2013年5月5日 『この世の始まり』(創世記1章1,2節) | 説教      

2013年5月5日 『この世の始まり』(創世記1章1,2節)

(1)創世記とは
 昔、本が書かれた時に、その本のタイトルは最初に書かれている言葉をそのままタイトルにすることが一般的でした。聖書の最初の書物である創世記も、原語のヘブル語では、ベレシートというのですが、これはヘブル語で「はじめに」という意味の言葉です。創世記1章1節は「初めに、神が天と地を創造した」という文章で始まっています。後になって、旧約聖書がギリシャ語に翻訳された時に「べレシート」というヘブル語はギリシャ語で「GENESIS」と翻訳されました。このGenesisという言葉は「起源」英語のOriginを意味する言葉です。英語の聖書では、このギリシャ語のタイトルを翻訳せずにそのままタイトルとして使っているので、英語の聖書では創世記のことをGenesisと呼んでいます。実際に、この書物はすべてのことの始まり、ことの起源が記されている書物です。この書物には、私たちが信じている神とは、どのようなお方であるのか、神についての教え・教理の起源が記されています。世界がどのように始まったのか世界創世の起源について、また人間とはどのような存在なのか、人間論の起源が記されています。さらには、神の救い、神の恵みの起源もこの創世記から始まっています。私たちが神について、この世界について、人間について、罪からの救いについて知っていることは、すべてこの創世記から始まっています。
 創世記は誰によって書かれたのでしょうか?これは、旧約聖書も新約聖書もモーセによって編纂されたと断言しています。例えば、ヨシュア記8章32節には「その所で、ヨシュアは、モーセが書いた律法の写しをイスラエルの人々の前で、石の上に書いた。」と書かれています。また新約聖書の第二コリント3章15節には、「今日まで、モーセの書が朗読されるときにはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。」と記されています。また、何よりも、主イエスご自身がそのことを証言しておられます。ヨハネの福音書の5章47節で次のように言われました。「しかし、あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしの言葉を信じるでしょう。」旧約聖書の最初の5つの書物、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記は、モーセが書いた5つの書物として「モーセ5書」とか、「モーセの律法」と呼ばれます。もちろん、これはモーセ一人が書いたという意味ではなく、モーセが中心となってこれらの書物が最初に編纂されたという意味です。というのはモーセ五書の最後の章にはモーセが死んだことが記されていますから、これはモーセが書けるはずがありません。モーセが生きた時代は、今から3500年ほど前です。彼が生まれた時、イスラエルの民は、エジプトで奴隷状態となって暮らしていました。その暮らしがあまりにも苦しかったので、人々が神様に助けを求めた結果、彼らをエジプトの苦しみから解放する指導者に立てられたのがモーセでした。モーセの導きでエジプトを何とか脱出したイスラエルの人々は、自然環境の厳しい荒野をさまよいながら、神様が約束してくださった土地、乳と蜜の流れる土地を目指して、さまざまな試練と、同時に、様々な神様の奇跡を目にしながら旅を続けていました。イスラエルの人々は、そのような苦しい旅を続けながら、いろいろなことを考えていました。なぜ、自分たちはエジプトで生活するようになったのだろう。自分たちの先祖はどのような生き方をしていたのか、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフはどのような人物であったのだろう。さらには、ヨセフをエジプトに導いた神、アブラハムをイスラエル民族の最初の人間として選ばれた神、アブラハム以前に、その神は私たちの世界をどのように創られたのかなどといろいろなことをモーセに尋ねたことでしょう。このような状況の中で、神様から書くべき言葉を与えられたモーセが創世記を記しました。
 今日の箇所、創世記の冒頭を読むときに、覚えておかなければならないのは、モーセが創世記を記した時代背景です。彼らは、神様に示された約束の国を目指して旅をしていましたが、彼らは様々な偶像の神を持つエジプトでの苦しみから脱出したばかりの時でした。唯一の神を信じるイスラエルの民の中には、エジプトの神々の信仰、エジプトで行われる宗教的な儀式の影響を受けていた人もいたようです。ですから、創世記の記述は、ギリシャ神話などにも見られる極めて人間的な神々の物語とは全く対照的に、一人の神がこの世界の起源であることを非常に荘厳なスタイルで書かれています。メソポタア地域には数多くの神話がありますが、どれも非常に人間的な神々の人間的な行動によって世界が始まったことを述べています。しかし、創世記には、それらの神話とは全く異なった、崇高な雰囲気、偉大な神の雰囲気が満ち満ちているのです。創世記1章1節「はじめに、神が天と地を創造した。」このよく知られた聖書の最初の言葉について、その言葉が私たちに発信するメッセージの意味を考えたいと思います。

