小さな海の生き物たちが、創造主の存在を教えてくれた……! | 北本福音キリスト教会      
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小さな海の生き物たちが、創造主の存在を教えてくれた……!|海島 晴由 兄

「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められる」(ローマ人への手紙1章20節)

 私は十数年前に妻子と別れ一人になりました。そのとき以来、時間を無駄に過ごしてはいけないと思うようになり、 また、別れた子供たちに「何かを残したい」との思いもあって、水中写真に取り組み始めました。海の生き物を撮るうちに、30数年前に言われた言葉が、私の脳裏に蘇ってきました。『進化論は間違っている!』それは高校生のときに、一人の同級生が私に向かって発した言葉でした。彼はクリスチャン(内田和彦師)でした。「なぜ?どうして?恐竜は、化石は、どう説明するの?」しばらく議論した後、彼の熱心な言葉に「彼の考えはもしかしたら本当かも知れない」と、そのときは少し信じました。勧められるまま一度だけ教会にも行きました。しかしその後忙しい日常生活の中で、神様のことはどこかに忘れ去ってしまいました。

 「生き物は決して偶然にはできない」「すべての生き物を創造した神がいる」と、私に再び思い出させ確信させたのは、小さな海の生き物の写真でした。あるとき、トゲトサカと呼ばれる赤いサンゴの中に1.5センチの小さなエビが潜んでいるところを、ストロボをサンゴの枝の外から当てて、枝と枝の間から木洩れ日のように光が差して、エビだけに当たるように狙って撮りました。構図とストロボの角度に気を配りながら何枚かシャッターを押しました。現像してみると、最初の数カットはエビに光が当たっていませんでした。しかしその一枚は、一筋の光が狙いどおりエビだけに当たり、エビの体にデザインされた鮮やかな縞模様を浮き出させていました。それは一瞬息を止めるほどの美しさでした。

 サラサエビは、どこにでもたくさんいる、他の魚の餌にされてしまうようなエビです。しかし今ルーペで覗いているサラサエビは、見事にデザインされた衣装で着飾り、舞台の主役を務めるプリマドンナのようです。このとき、「これは偶然にできたものではない。このエビのデザインをした創造主がいる」という思いが浮かびました。そして日が経つにつれて、この思いは私の頭の中に定着し、少しの疑いもない確信へと変わっていきました。

 「神が創造された海の生き物たちの写真集を作りたい」と思うようになり、写真を小学館に持ち込みました。それから数年後、小学館で写真集を出版してくれることになりました。しかしなかなか具体的に編集作業が始まらない頃、別れた子供と初めて連絡が取れました。私は子供たちがどんな子供に育ったのかとても心配でした。両親の離婚の影響を受けて暗い子になっていないか、わけのわからない子になっていないだろうかとても心配でした。そこで、離婚後初めて子供たちに手紙を出しました。海の生きもののこと、その生き物を造った神様がいるという話を書き送りました。神様を信じる子になって欲しいと思ったからです。

 するとすぐに返事が来て、子供たちは七年ほど前にハワイで洗礼を受けてクリスチャンになっているとのことでした。彼らは私の望んでいたように神様を信じるクリスチャンになっていたのです。子供からの勧めもあり教会に行きました。「わたしの愛の中にとどまりなさい」というイエス様のみことばが、初めて心の中に入ってきました。神さまがいることを確信しているのだからと思い、それから三ヶ月後に洗礼を受けました。

 不思議なことに、洗礼を受ける決心をした日に写真集の編集作業の日程が決まり、翌年の4月に写真集「いのちの海」が小学館から出版されました。翌々年の7月には次女の結婚式に呼ばれ、娘たちの住んでいるサンディエゴで、13年ぶりに子供たちと再会することができました。

洗礼を受けて二年ほどたったある日、神様の導きと本当にたくさんの恵みがあったことを思い起こしていました。そのとき、私は創造主である神を確信しているが、本当に神様のことをわかっているのだろうかとの思いが出てきました。宇宙は一千億光年あるいは一千五百億光年の大きさがあると天文学者は言います。

 光の速度で一千億年とは、人間には本来理解できない距離であり、それほどの宇宙を創った神様を、理解することも想像することも無理なことではないかと思えたのです。人々が、そんな途方もない神を確信できないのは仕方がないことではないかと思ったのです。そんな思いで黙想に耽っているとき、突然ひとつの言葉が私の心に飛び込んできました。

 「わたしを見た者は、父を見たのです。」どこかで聞いたような言葉だと思いパソコンで聖書を検索すると、それはヨハネの福音書14章にありました。それから夢中になってヨハネの福音書を何度も何度も読み返しました。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」とピリポがイエス様に言ったとき、ピリポも父なる神様をよくわかっていなかったのです。人間には理解できないほど大きな父なる神様は、イエス様を通してでなければ理解できないことを、イエス様は教えてくれたのです。あのみことばは、ピリポに答えたように、イエス様が私に直接話しかけてくれた言葉であると確信しました。さらに、もう一人の助け主である聖霊様は、すでに私の内に住んでくださっていることもこのときわかりました。そして聖霊様に教えられ「イエス・キリストは主である。」(ピリピ2:11)と告白できたのです。イエス様の十字架は、自分の罪のための贖いであったことを心から感謝し、涙をもって悔い改めることができました。私を今まで導いてくださった方はイエス様であると確信しました。人とは比べようもない一千億光年の宇宙を創られた偉大な神様が、私に話しかけ、直接働きかけてくださったという素晴らしい体験が、人の栄誉を求めてきた私を変えました。神様の最大の恵みは、本来の人間には信じることが不可能なほど偉大な、全能の神さまを信じることのできる信仰を、信仰の創始者であり完成者であるイエス様によって与えられたことであると確信できたのです。

 この体験は、私が特殊な人間だったからではなく、聖書に触れたことによって起こったことなのです。聖書を通して誰でもイエス様に出会うことができるのです。

「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。」 (ヨハネの福音書5章39節)

と聖書にあるとおり、聖書はイエス・キリストを現している書物だからです。