説教 | 北本福音キリスト教会      

2019年2月17日 『神が建てる教会』(詩篇127篇)

 今日、私たちは礼拝後に、第34回目の教会総会を行います。教会は1983年に始まり、教会総会は、このグレースチャペルが建てられた1985年から始まりましたので、今年34回目になります。私がこの教会に通い始めて32年、32年前は、私は自分がこの教会の牧師になることなど、夢にも思っていませんでした。私は東京のカナダ大使館に仕事が与えられたので大阪からこちらに引っ越して来ました。1987年4月です。じつはその一年前にこの教会の最初の牧師であった小田彰先生との出会いがあり、その結果、仕事場は東京の赤坂でしたが、北本にアパートを借り、この教会に通うようになりました。ところが、小田先生が急に教会を辞めることになり、しばらくの間、当時伝道者として全国の教会で活躍しておられた本田弘慈先生に教会の代表役員になっていただきました。本田先生は、この教会の牧師になる方を探してくださったのですが、見つかりませんでした。そんな中で、神様は、どういう訳か、私のような人間に牧師になるようにとチャレンジされました。大使館の職員として33歳からの人生を生きるつもりでしたが、神様は私の人生の方向を変更されました。私は大阪から出て来て4年で大使館の仕事を止め、神学校に入学し4年後に卒業して、この教会の牧師になりました。私は、このようにして北本福音キリスト教会に導かれましたが、今日、礼拝に集まっておられる方も、一人一人に神様の計画があって、この教会に導かれた方々です。今日の説教題は「神が建てる教会」ですが、北本福音キリスト教会は、人間の計画や考えでここまで来たのではなく、すべてが神様の計画と導きの中にあって今の教会になりました。そこには、今日集まっている一人一人が、私と同じように不思議な導きの中で、この教会に加わっています。私たちが神様によって集められて、この教会が立ち上がっていることを忘れてはなりません。

 今日は、詩篇の127篇から神が建て上げる教会ということについて考えたいと思います。この詩篇を書いたのはソロモン王となっています。ソロモン王はダビデ王の息子で、エルサレムの神殿を建て上げた人物です。また、同時に、彼も家庭においては父親であって、子どもを育て家庭を築く者でもありました。彼はダビデ王が作り上げたイスラエル帝国を引き継ぎましたが、特に、エルサレムの神殿を建てることを任されていました。大きな働きを任されて、彼はそのために懸命に働きましたが、彼はいつも、神殿は神の家であって、神のために働くことがどういうものなのかを考えていたと思います。詩篇127篇はそのような状況で書かれたものですが、私たちにとっても、家を建てることは、自分の人生を建て上げることにもつながりますし、自分の家庭を築くことにも当てはまることです。建物を建てる時に最も大切なのは土台の部分ですが、聖書は、私たちの人生の土台は神であり、キリストであることを最初から最後まで一貫して教えています。
私たちの周りの人々の多くは神様を信じていません。彼らは神様を信じることを拒否し、クリスチャンの生き方を拒否しています。そのような人々の囲まれている中で、私たちがどのように生きるべきなのかということを、この詩篇から学ぶことができます。また、そのことは、教会の在り方についても当てはまります。教会と訳されている言葉はギリシャ語で「エクレシア」と言うのですが、これは「呼び出された人々の集まり」という意味を持っています。私たちは「教会」という言葉を聞くと、建物を連想しますが、教会とは建物ではなく、そこに集まっている人々の集まりを指します。クリスチャンは、罪に縛られた生きていたところから、私たちが神様によって呼び出され、そして、教会という場で共に信仰生活をするように呼び集められた者たちなのです。一人一人が信仰にしっかり立ち、お互いが助け合い支え合って群れ全体が強くなります。そのような教会の内面的な建て上げと、実際に教会を建て上げることとを詩篇127篇とハガイ書から学びたいと思います。