(2)神とはじまり
創世記は「はじめに神が天と地を創造した。」と言う言葉で始まっています。以前は、聖書の教えに反対する人々は、私たちが住む宇宙は永遠の昔から存在していたのであって、神によって創られたものではないと反論していました。しかし、その後、科学の発達によって、どのような物質も永遠には存在できないことが分かり、彼らの主張は覆されました。その後、望遠鏡の発達などで、この宇宙は今も膨張し続けていることが分かり、今では、この宇宙ははるか昔にビッグバンと呼ばれる大爆発とともに誕生し、そしてものすごい速度で膨張し、今も、それが続いていることが明らかになりました。聖書の記述は3500年前から一切変わっていません。人間の考えや教えは絶えず変化しています。私たちが信じている聖書は、科学によって否定されるものではありません。聖書の中には現在の科学では説明できないものもありますが、将来、科学の発達によって明らかになるに違いありません。また、科学は、現象を説明しますが、なぜ、どのように、それが起こったのかという説明をしません。科学者は、これらはすべて偶然ということで片付けます。しかし、聖書は、これらの現象の背後に、それを起こさせた方、全能の力を持つ神様がおられると語っています。偶然によって生まれた世界には、その存在の目的も意義もありません。ただ偶然に存在するだけです。しかし、聖書は、この世界は神様によって目的をもって素晴らしいものとして創られたことを教えています。その中には私たち一人一人の人間も含まれています。私たちは、決して偶然に生まれたのではありません。一人一人、神様から世界でただひとりのユニークで特別な価値を持つ人間として創られているのです。
 1節の言葉をもう一度見てみましょう。「はじめに神が天と地を創造した。」ヘブル語の聖書の最初の3つの言葉は「ベレシート・バーラー・エロヒーム」という言葉です。「ベレシート」が「はじめに」「バーラー」が「創造した」そして「エロヒーム」が神という意味です。実は、このヘブル語の文章は、ちょっと不思議な文章なのです。特に、「バーラー・エロヒーム」の部分です。日本語の文法には単数・複数という区別がありません。しかし、英語にもヘブル語にもこの区別があります。例えば、彼が作るという時は、He makesですが、彼らが作るという時はThey makeとなって、動詞にsがついたりつかなかったりします。ところで、「バーラー・エロヒーム」ですが、主語のエロヒームは、実は複数形なのです。ですから正確に訳すと「神々」となります。ところがバーラーという動詞は主語が単数の時の形になっているのです。例えて言えば、彼らが作るというのにThey makeではなくThey makesとなっているようなものです。この不思議な文章は、私たちの神が唯一の神であると同時に、父なる神、御子イエス、聖霊の三位一体の神であることを示していると考えられます。申命記6章4節に「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神、主はただひとりである。」と書かれています。同時に主イエスはマタイの福音書28章19節で、弟子たちへの命令として「父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授けなさい」と言われました。はじめに神が天と地を創造された時に、父と子と聖霊の神が一つとなって働かれたことが示されているのです。モーセは詩篇90篇2節で次のように書いています。「山々が生まれる前から、あなたが地と世界とを生み出す前から、まことに、とこしえからとこしえまで、あなたは神です。」このように永遠に存在しておられる神がこの世界を創られたことによって、この世界は誕生し、今日まで続いており、これからも、神の支配と計画に従って続いて行くのです。
 もう一つ注目する言葉は「作る」という意味の動詞「バーラー」です。ヘブル語は言葉が豊かな言語で、作るという意味を持つ動詞もいくつかありません。英語にも、make・create・form・shapeなどの言葉があります。例えば、イザヤ書43章7節に次のような言葉があります。「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」ヘブル語では何かを強調して述べたい時には、同じような言葉を3回繰り返して使います。ここでも、創造する、形造る、造るという3つの別の言葉が使われています。これは、私たち人間が、神様によって丹精込めて創られたことを意味していますが、このようにヘブル語には、造る、創造するという意味を持つ言葉がいくつかあるのですが、バーラーという言葉は、人間の行いに使うことはありません。言い換えると、神様以外のものはバーラーという動詞の主語にはならないということです。普通何かを作るときにはどんな材料で作るのかということをも考えます。粘土で茶碗を作るとか、羊毛でセーターを作るとかというようにです。ところが、このバーラーという動詞は材料を現す言葉と一緒に使われることもありません。ですから、~を使って作るという時も、この言葉を使うことはできないのです。このことから、神様が天と地を創られたのは、何もないところから創られたということを示しているのです。このことをラテン語でex nihiloと言います。エクスとは~からニヒロとは何もないという意味です。神様が、私たちの住む世界を創られたのは、何か目に見える材料を使って創られたのではありません。神様が「光あれ」と言葉を発したときに、光が生まれました。実は、ダビデも、詩篇の中でこの言葉を使っています。51篇の10節です。「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。」この詩篇は、彼が神を信じる王様でありながら、ある時に部下の妻と不倫を犯して、そのことを悔い改めた時に書いたものです。ダビデは神様に祈りました。「わたしにきよい心を造ってください。」自分が犯したことで罪悪感に悩まされていたダビデは神様に叫びました。神様の全能の力で、わたしのうちにきよい心を造ってください。きよい心は教育で作られるものでありません。修行や訓練でもありません。またきよい心を作る薬もカウンセリングもありません。清い心は神様が造ってくださるのです。私たちが自分の罪を悔い改めて神様に祈るならば、神様が私たちに清い心を造って、私たちの罪を赦してくださいます。
 科学は、この世の始まりを色々な理論で説明しようとします。いくら説明しようとしても、神の存在を無視しては、説明することができません。何年も前に、私がまだ大阪にいた頃に新聞で、生命の誕生に関する学会についての記事を読みました。進化論の前提は、すべてが偶然に誕生して今のような状態に環境に合わせて変化していったということですが、そもそも、最初の生命がどうして誕生したのかということが説明できません。最初に地球を覆っていた色々なガスが反応してアミノ酸が生まれて、そこからタンパク質が生まれて、それがもっとも単純な生命を作り出したということになるのですが、色々調べると、地球誕生直後の大気の状態を考えると、アミノ酸が生まれることはありえないという結論に達したというのです。それで、学者たちが考え出たのが、最初の生命は、地球に落ちてきた隕石に付着していた生命だったかも知れないというのです。あれから30年近くになりますので、その後科学がどのように進歩したのか、私は知りませんが、聖書は3500年前から、一貫して、この世界は、神様が存在しなかったら、創られていないと宣言してきているのです。

