2013年4月14日 『イエスを愛する者となる』(ヨハネ21:15-17) | 説教      

2013年4月14日 『イエスを愛する者となる』(ヨハネ21:15-17)

 主イエスがガリラヤ湖の畔で、7人の弟子たちの前に姿を現された時、主イエスは弟子たちのために朝ごはんを準備しておられました。ペテロは、ヨハネの言葉で、岸辺に立っていたのがイエスであると分かると、岸から100m近く離れた舟の上にいましたが、少しでも早く主イエスに出会うために舟から飛び込みました。彼は主に出会うためにわざわざ上着を着て飛び込みました。必死に泳ぎましたがなかなか岸に着かないので彼ももどかしく思ったことでしょう。彼は全身びしょびしょになって岸に着きました。彼は岸辺で火を起こして魚を焼いている主イエスを見て、弟子生活の3年間の様々な出来事を思い出したとことでしょう。魚が全然獲れなかった翌日に、今回と同じように主イエスからもう一度網を下ろしなさいと言われて、その言葉に従ったらあみが破れそうなほどにたくさんの魚が獲れたこと。ある時、主がひとりの少年が捧げた5つのパンと2匹の魚で5000人以上の人々に食事を与えたこと、そして何よりも、主イエスのそばで燃えている火を見て、ペテロは、数日前に自分が大祭司カヤパの官邸の中庭で焚き火のそばに座っていたことを思い出したに違いありません。彼の心の中は、自分が主イエスを3回も知らないと言ってしまったことをどうしても許すことができず、心の中の葛藤がずっと続いていました。しかし、それはペテロだけではありません。他の弟子たちも、主が逮捕された時に、皆、主を見捨てて逃げて行ったのですから、誰一人、主イエスの前で胸を張っていられる弟子はいなかったはずです。誰もが、主イエスの近くに来て、後ろめたい気持ちを持っていたのです。
 そのような弟子たちに、主は「さあ、来て朝の食事をしなさい。」と言われました。主イエスは、ペテロの心の中の思いを全部知っておられました。彼が信仰的に落ち込んでいて、自分が今後イエスの弟子として生きて行く資格があるのかないのか分からず葛藤していることなど、すべてのペテロの思いを知っておられましたが、今は、まず、ペテロを初め他の弟子たちの体の必要を満たそうとしておられます。そこに主イエスの弟子たちに対する深い愛が込められているように思います。ペテロは一晩中漁をしていましたから、体は疲れきっていましたし、お腹もすいていました。また、彼は、主に会うために湖を泳いで来たので、体はずぶ濡れで冷え切っていました。主は、ペテロに火の近くに来て体を乾かして、暖まって、お腹をいっぱいにして、食事の交わりを楽しみなさいと招いてくださいました。主は、私たちにとって霊的なこと信仰的なことが最も大切な問題であることを知っておられますが、同時に、私たちの肉体的な必要や、この世の生活における必要にも配慮して、私たちのために働いてくださる方です。