1)建て上げることと見張ること(1節)
 建物を壊すのは、爆薬を使えば一瞬で壊すことができます。しかし、一つの建物を建て上げるには、多くの時間とエネルギーと知恵が必要です。神様は、私たち一人一人に、壊すのではなく建て上げる人になるようにと言われています。私たちは、家だけでなく、自分の人生も、自分の家族も、自分たちの教会も、すべて建て上げるために生かされています。しかし、自分の人生を建て上げるのも、自分の家庭を築くのも、また教会を建て上げるのも、詩篇の記者が言っているのは神様の導きや助けや働きがなかったら、その働きは空しいと述べています。この詩篇を書いたとされるソロモンはすぐれた知恵を持っていることで有名でした。賢い人は自分の知恵ですべてのことを行おうとしがちです。才能のある人は何よりも自分の才能に頼りがちです。しかし、世界一の知恵者であったソロモンが、「主が家を建てるのでなければ建てる者の働きはむなしい。」と言っていることは非常に意味が深いと思います。建物を建てる時、もちろん、人間の側でやるべきことがたくさんあります。ルカの福音書14章28節で主イエスは「塔を建てようとするとき、まず座って、完成させるのに十分な金があるかどうか、費用を計算しない人がいるでしょうか。」と言われました。いい加減な計算をして塔を建て始めると、完成しないまま終わってしまう危険性があります。そのように、人間の側でするべきことはしなければなりませんが、神様を無視して、神様をまったく介入させずに建物を建て上げることは、人間的にはどうであれ、神様の目からすると、それは神様が喜ぶ建物ではありません。創世記にバベルの塔のことが描かれていますが、バベルの塔は神に逆らって建てた建物でしたので、結局、完成することはありませんでした。ですから、建物を建てる時も、私たちは、いつも、神様のみこころを求め、神様の助けと導きを受けながら、建てなければなりません。この建設は自分の建設ではなく、神様の建設なのだということを決して忘れてはなりません。自分の人生や家庭を築く時も同じです。神様への信仰を土台にしていないと、神様の祝福がなく、壊れるときは一気に壊れてしまいます。
 また、建物を建てる時も、家庭を築く時も、建てるだけでなく、その建物が壊されることがないように見張ることも必要になります。昔の街は城壁で囲まれていました。そして、城壁には必ず見張りのための塔がありました。敵が攻めて来たらすぐに門を閉めて攻撃に備える必要があったからです。ユダヤ人がバビロンに強制連行された後、彼らは自分たちの国に帰ることが許されました。ユダヤ人たちは何回かに分かれて祖国に帰りました。彼らが帰ってみるとエルサレムの街も神殿も荒れ果てていました。そこで彼らはエルサレムの神殿と城壁の再建に取り掛かるのです。ネヘミヤがエルサレムの城壁を再建していた時、工事をしていた人たちは片手に工事用の道具を持ち、もう一方の手は投げやりを持っていました。彼らの働きに対する妨害はそれほどひどかったのです。1節の後半で「主が町を守るのでなければ守る者の見張りはむなしい。」と言われているのは、私たちが自分の力を過信しないようにという警告のメッセージだと思います。神様の助けがなくても、自分の力で自分の人生や家庭を守ることができると考えるのは危険です。私たちの周りにどんな危険が潜んでいるか、私たちには分からないからです。しかし、神様は、いつでも積極的に私たちを守ろうとしてくださいます。神様は何度も繰り返して私たちに向かって「恐れるな。」と言っておられます。恐れる必要がない理由を神ご自身がいろいろ述べておられます。神様の言葉を並べてみましょう。「わたしがあなたの救い主であるからだ。」「わたしがあなたとともにいるからだ。」「わたしがあなたの右の手を固く握っているからだ。」「私は天と地とその中にあるすべてのものを作った神なのだ。」全知全能の神がこのように保証しておられるのですから、私たちが神により頼むなら恐れる必要はありません。神様の見張りがない町はどれほど外からの攻撃に弱いでしょう。神様の守りがない人生はどれほどもろいものでしょうか。しかし、神様が私たちを見張っておられることを知っているなら、恐れることはありません。詩篇の115篇には、繰り返して、「主に信頼せよ。」と言われています。それは、主は私たちのことをみこころに留めて祝福してくださるからです。「みこころに留める」と訳されている部分は英語では「mindful」という言葉が使われています。とても素敵な言葉です。マインドは心、フルとは一杯という意味ですから、神様の心はいつも私のことでいっぱいになっているということを意味しています。親が子供の心配をするように、神様がいつも私のことで心をいっぱいにして心に留めておられるとは何と素晴らしいことではないでしょうか。心がいっぱいになっているから、神様は私たちに必要なものを備え、私たちを助け、導き、また私たちを慰めてくださることができるのです。

