2013年4月28日 『主イエスに従う者になる』(ヨハネ21章18~23節) | 説教      

2013年4月28日 『主イエスに従う者になる』(ヨハネ21章18~23節)

 4月の礼拝メッセージは、主イエスが復活された後、弟子たちとどのように関わられたのかをヨハネの福音書21章から見てきました。主イエスは復活された後、最初に女性たちの前に現れました。それから、第一コリント15章5節の言葉によると、11人の弟子たちの前に現れる前に、ペテロ一人にだけ現れておられます。「また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れた」ペテロは、すべてを捨てて従ってきた主イエスを3回「知らない」と言ってしまったことを大泣きするほどに後悔し、ひどい自己嫌悪に陥っていました。以前は、自分が十二弟子の中で一番忠実な弟子だと自信満々のペテロでしたが、今はすべての自信を失い、自分はイエスの弟子と言えるような人間なのかと心にいろいろな葛藤を感じていました。復活の主イエスは、そのようなペテロが一人でいるときに、特別に現れてくださって、ペテロを慰め励まされたのだと思います。そして、その後、主イエスは、元々の活動の拠点であり、弟子たちの故郷でもあるイスラエル北部のガリラヤ地方で、再び弟子たちをお会いになりました。主イエスは弟子たちのために火を起して魚を焼いて、朝食の用意をなさいました。主イエスは、弟子たちの信仰的な必要だけでなく、毎日の生活の必要をも満たしてくださることが分かります。その食事が終わった後、主イエスは、他の弟子たちがいる前で、ペテロに「あなたは私を愛するか?」という質問を3回繰り返してたずねられました。それは、他の弟子たちの前で、言い換えれば、公の場所で、ペテロの信仰を回復させ、もう一度、宣教の働きに召すためでした。主イエスは、ペテロに3回質問を繰り返すことによって、ペテロの信仰を回復してくださいました。また、同時に、主イエスは3回繰り返してペテロを大切な働きに任命されました。15節では「わたしの小羊を飼いなさい。」16節では、「わたしの羊を牧しなさい。」17節では、「わたしの羊を飼いなさい。」と言われました。これらは、みな、ペテロが信者を指導するリーダーになるようにということです。ユダヤ人の文化では、証人がいるところで、同じことを3回繰り返して何かを言うのは、それが非常に重大なことであるという意味がありました。彼は、この主イエスとの会話によって、自分の信仰を回復していただきましたが、彼には、今後、主イエスの命令に従って生きる、主イエスと教会に仕える人生が待っていました。

(1)主に仕えて生きることは簡単なことではない(18-19節)
 18節で、主イエスはペテロに将来、困難な人生が待っていることを預言されました。「まことに、まことにあなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたいところを歩きました。しかし、年を取ると、あなたは自分の手を伸ばし、他の人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」この預言は、何を意味しているのでしょうか。主イエスご自身が19節で言っておられますが、これはペテロがどのような死に方をして神の栄光を表すかを示した預言でした。とくに「あなたは手を伸ばし」という表現は、手を伸ばして十字架にはりつけになることを意味しているようです。ペテロは、実際に、十字架にはりつけになって死んだと言われています。ローマ皇帝ネロの時代に、クリスチャンに対する激しい迫害が起こって、その時にペテロも、また、使徒パウロも、処刑されたのです。人間的に見ると、悲惨な人生の最期に思われるでしょう。十字架というのは屈辱と呪いと悪を全部まとめて表すようなおぞましい刑罰でした。常識のある人は「十字架」という言葉を口にすることはありませんでした。また、十字架刑は見せしめのためのものでしたので、人通りの多い道路に面した場所に十字架は立てられました。ですから、子どもを連れた親たちは、十字架刑が行われていることを知ると、子供にその場面を見せないように、わざわざ遠回りをして別の道を通りました。十字架とは、当時の人にとってはそれほど醜いものだったのです。ですから、十字架につけられて死んだ人は、社会にとって本当に迷惑な存在だと見なされていました。ペテロもそのように当時の人からは見られていたかも知れません。しかし、主イエスは言われたのです。「ペテロは十字につけられて死ぬことによって神の栄光を現すのだ。」主イエスは、ペテロに、本当に自分に仕えて生きようとするのなら、それには困難が伴うことを知らせようと思われました。そのことは、私たちに対しても同じです。主イエスを本当に信じて、この世の考え方や価値観に妥協しないで生きようとするならば、この世においては困難を経験すると、主イエスご自身が言われています。ヨハネの福音書16章33節で主イエスは言われました。「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」ここで主イエスが「勇敢でありなさい。」と言われましたが、その理由は、「わたしはすでに世に勝った」からだと言われています。これは主が十字架にかかる前に言われた言葉なのですが、主は十字架が勝利の道であることを確信しておられたので、すでに世に勝ったと言われました。その世に勝つ主イエスは、「勝利者である私があなたたちと共にいることをいつも覚えていて、勇敢でありなさい。」と言われたのです。私たちの将来に、何が待っているか、分かりません。しかし、私たちが信じている救い主イエス・キリストは、この世に打ち勝った勝利者であることを忘れてはいけません。