(1)ペテロの回復
 主イエスと弟子たちが朝ごはんを食べ終わった時に、主イエスが他の弟子たちの前でペテロに尋ねられました。「ヨハネの子、シモン、あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ここで、主イエスはペテロを本名で呼んでいます。ペテロはギリシャ語のニックネームで「岩」という意味です。ヘブル語では「ケパ」です。この名前は、主イエスがペテロに出会った時につけられたニックネームです。ここで主が敢えて「シモン」という本名で呼ばれたことには意味があります。ペテロに主の弟子になる前の自分を思い出すようにと促しておられるのではないでしょうか。「私に出会う前の自分を思い出しなさい。あなたは自分の弱さを知っているか?」そして、この時、主イエスは「あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか?」と尋ねておられます。「この人たち以上に」とは、一緒に朝ごはんを食べていた他の弟子たちを指しています。弟子たちは、主イエスとともに生活していましたが、彼らの間には相当なライバル意識がありました。彼らはよく自分たちの間で誰が一番偉いのかと議論をしていました。しかも、彼らは十字架の直前になっても論じ合っていました。そして、最後の晩餐の後、主イエスと弟子たちがゲッセマネの園に向かっていたときに、主イエスが「あなたがたはみな、今夜、私のゆえに、つまずきます。」と弟子たちが自分を見捨てることを預言された時に、ペテロは「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」と言っていました。するとその時、主イエスがペテロに「今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います。」と言われたのです。ですから、主イエスがペテロに「この人たち以上に」と言われた時に、ペテロは自分がその時に確信を持って言った言葉を思い出し、そしてそれを実行できなかったことも思い出しました。その時は、ペテロは自分が主イエスのためなら自分のいのちをも捨てることができると確信していました。彼は自分の弱さを知らなかったのです。
 ペテロはイエスの質問にどのように答えているでしょうか。失敗する前のペテロなら、自信満々で「もちろん、ここにいる弟子たち以上にあなたを愛します。」と答えたことでしょう。しかし、彼の答えは違っていました。自分の弱さを知ったペテロは他の人と比べることをしていません。ただ、「はい、主よ。私があなたを愛することは、あなたはご存知です。」と答えました。ここで、「愛する」という言葉を主イエスもペテロも使っていますが、違う言葉が使われています。主イエスは「アガパオー」という言葉を使っておられますが、これはギリシャ語の愛を意味する言葉の中で最も崇高な愛を表す言葉です。その愛は、犠牲を惜しまない、献身的な愛です。そしてそれは神の愛です。一方、ペテロが使っている言葉は「フィレオー」という「親密な兄弟愛」意味する言葉です。この言葉からフィルハーモニー(ハーモニーを愛する)とか、フィラデルフィア(兄弟愛)という言葉が生まれました。ペテロは、主イエスの質問に答える時に、自分が犯した大きな失敗を考えると犠牲的な愛を意味する「アガパオー」を使うことができませんでした。彼は自分の弱さに気がついたのです。そのペテロに対して、主イエスは、「私の羊を飼いなさい。」と言われました。言い換えると「私の弟子として働きなさい。」ということです。
主イエスは再び、ペテロに尋ねられました。「あなたはわたしを愛しますか。」この時も主イエスは最高の愛を意味する「アガパオー」を用いています。しかし、今回は、「この人たち以上に」とは言っておられません。ペテロがもはや、他の人と比べて生きていないことを見られたからです。2回目の質問を聞いてペテロは胸が痛みました。彼は自分がアガペーの愛で主を愛することができないことを知っていたからです。この時も、彼は、「わたしがフィレオーの愛であなたを愛していることは、あなたもご存知でしょう?」という言い方をしています。この答えに対して、主は再び、「わたしの羊を飼いなさい」と言われました。
 さらに主イエスは3度目に言われました。「あなたはわたしを愛しますか?」3回目の質問の時に、主イエスは「愛する」という言葉をアガパオーからフィレオーに変えられました。主はペテロの言葉をそのままに信じたのです。ですから3回目の主イエスの言葉をもう少し詳しく言い表すと、「ペテロ、あなたは、今自分の言葉で言ったように兄弟愛の愛で私を愛するか。」という意味です。主イエスの最初の質問は、ペテロが他の弟子たち以上に私を愛することができるのかというチャレンジであり、2回目は、ペテロは本当に私を愛する愛を持っているのかというチャレンジであり、3回目は、ペテロは自分が告白しているように兄弟愛の愛で私を愛するのかというチャレンジでした。ペテロは主イエスが3回質問をしたので心が痛みました。ペテロは心が痛みましたが、真実な心で答えました。「主よ。あなたはいっさいのことをご存知です。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」いっさいのことをご存知ですとは、自分が以前は自分を過信していたこと、他の弟子よりも自分は優秀であると思っていたこと、しかし、恥ずかしくも、自分の誓いを破って主イエスを知らないと3度も言ってしまったこと、彼は自分の弱さ、自分の罪を全部認めたうえで、主イエスをできる限り愛しますという告白をしているのです。主イエスはペテロの答えを聞いて3度繰り返して「わたしの羊を飼いなさい」彼に言われました。「羊を飼う」とは、教会のクリスチャンの群れを養う、つまり教会の指導者になりなさいということです。主イエスはペテロに最も重大な任務に彼を任命しておられるのです。しかも、主イエスは、他の弟子たちが聞いている所で、つまり公の場所で、ペテロを教会の指導者に任命されました。他の弟子の中には、ペテロのリーダーとしての資格を疑っていた者もいたかも知れませんが、ペテロが主イエスから直接任命を受けたのですから、誰も文句は言えなかったはずです。このようにして、主イエスは、ペテロの信仰も弟子としての立場も回復してくださいました