2)生きることを楽しむ(2節)
 1節の言葉が、私たちが自分自身を過信することへの警告の言葉であるとすると、2節は、私たちが働きすぎたり、心配して働くことへの警告だと言えるでしょう。もちろん、この言葉は、人々が朝早く起きること、一生懸命に働くこと、そのために夜遅くねることが間違っていると言っているのではありません。人は、神様の守りや助けがあることを知らないで、オーバーワークをすると、精神的に追い込まれたり落ち込んだりすることが多いのではないでしょうか。毎日あくせくと歩き回り、しゃべり続け、結局頭を抱えているような人生を歩んでいないでしょうか。自分の人生の中に神様が働く余地が全くない、そんな生き方には平安がありません。それこそが空しい人生です。むしろ、私たちは時々立ち止まって、手を休めて、目をつぶって、神を思う時を持つことが必要です。一週間に一度礼拝があるのは、一週間張りつめていた心の弦をゆるめることでもあるのです。
 主イエスはある時、こう言われました。「父なる神のみこころを行い、それを成し遂げることは、わたしの食べ物です。」主イエスにとって、父なる神のみこころとは、最終的には十字架で命を落とすことでした。それは大変な働きです。しかし、主イエスは、自分が行っていることは自分を心から愛する父なる神のための働きであることを知っておられました。ですから、主はいやいやながらでなく、仕方がないからやっていることでもなく、使命感と喜びをもって働いておられました。主イエスにとって父なる神のために行うことは、自分の体や魂を満たし、自分を豊かにする食べ物のようだと感じておられました。どんな働きであっても、自分を愛してくださる方のための働きであると思えば、そこには喜びや達成感があります。この詩篇の記者とされるソロモンにはもともと「エディデヤ」という名前がつけられました。(2サムエル12:25)これは「主に愛された者」という意味の名前です。2節に記されているように、私たちは、主イエスを救い主と信じて神の民となっていますから、私たちも皆「主に愛されている者」なのです。この世での働きは皆この世で終わり、やがて消えて行きます。しかし、神のために働いたことはどんなに小さなものであっても、神様に永遠に覚えられ、何一つ無駄になることはありません。私たちも、自分が行っていることが何であれ、自分を愛しておられる神様のために行っていると確信しているなら、その働きは苦痛ではなく喜びになります。
 そして、主は愛する者に眠りをも与えてくださるのです。親は子供を寝かしつけると、自分も一緒に寝ることは少ないと思います。子供が眠っている間に多くの働きをします。人が眠っている間に、神様は様々な働きをしています。私たちは、一日を終える時に「今日はもっと良い働きをするべきだった」と考えてしまう時があると思いますが、主イエスは、そのことも自分に委ねなさいと言っておられます。そして、私たちに「明日のことまで心配しなくてもよいのです。明日のことは明日が心配します。」と言ってくださるのです。私たちが眠っている間に、主は私たちになくてはならないものを備えておられます。無駄な心配をせずに、主に信頼して生きることこそ、信仰者の生きる道です。

3)子どもと言う祝福
 127篇のテーマは家を建てるということですが、家とは、家族であり、教会であり、また町であり、大きく言えば国でもあります。家を建てる時も、教会を建てる時も、町を築く時も、もし、建てた家や教会や町が長く立ち続けるためには、働きを続けて行く次の世代が必要です。この詩篇の内容は、バビロン捕囚から帰って来たユダヤ人たちの時代を描いているとも解釈されるのですが、バビロンから帰って来たユダヤ人たちは数が少なかったため、若い人々が結婚をして家族を築くことは特に重要なことでした。私たちの教会でも、一人一人のこどもたちは特に大切です。4節では、若い時の子どもたちは、実に、勇士の手にある矢のようだ。」と言われています。当時のイスラエルでは子供たちが成長して立派な兵士になることによって町は守られました。教会にとっては、子供たちが神様の真理をしっかりと学び、神を愛する者として成長するなら、それらの子どもたちは家庭や教会を守る大切な武器、働き人になるのです。それほどに、主を信じる子供を育てる事は大切なことなのです。5節の「門」と書かれていますが、エルサレムのような大きな町は城壁で囲まれていて、中に入るには門を通らなければなりませんでした。敵も、街中に入るには門を通りました。門と言うのは大きなお寺の門のように、単なる扉ではなく、小さな広場みたいになっていて、当時、人々はこの門で長老たちが話し合いをしたり、裁判をしたりしていました。そこは町を守るために最も重要な場所だったのです。子供たちが多くいるならば、敵が門から攻撃してきても、その戦いに勝利する確率が高くなります。つまり、教会にとって、子どもたちを育てることが絶対に必要なことです。私たちは、子どものために祈りましょう。子供のためによい模範になりましょう。私たち大人の言葉や行いによって子供たちがつまづくことのないように気を付けましょう。教会で子どもたちがちゃんとケアされているか、守られているか見守って行きましょう。今、世の中では子どもの虐待が大きな問題になっています。教会こそが、主イエスのように子供を愛し、子どもを守る場所でなければなりません。

 教会や家を建て上げることは決して簡単なことではありません。しかし、それは私たちを愛しておられる主のための働きです。私たちが建て上げる一人の人間、一つの家庭、一つの教会、これらはみな、偉大な神様のはるかに大きな計画、つまりこの地に神の国を建て上げるという計画の一部となっていることを忘れてはなりません。あなたの人生は、じつは壮大な人生なのです。

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