2013年5月12日 『地球が創られた時』(創世記1章3-13節) | 説教      

2013年5月12日 『地球が創られた時』(創世記1章3-13節)

 創世記は、神様がこの世界を6日間で創ったと教えていますが、1日と表現されている時間についての考え方は意見が分かれるところです。ある人は、この1日を文字通り24時間とみなして、天地創造の業は6日間、つまり144時間の間に行われたと考えます。ある人は、1日の業は24時間であるが各一日の間には多くの時間の経過があったと考えます。さらには、1日という言葉が、24時間という時間ではなく、一つの時代という漠然とした長さであると考える人もいます。しかし、その意見の違いが正統な信仰なのか異端なのかを決めるのではありません。主イエスの十字架と復活のように、私たちの救いの根底に関わることであれば、その真理に意見の違いは許されませんが、天地創造における一日に対する意見の違いは、許されるものです。それが信仰の最も大切な部分ではないことですし、また、私たちには聖書に書かれていることをすべて理解することはできないからです。ただ、すべてのクリスチャンは、聖書が神の言葉であり、それが真実であることを確信しています。1日という時間の考え方に違いはあるとしても、創世記に書かれていることは、歴史として確かに起こった事実と認めます。クリスチャンは、この世界は、偶然現れたものではなく、神様のご計画に基づいて創られた世界であり、そこに住む私たち一人一人も、神様の特別な計画によって造られた存在であることをも信じているのです。

(1)創世記1章の構造と内容
 創世記1章には、非常に荘厳な雰囲気がただよっているのを感じます。人間的な雰囲気はどこにもありません。聖書が私たちに伝える神のイメージはどこまでも偉大で、力と権威に満ち満ちています。天と地が創造された時に、地は茫漠として(形がなく)何もありませんでした。地には二つの特徴がありました。形がないことと、何もなく乏しいということでした。それで、6日間に神が行われた天地創造のわざははっきりと2つに区分されています。1日目から3日目までは、神様は形がないところに形を創られました。それに続いて4日目から6日目までは、その形ができたところに植物や動物、最後に人間を創って、地を満たして行かれました。さらに、最初の3日間と次の3日間は密接に関連しています。1日目と4日目、2日目と5日目、そして3日目と6日目が関連しています。1日目に光が創られましたが、4日目には昼と夜を支配する太陽と月を創られました。2日目には、大空の上の水と大空の下の水を分けて、大空を創られました。5日目には、空を鳥で満たし、海を魚で満たされました。3日目には地上の水を一箇所に集めて海と大地を創られて、大地に植物を生えさせられました。そして6日目に動物と人間を創って地を満たされたのです。そして、3日目と6日目には共に、神が創ったものを見てそれを良しとされたと書かれていて、天地創造によって創られたものは、本来、非常に良いものであったことが分かります。そして7日目は、6日間働いた成果に満足し、休息を取る日として特別な日とされました。これによって、今も、一週間は7日と制定されていますが、これは本当にパーフェクトな日数だと思います。もし、神様がこの世界を3日で創られていたならば、1週間は4日になります。3日働いて休みが来るのは、あまりにも目まぐるしいスケジュールになってしまいます。一方、もし、神様が9日間でこの世界を創っておられたら、1週間が10日になります。次の休みの日が来るのが待ち遠しくてたまらないでしょう。次の休みの日が来る前に、仕事に疲れて倒れる人がいっぱいいるのではないでしょうか。7は完全数と言われますが、神様は本当に完全なカレンダーを創ってくださったと思います。エルサレムにあるヘブル大学のひとりの教授が面白いことを言っています。その教授は創世記1章の天地創造の記事は7という数と深く関係していると言うのです。まず、彼は1章の天地創造の記事に出てくる3つの中心的言葉が使われている回数を数えました。その3つの言葉とは、「神」と「天」と「地」です。神という言葉は35回、これは7の5倍です。そして、天という言葉と地という言葉はともに21回、これは7の3倍です。さらに、ヘブル語の聖書では、1章1節に使われている単語の数が7、2節に使われている単語が14です。また、2章の2節と3節の前半に、第7日目についての3つの文章がありますが、どの文章も7つの言葉で書かれていて、それぞれに「第七日目」という言葉が入っています。このように創世記の文章には、7という完全数が一本の糸のように織り込まれていて、それが創世記の天地創造の記事を一つにまとめているというのです。
 また、創世記には神話の要素は何一つありません。創世記は、天地創造を歴史的な事実として描いています。ギリシャ神話にも世の始まりの記事はあります。古代の神話と同じように、ギリシャ神話ではガイアという大地の神がウラノスという天の神と結ばれて、時間の神、太陽の神、星の神など様々な神が生まれたとされています。モーセが創世記を記したのは偶像礼拝の国エジプトから脱出して神様が約束された国、現在のイスラエルに向かって困難な旅をしていた時です。ですから、モーセが書いた天地創造の出来事は、ある意味で、偶像礼拝者たちに対する明確な反論なのです。1日目には光と闇が区別されていますが、聖書は、光も闇もそれ自身は神ではなく神が創られたものだと宣言しています。2日目には空と海を創られましたが、空の神、海の神が創られたのではなく、空と海が創られたのです。このように、創世記1章の記述は、月や太陽や星の神、陸地や海の神を信じる人々に対する神様からの明確な反論とも言えるのです。