(3)神が創られた地(2節)
 2節には次のように書かれています。「地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。」「地は形がなく何もなかった」と記されています。この地はやみで覆われていて何もなく、人が住める場所ではりませんでした。この後、神様は最初の3日間で、この宇宙に秩序を造り、形を造って行かれます。2節に描かれているのはその前の状態です。ある人は、この状態を、陶器を作る陶器師に例えて説明しています。陶器師は美しい形をした陶器を作ろうと考える時、まず、粘土の塊をとって、それをロクロの上におきます。これで、陶器師は、そのかたまりから美しい形の陶器を作る用意ができました。ここから陶器師は自分が持っている技術を使って、できるだけ美しい器を作り始めます。2節に「形がなく何もなかった。」というのはその状況を表しており、神様がこれから地に形を造って行かれます。しかし、忘れてはならないのは、その上を神の霊が動いていたという事実です。この状況は、よく雛鳥を守るために空高く旋回している鳥のような状況だと言われます。モーセも申命記の31章11節で次のように述べています。「わしが巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり、翼を広げてこれを取り、羽に載せて行くように。」神の霊が雛鳥を守るため空高く飛んでいるワシのように、この地上を覆っていました。神様は、天地創造が始まる時から、私たちを守るために、親鳥のように暗闇に満ちた地の上を覆っていました。そして、いよいよ、神が「光あれ」と宣言する時が近づいて来ました。
聖書は、このように世界は神様のご計画によって創られたと語っています。神によって創られた世界だからこそ、この世界の存在には意味があり、この世界で生きるように創られた一人一人の人間にも生きる意味があるのです。科学はこの世界が創られた意味も人間が生きる意味も教えてはくれません。しかし、聖書は教えています。形がなく混沌としていた地の上を神の霊が覆っていて、やがてその地に形がつけられて行くように、神の霊は、私たちの心にも働きかけて、生きる意味を知らないで暗く、混沌として心を新しく創り変える力を持っておられます。すべてが偶然の結果としてこんなにすばらしい地球が生まれたと信じることができますか?こんなに素晴らしい人間の体がすべて偶然の細胞分裂の結果だと信じることができるでしょうか。ある人が、神を信じない人には3種類の人がいると言いました。第一は世界中のすべてのものを調べ尽くした結果神はないと主張する人、第二は、何も調べないで先入観的にあるいは他の人の考えを鵜呑みにして神はいないと主張する人、第三は神が存在することを認めると都合が悪いので神を信じない人。あなたは、それでも神を信じないと主張するのでしょうか?

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