(2)最も大切なものは愛である。
 主イエスが3回繰り返してペテロに尋ねられた質問は、私たちには何を教えるでしょうか。「あなたは私を愛するか」神様が私たちに求めておられるのは、何にもまさって私たちが神を愛しているかということです。ペテロはイエスを否定する前は、自分が自分の命を捨てられるほどに主を愛していると思い込んでいましたが、彼にはその愛を実行する力がありませんでした。彼はまだ自分の本当の姿、自分の弱さを知らなかったからです。そのようなペテロを初代教会のリーダーとして役に立つ者とするために、復活のイエスが求めたものは、ペテロの知識でもなく、技術でもなく、根性でもなく、主を本当に愛する心でした。すべてのクリスチャンに神様が最も大切なものとして求められるのは、ペテロに求めたのと同じ主イエスに対する愛なのです。信仰生活で最も大切なことは、私たちがどれだけ神様を本当に愛しているかということです。これは旧約聖書の時代から神様がはっきりと示しておられます。申命記6章4-5節はユダヤ人たちが最も大切な律法として考えているものです。「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」主イエスご自身も、若い役人から最も大切な戒めは何かと尋ねられた時に、この申命記6章4,5節の言葉を引用されました。私たちの信仰生活にはいろいろなものが関わっており、どれも大切なものです。礼拝に出ること、信徒の交わり、聖書の学び、伝道、奉仕、献金などがありますが、もし、私たちが神を愛することを第一にしなければ、私たちがどれほど一生懸命に行なったとしても、神様にとっては、うるさいシンバルのような耳障りなものになってしまいます。
 ちょっと想像してみてください。あなたは、今、主イエスと共にガリラヤ湖の畔に立っています。そして、主イエスがあなたの顔をじっと見つめて尋ねておられます。「あなたは私を愛するか?他の誰かと比べるのでなく、あなたは、本当に私を愛するか?」アガペーの完全な愛ではなくても、フィレオーの友を愛するような親しい気持ちを私に対して持っているか?」主イエスがあなたに求めておられるのは主イエスに対する純粋な愛なのです。私たちが主イエスを愛するようになるには、まず、自分が本当に罪人であることを認めなければなりません。なぜなら、自分の罪が主イエスの十字架によってすべて赦されたことの意味を本当に知っているなら、私たちは、主イエスを愛さずにはいられないからです。主イエスは、私たちにとってアクセサリーのような存在ではありません。主イエスがいなければ、私たちのいのちは必ず滅ぶのです。その滅びから救い出してくださったいのちの恩人が主イエスです。あなたは、主イエスを愛していますか。本当に愛していますか。マザー・テレサがなぜ、あのように自分自身を犠牲にして貧しい人々のために生きることができたのでしょうか。彼女は、病気で死にゆく人々の足を洗う時に、いつもイエス様の足を洗っているつもりで洗っていました。私たちがすることはどんな小さなことでも主イエスのために行うことなのです。そのことを主イエスは全部知っておられます。ペテロは言いました。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」あなたは主イエスを愛していますか?

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