2013年5月19日『ペンテコステの祝福』(使徒の働き2章1-13節) | 説教      

2013年5月19日『ペンテコステの祝福』(使徒の働き2章1-13節)

 今日は、教会のカレンダーではペンテコステという日です。ペンテコステとは50日目という意味ですが、ユダヤ人のもっとも重要なお祭りである過ぎ越しの祭から50日目にあたります。7週間です。今日から7週間前は3月31日で、教会ではキリストの復活祭・イースターをお祝いしました。もともとペンテコステは、小麦の初穂の刈入れをして神様に感謝をささげるためのお祭りでした。人々は収穫の感謝の気持ちを表すために新しい小麦で作ったパンを2個捧げていました。それが、後になって、ユダヤ人たちは、この日をモーセがシナイ山で神様から律法を与えられたことを記念する日としても祝うようになっていました。ユダヤ人たちは、エルサレムの神殿で行われるお祭りに参加するように奨励されていましたので、海外に移り住んでいたユダヤ人たちも大勢お祭りに集まっていました。ペンテコステの日はイースターと同様に毎年に日付が変わりますが、大抵は、5月末から6月初めです。季節も3月よりも穏やかなので、ユダヤ教の大きなお祭りの中ではペンテコステに、一番大勢の人々が、多くの地域から集まっていたようです。主イエスが過越しの祭の日曜日に復活された後、40日間、弟子たちや他の人々の前に現れましたが、40日目に、エルサレムの東にあるオリーブ山で、弟子たちが見ている前で天に引き上げられ、雲に包まれて見えなくなりました。主イエスは、天に引き上げられる前に、弟子たちに向かって次のように言っておられました。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなくあなたがたは、聖霊のバプテスマを受けるからです。」主イエスの弟子たちはほとんどがイスラエルの北部、ガリラヤ地方の出身者たちですから、イエスが天に昇られたら、普通に考えれば故郷に戻ると思いますが、主イエスの言葉を聞いた弟子たちや主イエスを信じる他の人々は、エルサレムに留まって、主イエスから聞いた聖霊のバプテスマを受けることを待ち望んで、一緒に集まって心を合わせて祈っていました。使徒の働きの1章14節を見ると、そこには婦人たちやイエスの母マリヤ、それにイエスの兄弟たちも一緒に祈っていました。その数は120人ほどでした。イエスの兄弟たちは、最初はイエスを救い主とは信じていなかったのですが、イエスの教えを聞き、奇跡のわざを見、そして復活の姿を見たために、彼らもクリスチャンになっていました。実は、この120人ほどの人々が後のキリスト教会を生み出す創設メンバーになるのです。イエスが天に昇られてから10日目に大きな奇跡的な出来事が起こりました。