(2)世界を形づくる
 さきほど述べたように、天地創造の最初の3日間は、地に形がなかったことへの対策として行われています。地に形はなく、陶器を作る陶器師がろくろのうえに置く粘土の塊りのような感じで、空間に浮かんでいました。そしてその上を、神の霊が地を見守るように覆っていました。その時、神が言葉を発しました。「光あれ」すると光が現れました。神様が光を創るのに使った道具も材料もありません。ただ、神は言葉を言われただけでした。この世界が作られる時に、この世界がどのような構造になっていて、どのような景色になるのか、すべては全知全能の神様の主に中に準備されていました。ですから、神がすることは、ただ命令するだけでした。すると今私たちが住んでいる素晴らしい宇宙が何もないところに誕生したのです。人間は、皆、心のどこかに神という存在を認めています。どんなに文明が遅れている民族であっても、何らかの神を信じる信仰を持っています。ある人々は広大な宇宙を見、自然の風景を見るときに、そこに神を感じて、そのようなものの中に神がいると思う人が多いのです。人間は神によって創られているので、神を感じる能力を持っています。神学においても、神の存在は、神が創られたこの自然の世界が表していると教えています。しかし、神様は自然や宇宙ではなく、この世界を創られた方であり、私たちのように人格を持っておられる神です。
 神が「光あれ」と叫ばれたときに光が現れました。神は光と闇とを区別して光を「昼」闇を「夜」と名付けました。最初の3日間は、光の源は太陽ではなく別のところから来ていました。この世界は太陽のない光で始まりましたが、ヨハネの黙示録の預言を見ると、この世の終わりも太陽のない光の世界が現れます。黙示録の22章5節には次のように書かれています。「もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。」神ご自身が光の方なので、太陽や月がなくても神様は私たちに光を与えることができるのです。最初に闇が覆っていましたが、そこに光が現れて昼と夜に区別されました。ユダヤ人にとって一日は日没に続く夜から始まり、そのあと昼が続いて一日になりますが、これは、天地創造のときに、最初にやみがあってその後に光が現れたことによります。ですから、5節に「夕があり、朝があった。第一日」と書かれているのです。
第二日目に神が命じられたのは「大空よ。水の間にあれ。水と水との間に区別があるように。」でした。光の世界の中でまだ、地は混沌としていましたが、その中で大空が創られ、その上と下に水の層が現れました。青い空が現れて、地球は水に覆われていました。そして、大空の上に水の層がありました。この水の層は、地球にとっては、温室のような効果をもたらしたことでしょう。この水の層があったので、ノアの洪水の時に、空から大量の水が降って来ました。また、この水の層は紫外線など太陽や外からくる有害物質を取り除くフィルターの役割も果たしていました。従って、ノアの洪水以前の人々の寿命は非常に長かったのです。そして、植物も動物も豊かに成長していました。もしかすると恐竜の絶滅も、この水の層が壊れたことが原因かもしれません。ノアの洪水が終わってノアの家族が箱舟から出たときに、神様が祝福の印とし虹を与えられたのですが、これも、それまでは地球が水の層に覆われていたために虹が現れることもなかったのです。
 最初の二日間で、この世界には秩序と形が現れてきました。地球は光によって温められ、大空と水に覆われた世界が生まれました。だんだんと生物が生きるのに適した世界になりつつありました。三日目に、神様は二つことを命じられました。一つは「天の下の水は一所に集まれ。かわいた所が現われよ。」でした。これによって大地が現れました。そして、集まった水は海と呼ばれました。ここまでは、新しいものが創造されることはなく、神様が混沌とした世界に美しい形を与えてくださったのです。2番目の命令から、神様は形のないところに形を与えることから、何もないところを満たすことを始めて行かれます。そして、地に植物が満ようにとの命じられたのです。このようにして人間が住むための場所の形ができあがりました。

