説教 | 北本福音キリスト教会      

2020年11月22日 『決して死を見ることのない人』(ヨハネ8章48-59節)

 先週の日曜日には、毎年行っている「召天者記念礼拝」を持ちました。例年、先に神のもとへと召された方々の遺族や関係の方に案内を送っていますが、今年は、コロナウィルスの感染が続いているので、参加される方は少ないだろうと思っていました。しかし、先週の2回の礼拝と、午後に岡部霊園の教会納骨堂で行われた墓前礼拝には、教会員以外のご遺族の方々が20名近く出席してくださいました。これらの礼拝をとおして、私たちは、先に召された方々が生前私たちのために多くの働きをしてくださったことを思って私たちの感謝の気持ちを表すことと、ご遺族の方々に慰めの時となることを願っています。今日のテーマも死に関することですが、クリスチャンには、死ぬことは、恐れることでも、忌み嫌うものでもなく、無視することでもなく、楽しみに待つことのできるものであることを、これからも人々に伝えて行きたいと思います。

 今日もヨハネの福音書を読み続けて行きますが、今日の個所も、前回に続いて、ユダヤ教の指導者たちと主イエスの論争が続いています。前回、主イエスは、ユダヤ人たちに対して「あなたがたは悪魔の子である」と言われたので、彼らは激怒しました。彼らは、自分たちこそ律法を守ることに熱心であり、他の人々よりもまじめに生きていると自慢していました。しかし、彼らは宗教的な活動には熱心でしたが、神の御心に従わず、父なる神が遣わされた御子イエスを信じなかったので、主イエスは彼らのことを「悪魔の子」と呼んだのです。彼らは、主イエスこそ「自分たちに向かってそんなことを言うとは、気が狂っているに違いない」と思いました。それで、彼らは主イエスに向かって言いました。48節を読みましょう。「ユダヤ人たちはイエスに答えて言った。「あなたはサマリヤ人で悪霊につかれている、と私たちが言うのも当然ではないか。」当時、ユダヤ人が誰かに向かって「おまえはサマリヤ人だ」と言うのは最大の侮辱の言葉でした。ユダヤ人は自分たちの血の中に他の民族の血が混じっていないことを最大の誇りにしていました。サマリア人人というのはユダヤ人と異邦人の両方の血が混じっていたために、ユダヤ人は彼らを異邦人以上に軽蔑していました。なぜ、彼らはイエスを「サマリヤ人だ」と言ったのでしょうか。それは、イエスは何度かサマリヤを訪れていたからです。サマリヤはユダヤ地方の北に隣接していて、都のエルサレムと、サマリヤの北のガリラヤ地方の間を行き来するには、サマリヤを通るのが自然なのですが、ユダヤ人たちは、サマリヤ人と一切関わりを持ちたくなかったので、わざわざ遠回りをして行き来していました。従って、イエスがサマリヤへ行ったということは彼らにとって大変ショッキングなことだったのです。ユダヤ人はサマリヤ人をそれほどまでに嫌っていましたが、主イエスはすべての人を愛しておられました。主は、すべての人を、国籍や血筋に関係なく、神様が造られた大切な一人の人間として見ておられます。ヨハネの福音書の4章で、主イエスがサマリヤへ行かれたのも、罪深い生活から抜け出せずに苦しんでいた一人の女性を救うためでした。したがって、主イエスはユダヤ人たちから「おまえはサマリヤ人だ」と言われても何も気にすることなく、彼らの言葉を無視しておられます。しかし、ユダヤ人たちは、さらにイエスを侮辱するために、「お前は悪霊に憑かれている」と言った言葉には、それが事実と正反対のことだったので、すぐに訂正しておられます。
ただ、さすがイエス様ですね。これだけ侮辱的なことを言われても、まったく冷静に、「わたしは悪霊につかれてはいません。」と事実だけを述べられました。パウロは、ローマ人への手紙の中で「悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」と言っています。イエスはユダヤ人たちの悪に対して悪で答えることをしておられません。主イエスが彼らに復讐をしなかったのは、主はいつも父なる神様にすべてをゆだねておられたからです。復讐しないことによって、私たちは復讐の連鎖を断ち切ることができます。また、悪に対して全で答える時に、もしかすると相手が自分のしたことを恥ずかしいと思って、悔い改めるかも知れません。また、悪に愛して悪で答えると、相手を傷つけるだけではなく、自分自身の品性にも傷を与えてしまいます。私たちも、信仰を持っていることで、周囲の人々からひどい言葉を投げかけられるかもしれません。しかし、その悪に悪で答えないで、すべてを神様に委ねましょう。神は公正な神です。悪を裁く神です。神の公正な裁きに委ねることが大切です。