(1)ペンテコステの日に何が起こったのか?(1-4節)
 ペンテコステの祭の日になって、120人ほどの人々が、いつものように集まって心を合わせて祈っていました。すると、突然、天から、激しい風が吹いてくるような大きな音が彼らのいた家全体に響き渡りました。おそらく、竜巻のような突風がその家を襲ったのでしょう。それから、炎が現れて、それが分かれた舌のようになって一人ひとりの頭の上に留まりました。すると一人一人が聖霊の大きな働きを受けて、不思議なことに、彼らが勉強もしたことのない外国の言葉で祈り始めたのです。竜巻のような音を聞いた人々は、何が起きたのかを知ろうとして彼らの家に集まってきました。その人々は、ペンテコステの祭に参加するために、海外から来ていたユダヤ人も数多くいました。彼らの多くはヘブル語を話せません。自分が住んでいる国の言葉が母国語ですから。彼らが驚いたのは、エルサレムに住んでいるユダヤ人たちが、外国の言葉は知らないはずなのに、いろいろな言葉で祈っているのです。彼らは、弟子たちが祈っている言葉の意味が分かりました。
 風が吹いて、炎が現れた後に、120人ほどの人々がいろいろな国の言葉で祈りだした、これがペンテコステの日に起こった出来事です。不思議な出来事ですが、そこにはいろいろな意味も含まれています。最初に激しい風が吹いて来ましたが、風はヘブル語では「ルーアッハー」と言い、ギリシャ語では「プニューマ」と言います。どちらの言葉も、風という意味以外に、「神の霊」つまり「聖霊」という意味を持っています。旧約時代の預言者エゼキエルは、神様から枯れた骨がいっぱいある谷間の幻を見せられました。その時、神様がエゼキエルに骨に向かって預言するようにと命令しました。それで、エゼキエルが預言をすると、骨と骨が大きな音を立ててつながり、その上に筋が付き、肉が生じて、皮膚がその上をすっかり覆いました。しかし、まだその中に息はありませんでした。それで、神は続けてエゼキエルに息に向かって預言するようにと命令しました。それで、エゼキエルが神様から命じられたとおりに息に向かって預言すると、息が骨から人間の姿になった人々の中に入り、彼らは生きる者となりました。息、風、聖霊、これらは神にとって同じものでもあるのです。イエスの弟子たちは、ペンテコステの日に初めて聖霊を受けました。人間の姿を取られた主イエスは天に昇って彼らから離れて行きましたが、それに代わって、今度は、神様が一人一人に聖霊として私たちと共にいてくださるようになったのです。
 続いて炎が現れました。元々、火は神様の臨在を現すシンボルでした。イスラエルの民がエジプトを脱出した後、彼らを守り導いたのは、昼は雲の柱となり夜は火の柱として彼らと共におられた神様でした。その時は、一つの大きな火の柱がイスラエルの人々全員をまとめて守り導いていたのですが、このペンテコステの時は、その炎が舌のように分かれて集まっていた一人一人の上にとどまりました。旧約聖書の時代は父なる神がイスラエルの民全体に対して働いておられました。そのために、神様と人々の間の橋渡し役をする祭司と呼ばれる人々がいました。主イエスが地上で働かれた3年間は、主イエスのところへ行かなければ、主イエスの働きを受けることはできませんでした。しかし、今,聖霊の時代、神様は、一人一人の上に働いてくださるようになったのです。この日以来、神様を信じる人は、一人一人が神様と個人的な関係を持つことができるようになりました。個人的に神に向かって祈りを捧げることができますし、御言葉を読むときに、聖霊が働いて、神様から自分に向かって語られた個人的なメッセージとして受け取ることができるようになったのです。
 神様と私たちが個人的な関係を持つことができる新しい時代が始まったことを示す出来事がペンテコステでした。ペンテコステが非常に重要な時代を分ける出来事でしたので、このような特別なしるしが伴いました。私たちは、このような出来事を見ると、外側の現象、風が吹いた、炎が現れた、人々が突然外国語を話しだした、このような現象にばかり目を向けますが、もっと大切なことは、ペンテコストの出来事において、キリストの弟子たちに何が起こっていたのかという点です。

(2)ペンテコステの日に、イエスの弟子たちには何が起きたのか?(2章4節)
 使徒の働きでは、聖霊に満たされたイエスの弟子たちは、突然外国の言葉で祈り始めました。激しい風の音にびっくりして集まって来ていた大勢の海外から来たユダヤ人たちは、弟子たちがヘブル語ではなく地中海沿岸の様々な国の言葉で祈っているのを見て、さらに驚きました。しかし、ここで大切なことは、この人々が外国の言葉を語ったことが、彼らがペンテコステの日に経験した最も重要なことではありません。彼らは、おそらく、しばらく時間が経つと、外国語で話すことを止めて自分の言葉で話すようになったはずです。大事なのは、どんな言葉を話したかということではなく、外国語で何を語ったのかという点です。2章11節によると、彼らは神の大きなみわざを語っていました。聖霊が人の心を満たす時に、色々な経験が伴いますが、大事なのは外側のことではなく、心の中がどうなったのかという点です。このことについて新約聖書のエペソ書5章19~21節の言葉を参考にしてみましょう。「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。 いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」この言葉の中に、聖霊に満たされた人の3つの特徴が書かれています。一つは、「詩と賛美と霊の歌とをもって互いに語り、主に向かって心から歌い、賛美する」ことです。御霊に満たされると、その口が新しくされて、詩篇の歌、讃美歌、ワーシップソングの歌などが溢れて、お互いに話し合う時も、神様を褒め称えることがいつも話題の中心になっていることです。人の口に戸は建てられないというように、人々は、口を用いて様々なことを語ります。有益なことを語れば問題がないのですが、しばしば私たちは語るべきではないことを語ってしまいます。それは2000年前も同じでした。ですから、新約聖書の特に手紙の中には言葉に関する教えが沢山書かれています。うわさ話、言葉の争い、俗悪な無駄話、悪い言葉などを口から出さないように神様は命じておられます。私たちが聖霊に満たされたなら、人の間のことを語るのではなく、神様を賛美することを、神様がなさった素晴らしい御業のことについてお互いに話し合うようになります。また、主に向かっても、祈りや賛美を通して心から神様の素晴らしさを崇めるようになります。
 第二の点は、感謝の心に満ち溢れます。エペソ5章20節に「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。」と書かれています。聖霊が心を満たすと、心の中から、不平や不満や苦々しい思い、否定的な思いを追い出します。中世の説教者タウラーという人がある日、道端で乞食に出会いました。彼は乞食に向かって「神様があなたに良い一日を与えてくださるように。」すると乞食は、「今まで、悪い日にお目にかかったことがないですよ。」と答えました。それで、タウラーは乞食に、「神様があなたに幸いな人生を与えてくださるように。」と言うと、乞食は、「今まで、不幸なことなんか一度もなかった。」と答えました。不思議に思ったタウラーは乞食に「どういうことだ?」と尋ねると、乞食は答えました。「天気が良い日にも神様に感謝し、雨が降っても神様に感謝し、食べるものがたくさんある日も、食べるものがなくてひもじい時も、神様に感謝するのだ。だから、不幸なんて味わったことがないのだ。」聖霊に満たされると、心が満たされ、神様への感謝に満ち溢れるのです。第三の特徴は、他の人に仕える者になることです。21節に「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」と書かれています。私たちにとって、仕える姿勢を学ぶための最適な模範は主イエスご自身です。最後の晩餐の時、明日十字架に掛けられるという木曜日の晩、弟子たちと一緒に食事をしていた主イエスが突然立ち上がって、弟子たちの足を洗い始めました。そして、主イエスは弟子たちに言われました。「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたも足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」他の人に仕えるために必要なことは謙遜な心です。聖霊は私たちをより低い者にします。
 私たちの口から絶えず神様を賛美する言葉が出てくる時、何事についてもつねに神様に感謝をささげる時、そして、主イエスのように謙遜を学んで他の人に進んで仕える者になるとき、私たちは、聖霊に満たされていることを知るのです。

