をさばかないということだけに限定されるのではなく、もっと、積極的に、争いがある人とは何よりも第一にして和解するべきだと教えられました。ユダヤ人にとって、捧げものをすることは非常に大切な宗教的な行いでした。旧約時代にイスラエルの人々がエルサレムの神殿でいけにえの動物を奉げたのは、自分が犯した罪を赦してもらうためでした。ただ、そのいけにえが罪を赦す効力を発揮するためには、捧げる人が自分の罪を告白して真実の悔い改めをすることが求められました。礼拝者は、いけにえが屠られる直前に、動物の頭に手を置いて祈りを捧げました。「わたしは罪を犯しました。どうかこのいけにえの動物を贖いとしてください。」従って、この祈りをささげる時に、その人が誰かが自分を憎んでいることを思い出したなら、その問題をまず解決しなければなりません。人から憎まれるとするなら、その人は相手に対して何か罪を犯したか不正なことを行ったか、理由があるはずです。この人が神殿で捧げようとしていけにえは、その人の心の中に真の悔い改めが無ければ、神の赦しをもたらすことができません。だから、私たちは、いつも、誰に対しても、何か悔い改めるべきことがあるならば、まず悔い改めをして、その人と和解することが先決です。そうしないと、私たちの赦しを求める祈りは、神様のところに届きません。私たちは、誰に対しても、憎しみや恨みをもって生きるのではなく、その人を愛する愛をもって生きなければなりません。それこそ、主イエスが私たちに最も大切な戒めとして教えてくださったことです。

 「人を殺してはいけない」という律法は、要するに「隣人を自分のように愛しなさい」という律法と同じことです。人に対して怒らないこと、罵らないこと、人をさばかないこと、それは人を愛することなのです。また、「和解する」というのは、積極的に自分から人に愛を与えることです。私たちが人を愛する時、私たちは人を殺さない人になるのです。これが、主イエスの言う、律法学者やパリサイ人にまさる義なのです。

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