それに続いて主イエスが言われた言葉が今日のポイントとなる言葉です。51節を読みましょう。「まことに、まことに、あなたがたに言います。だれでもわたしの言葉を守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることはありません。」誰でも、言葉にしなくても、心のどこかに死ぬことを恐れる気持ちがあります。したがって、今日の主イエスの言葉は、私たちにとって、本当に大きな約束です。イエスが語られた約束を、今日は3つの点から見てみたいと思います。

(1)約束を手に入れる条件
主イエスが言われた条件とは「わたしの言葉をまもるなら」という条件です。これは素晴らしい条件だと思います。というのはその他には何の条件もないからです。例えば、私たちが就職しようとするとき、いろいろな条件があります。特別な技術を持っているか、英語が話せるかとか、学歴、健康など、さまざまな条件があるので、誰もが自分の好きな仕事につけるとは限りません。しかし、ここで主イエスが言われた条件は一つだけです。しかも、誰にでもできることです。「イエスのことばを守る」という条件です。例え信仰が弱い人でも、イエスの言葉を守るなら約束は与えられます。過去に大きな罪を犯した人であっても、イエスの言葉を守るならこの約束は与えられています。ただ、キリストの言葉を守るには必要なことがあります。第一に、イエスキリストを信じることです。主イエスはご自身が神であると言われましたから、イエスの言葉を信じるには、まず、主イエスを救い主、神として信じなければなりません。次に「イエスのことばをまもる」とは、イエスのことばを聞いて、それに基づいて行動することが含まれます。私たちは、人が話しているのを聞いていても、何となく聞いているだけで、それに基づいて行動する人は少ないです。飛行機に乗るとかならず離陸前に、「安全のための注意」がビデオに映されますが、真剣に聞いている人は少ないです。だれも事故に合うと思っていないからです。こんな物語があります。一匹のリスが敵の犬に追いかけられて木の上に登りました。木の下で犬が大声で「お前をつかまえてやる」と叫んでいますが、リスは慌てることなくじっとしています。なぜなら、犬は木を登れないことを知っているからです。しかし、犬が「わかった。じゃあお前を捕まえるために木に登れる友達を連れてきて、そいつにお前を捕まえさせやるぞ。」と叫びました。すると、リスは慌てて、もっと高いところに登って行ったというのです。この時、リスは二つの聞き方をしています。最初は、聞いても行動に移しませんでしたが、二度目は行動に移しました。どこが違ったのでしょうか。相手が言った言葉を真剣に受けとめたからです。私たちはそのように主イエスの言葉を聞かなければなりません。また、ここで、「守る」と訳されている言葉は、例えば、看守が囚人を見張るという意味で用いられる言葉です。刑務所の看守は、囚人が逃げないように、暴れないように、いつもしっかり見張っています。私たちは、主イエスが言われた言葉をそのような責任と緊張感を持って聞いているでしょうか。イエスの言葉に従って行動しているでしょうか。主イエスのことばをまもるものはだれでも、たましいが死ぬことはありません。