(3)天地創造と私たちの信仰生活
 1日目から3日目の神様の働きで目立つ点は、第一に、神様が天地創造の業を光から始められたことです。聖書の神は光に満ちておられる方です。主イエスも言われました。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」主イエスがこの言葉を語られたのは、エルサレムの神殿の献金を捧げる場所でした。旧約時代、モーセのもとでエジプトを脱出したイスラエルの民が約束の国を目指して旅をしていた時に、神様が昼は雲の柱、夜は火の柱となって彼らを守り導かれましたが、そのことを記念するために、その場所にはロウソクの火がともされていました。主イエスが「私は世の光です。」と言われたのは、主イエスが、私たちの厳しい世界で生活をするときの光となって、私たちを守り導いてくださるという約束の言葉です。光を創られた神様、また光そのものである神様が私というひとりの人間の行くべき道を示してくださり、また、私たちを守ってくださるのです。私たちの人生にはいつも神様の光が注がれていることを感謝し、私たちは、いつも光の中を歩き続けなければなりません。
 第二に、この3日間で、神様はかたちのない世界、茫漠とした世界にかたちを与え、区別を創って、秩序ある整然とした世界をお創りになりました。世界に秩序と構造を与える神様は、私たちの人生にも秩序と形を与えることのできるお方です。聖書は、神を信じる前の人間は、自己中心の罪の考えに支配されているために、混沌とした生き方をしていました。パウロがローマ書7章で語っていますが、人は、しなければならないと分かっていることができず、また、してはならないと分かっていることをしてしまう、そのような混沌とした生き方をしています。そのような生き方に主イエスは、秩序を与えてくださって、私たちの人生を新しく作り替えてくださいます。新約聖書の第二コリント5章17節を読みましょう。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」ここで、新しく造られた者と訳されていますが、これは言語では新しい創造という表現が使われています。主イエスを信じる時に、神様は私たちをちょっと手直しする、リフォームするのではなく、完全に新しいものに創り変えてくださるということです。混沌とした世界を美しい世界に変えた神様は、私というひとりの人間の人生をまったく新しいものとして創造してくださるのです。私の立場を全く新しいものに変えてくださるのです。古いものは全部過ぎ去りました。すべてが新しくなったのです。もとボクシングのヘビー級世界チャンピオンのジョージ・フォーマンも神様による新創造を経験した一人です。彼は、ある日、ジミーヤングというボクサーとの試合を終えた後、ロッカールームで主イエスを信じました。彼は次のようにその時の経験を書いています。「私が額に触って手を下ろして見ると私の両手に血がついていました。それから下を見ると私の両足も出血していました。その時、頭と両手と両足に血が付いているのを見て、これはイエス様と同じだと思いました。その時、私は古い自分に死にました。神様のために古い自分に死ぬことを決心しました。すると新しいいのちをもらったように感じました。なぜか、自分が神様をすっかり信頼している赤ちゃんのようになっていました。」このようにして彼はロッカールームで主イエスを信じました。彼はそれまで一度も読んだことがありませんでしたが、それ以来、常に聖書を読み、そして、ひとりでも多くの人に聖書の真理、良い知らせを知ってもらいたいと願うようになり、多くの教会で証しをしているそうです。神様が私たちに働く時に、私たちにも新しい創造、あたらしい形、秩序を創ってくださるのです。

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