(2)主に仕える人生は人によって様々である(20-22節)
 主イエスとペテロは、ガリラヤ湖のほとりで他の弟子たちと一緒の食事を終わってから、二人で話し合っていましたが、おそらく、ペテロの将来のことについて話すときには、他の弟子たちから少し離れて、二人きりの所で話合っていたと思います。その時に、もう一人の弟子、ペテロと仲の良かったヨハネが後ろからついて来ていました。ペテロが、主イエスから自分の将来には大きな困難があることを聞いた時に、少し不安を感じ、心が揺れたのではないでしょうか。ペテロが後ろからヨハネがついて来るのに気がついて、主イエスに尋ねました。(21節)「主よ、この人はどうですか?」彼は、自分の仲間のヨハネの将来についても知りたくなりました。人は、いつも、どこかで他の人と比べて生きています。この時、ペテロは、自分だけが困難を経験するのは不公平だと思ったか、それとも、友達のヨハネにも将来の試練が襲うのかとヨハネのことを心配したのか、ヨハネの将来について尋ねましたが、いずれにせよ、ペテロは心のどこかで、自分の人生とヨハネの人生を比べていました。それに対する主イエスは、「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、あなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」と答えられました。主イエスはペテロに自分の人生と他の人の人生を比べるのはやめなさいと言われました。私たちは、一人一人、世界の中でただひとりのユニークな存在として創られました。私たちの人間としての価値、私たちの使命、私たちに与えられる神様の祝福、それらはすべて、他の人と比べて決まるものではありません。他の人の人生が、この世的に見ると、自分よりも楽なように見えたり、自分よりも祝福されているように思えたりする時があるかも知れません。しかし、この世のことはすべて一時的で、この世で楽な人生が本当の祝福だとは限りませんし、また神様の栄光を現すことにはつながりません。むしろその反対かも知れません。