(2)どんな約束なのか
主イエスは、「だれでもわたしの言葉を守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることはありません。」と言われましたが、これはどういう意味なのでしょうか。もちろん、これはからだの死を意味するのではありません。主イエスご自身、私たちの身代わりとなるために十字架で死なれましたし、その後、2000年間、主イエスを信じるクリスチャンたちも皆、死にました。主イエスが言われた「決して死を見ることはありません」というのは体のことではなく、私たちのたましいのことを指しています。聖書は、人間は、目に見える体と目に見えないたましいが一つになって生きていると教えています。からだは、どんなに健康に気を付けていても80歳から90歳になると死ぬときが来ます。人間の体が死ぬとき、その人のたましいは肉体から離れます。聖書は、一体となっていた体とたましいが離れることを、私たちが一般に考えている死であると教えています。私の友人の宣教師で、ポール・サンデーという人がいました。彼は10年前、60歳になる前にガンで死にました。彼は30歳のころにステージ4の大腸がんになり、病院のドクターからは死を宣告されていました。彼の親しいクリスチャンが集まって彼のために祈っていましたら、彼は奇跡的に癒されて、それから30年生きることができました。彼はある日臨死体験をしていました。彼によると、彼の魂が、自分の体から抜け出して、病室の天井から自分の体を見下ろしていたそうです。それから暗いトンネルのようなところをサーっと動き出したのですが、なぜか、その時に、体に戻らないといけないという思いが起こされたそうで、そう思った時にさっと自分の魂が体に戻ったというのです。私は臨死体験のことはよくわかりませんが、聖書は、私たちの肉体は必ずいつか朽ち果てるが、目に見えない自分である魂は永遠に生きると教えています。そして、イエスを信じる人の魂は神のもとへと移され、イエスを信じない人の魂は永遠に神から引き離されると教えています。魂が永遠に神様から引き離される状態を、聖書は魂の死、霊的な死と呼びます。これは、罪を持っている人間の最終結果なのです。しかし、主イエスが十字架にかかって、魂が死ぬことがないように、私たちの罪を身代わりに背負って死んでくださいましたが、このことを信じた人々は、決して、罪の最終結果を受けることなく、永遠に、神のもとで安らぐと約束されています。神から永遠に引き離されるのは恐ろしいことです。赤ちゃんが母親から引き離されると激しく泣きます。それは、その経験は赤ちゃんにとって本当に恐ろしいことだかれです。しかし、神様から引き離されることは、それとは比べ物にならないほど恐ろしいことです。その恐ろしい経験を主イエスが私たちの代わりに十字架の上で経験してくださいました。主イエスは午前9時に十字架にかけられましたが、お昼の12時から午後3時まであたりが真っ暗になりました。これは、主イエスが父なる神から引き離されるという苦しみを味わっておられたことを示す現象でした。主イエスが「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれましたが、それは、主イエスが私たちに代わって、父なる神から引き離されるという恐ろしさを経験しておられたからです。主イエスのことばをまもるものは決して死ぬことはありません。永遠に父なる神から引き離されることはないのです。だから、クリスチャンは、死に対して、不安はありますが、決して絶望ではありません。むしろ、新しい栄光に満ちた世界への出発です。もちろん、体の死には痛みをともなうことがあるでしょう。体の死には痛みがあっても、私たちのいのちは本当のふるさとに向かって新しい出発をすることを知っているなら、その痛みをも喜びに変わるのではないでしょうか。

(3)この約束の確かさ
最後に、この約束は確かであることを主イエスご自身がはっきりと言われていることを覚えたいと思います。もう一度51節を読みましょう。「まことに、まことに、あなたがたに言います。だれでもわたしの言葉を守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることはありません。」最初に、主イエスは、「まことに、まことに、あなたがたに言います。」と言われましたが、主イエスは、本当に大事なこと、絶対に聞き漏らしてはならないことをいう時に、この表現を使われました。日本語では、「まことに、まことに、あなたがたに言います」と訳されていますが、元々のギリシャ語聖書には「アーメン、アーメン、あなたがたに言います。」と書かれています。「アーメン」とは、いつもお祈りの終わりに唱えていますが、これは「本当にそのとおりです。」という意味で、自分の祈った祈りは真実な心からの祈りであることを示す言葉です。「ギリシャ語」のアーメンは、実は、旧約聖書の「アーメン」というヘブル語の言葉をギリシャ語の文字で書き換えただけの言葉です。ヘブル語のアーメンも、旧約聖書の中でギリシャ語と同じ意味で使われています。例えば、申命記には何度も「民はみな、アーメンと言いなさい。」という言葉が出て来ます。もともと、ヘブル語の「アーメン」という言葉は、「しっかりした」「揺れ動くことがない」と言った意味を持つ「アーマン」という言葉から造られた言葉で、「その通りです」という意味で使われていました。また、アーマンという言葉からは「杭を打ち込む」の「杭」という言葉も作られています。つまり神様の約束は杭で打ち込まれたほどに確かなものということです。人間が言ったのではなく、神である主イエスが「アーメン、アーメンあなたがたに言います。」と保証されたのですから、私たちは何も迷うことはありません。ヘブル語のアーメンが「アーメン」ではなく、別の言葉で訳されている聖句があります。それはイザヤ書の65章16節です。16-17節を読みましょう。「この地で祝福される者は、まことの神によって祝福され、この地で誓う者は、まことの神によって誓う。かつての苦難は忘れられ、わたしの目から隠されるからだ。見よ。わたしは新しい天と新しい地を創造する。先のことは思いだされず、心に上ることもない。」この16節の「まことの神」はヘブル語では「アーメンの神」まことの神の約束は必ず実現します。16節に約束されているように、私たちの以前の苦難は忘れられて、すっかり跡形もなくなり、私たちは新しい天と新しい地において、まったく新しい第二の人生を始めることになるのです。

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