(3)ペンテコステの日に、弟子たちを通して起きたこと
 聖霊に満たされた弟子たちの多くはガリラヤ出身者でした。しかも特別な教育を受けたわけでもありません。ガリラヤの人々は言葉も方言のなまりが強くて、すぐにガリラヤ出身であることが分かります。ところが聖霊に満たされた彼らは、突然、ガリラヤのなまりのない、綺麗な外国の言葉で話し始めたのです。それで、激しい風の音を聞いて集まってきた人々は、彼らがいろいろな外国の言葉で話している様子を見て、ひどく驚きました。8節で、人々は「いったいどうしたことでしょう。」と互いに尋ね合っていました。しかも、彼らは自分の知らない言葉で何を語っていたのかと言えば、11節に書かれているように、彼らは、神の大きなみわざを語っていました。その様子を見た人々の中には彼らが酒によっていると思った人もいました。その時、主イエスの弟子ペテロは他の弟子11人と一緒に立ち上がって、人々に向かって言いました。「今は朝の9時ですから、この人たちは酒に酔っているのではありません。ここからペテロは集まっていた大勢の人々に向かって、長々と主イエスについて語り続けました。50日ほど前には、自分が殺されることを恐れて3回繰り返して「主イエスを知らない」と言ったペテロでしたが、今は、すっかり変わっていました。イエスを十字架に貼り付けにすることに賛成した人も大勢いたと思いますが、何も恐れずに、大胆に説教しました。36節では「イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち神が今や首都もキリストともされたこのイエスをあなたがたは十字架につけたのです。」これを聞いた人々は心を刺されペテロと他の弟子たちに「私たちはどうしたらよいのでしょうか。」と尋ねました。そこで、ペテロは「悔い改めなさい。そしてイエスの名によって洗礼を受けなさい。そうすればあなたがたも聖霊を受けるでしょう。」すると、その日、ペテロの言葉を受け入れて洗礼を受けた人が3000人もいました。これがキリスト教会誕生の瞬間でした。120人ほどから始まったクリスチャンの群れは、30年後には、地中海の周りの国々に、人々が恐れを感じるほど多くの教会が生まれ、クリスチャンの存在が世の人々にも知られるようになりました。
 今の時代にも、ペンテコステの出来事が必要です。私たち一人ひとりが聖霊に満たされて、互いに神について語り合い、神を賛美しあい、また、神様にすべてのことを感謝して、互いに仕え合う者になる時、この教会にも第二のペンテコステが訪れるのではないでしょうか。そのために、かつての120名の弟子たちのように、私たちは心を合わせて神様に祈り続けることが大切です。

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