(3)わたしに従ってきなさい。(19-22節)
 私たちに求められているのは、主イエスに従って行くことです。「私に従いなさい。」ペテロにとって、この言葉は非常に意味のある言葉でした。3年ほど前に、ペテロがガリラヤ湖で漁師をしていた時に、主イエスは彼に同じ言葉を言われました。その時は、ペテロには、主に従うことにどのようなことが含まれるのかよく知らなかったと思いますが、彼は仕事を捨てて主イエスに従って行きました。そして、今、主イエスはもう一度ペテロに「私に従いなさい」と言われましたが、今回、ペテロにとって、この言葉の持つ意味は遥かに重いものだったに違いありません。彼はゲッセマネの園で主イエスの祈りを聞きました。主イエスが逮捕された時に、主イエスを守ることはできませんでした。主イエスの後について行きましたが、主を知らないと3回行ってしまいました。その後、主イエスから慰められ、そして、失敗から回復してもらい、そしてもう一度主イエスから教会の働きに召されました。それらの経験をした後に、主イエスから「従って来なさい」と言われた時、ペテロは最初の時とは全く違う強い決意をもってイエスの言葉に従って行きました。
この福音書の最後の場面は、弟子の中でペテロとヨハネが主イエスについて行くところで終わっています。そして、その続きは、使徒の働きに描かれていますが、前半の箇所には、ペテロとヨハネが中心になって、初代教会のリーダーとして大きな働きをしたことが描かれています。二人は、主から言われたように主に従って行きました。二人とも、その人生は困難なものでした。ペテロは、先ほど述べたように、皇帝ネロの時代に十字架につけられて殉教しました。ヨハネは、信仰のためにトルコ沖のパトモスという島に島流しになりました。しかし、ヨハネはそこで神様からの幻を受けて黙示録を書きました。彼は、その後島流しの刑から自由の身となり、エペソ教会の指導者として生涯を全うしたと言われています。しかし、エペソにはアルテミスという女神の大神殿があったために、キリスト教会に対する迫害は他の地域とは比較にならないほど激しいものでした。二人とも、それぞれの生き方を通して神様に栄光を表しました。私たちの人生は彼らと同じではありませんが、私たちは、私たちの生き方を通して、神様の栄光を現す者でありたいと思います。他の人と比べるのではなく、あなたは、あなたに与えられた道で、忠実に神様に従うことです。たとえそれが、この世的に見ると困難な生涯であるとしても、パウロが述べたように、神様は私たちに義の冠を与えようと待っておられます。この地上の出来事は、すべて、この地上で終わってしまいます。どんなに財産を築いても、どんなに知識を増やそうとも、どのような権威や権力を持っていたとしても、(もちろん、それらも価値あるものですが)、それらの価値や存在は、肉体の死を迎える時に消えてしまいます。死がこれらのものすべてを消してしまうからです。しかし、主イエスを救い主と信じるクリスチャンにとって、死がすべてを消すことはありません。なぜなら、神様に栄光を現すことは、永遠に価値のあることだからです。パウロは第一コリント15章56、57節で次のように書いています。「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべてきです。神は私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」精神科医の基礎を築いたフロイトは次のように行っています。「人生に最後に苦しい難問である死がある。死に対する治療法はまだ見つかっていないし、将来も決して見つかることはない。」しかし、聖書ははっきり宣言しています。「神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」サタンに誘惑されて神様に罪を犯した最初の人間アダムとエバにより、人間は死という人生最大の敵を持つことになりました。しかし、十字架につけられた主イエスが死から復活したことによって、主イエスを信じる者も、主イエスと同じように、敗北のように見える死が勝利に変えられる経験をすることができるのです。ですから、クリスチャンにとって、もはや死は恐れるものではりません。むしろ、将来の素晴らしい永遠のいのちに入る栄光の時なのです。私たちの肉体は、いつかは朽ち果てます。しかし、主イエスがよみがえられた時に、見た目には同じであっても、まったく次元の違う栄光の体をもって復活されたように、私たちも、この世では、体にいろいろな弱さや障害があるとしても、将来、主イエスと同じ栄光の体をもって復活することが約束されています。だから、地上での生活において、58節「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」の言葉を確信して歩みたいものです。
 イギリスのメソジスト教会の創始者ジョンウェスレーは、1791年の5月2日に天に召されましたが、彼は、亡くなる直前に、ほとんど昏睡状態であったのですが突然目を開いて、はっきりとした声で叫びました。「”The best of all is, God is with us!」(最高のことは、神様が私たちと共におられること!)と叫びました。私たちは地上にあっても、天に移されても、神様が共におられる、これ以上のことはないのです。

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