2013年6月2日『この地は満たされた』(創世記1章14~31節) | 説教      

2013年6月2日『この地は満たされた』(創世記1章14~31節)

 聖書は、私たちが住むこの世界は、神によって創られたと教えています。1章2節によると、この地が初めて創られた時、この地はかたちが無く何もありませんでした。そのままの状態では、そこに人間が住むことは不可能でした。それで、この世界は、形が作られることが必要であり、またその中にいろいろなものが満たされる必要がありました。それで、神様は6日間のうち、最初の3日間で、この世界にかたちを創り、そして後半の3日間で、何もないところを様々なもので満たしてくださいました。そのようにして創られたこの世界は、本当に素晴らしい世界です。

(1)神様がこの世界を満たしてくださった。
 創世記1章14節から19節に神様が4日目に行われたことが記されています。それは、神様がこの世界を光で満たされたことが記されています。16節にはこう書かれています。「神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光るものには夜をつかさどらせた。また星を造られた。」4日目に神様は太陽と月と星を造られたのですが、モーセは、意図的に、太陽と月という言葉を使わずに、大きいほうの光るものとちいさいほうの光るものと呼んでいます。それは、イスラエルの民が長く住んでいたエジプトでは太陽も月も神として祀られていたからです。モーセは、ここで、太陽も月も神ではなく、神様が創られてできたものであると宣言しているのです。太陽も月も星も、宇宙に存在するすべてものは、神様がただ言葉を出すだけで造られました。地球も月も星も、まったく狂うことなく動き続けているおかげで、昼と夜ははっきりと区別されています。その状態が、世界が造られた時から今までずっと変わらずに続いています。これを、ただ偶然に出来たと信じることができるでしょうか。17世紀の数学者ニュートンは神を信じていましたが、ある時、非常に精巧な太陽系のミニチュアモデルを作りました。真ん中に金色の太陽があって、その周りをいろいろな長さの棒の先に付けられた小さな惑星たちが回るようになっていました。惑星がついた棒には歯車とベルトがついていて、惑星は太陽の回りを規則正しく動きました。ある日、ニュートンがこのモデルを使って研究をしていた時に、神を信じていない友人が彼を訪ねて来ました。友人はニュートンが創った太陽系のモデルを見てびっくりして彼に尋ねました。「この、太陽系のモデルすごいね。誰がこれを創ったんだ?」するとニュートンは「誰も作ってないよ。」「どういうことだ?」「そうだよ。だれも作ってなんかいないよ。ここにあった棒や歯車やベルトが勝手にくっ付いて、不思議なことに、勝手に動き始めたんだよ。しかも全く狂うこともなくね。」彼の友人はニュートンが何を言おうとしているのか分かりました。精巧な太陽系の模型を見れば誰かがそれを創ったことは明らかです。だとすれば、私たちの住むこの素晴らしい宇宙を見る時に、これがただ偶然にできたとはどうしても信じることができません。
何時も言っていますが、地球の軸が傾いていることも本当に不思議です。もし傾いていないと季節がなくなるだけでなく、海から蒸発した水蒸気が北と南に移動するために、大陸は氷で覆われてしまうそうです。近代天文学の基礎を築いたケプラーは、天体の動きを詳しく調べてケプラーの法則を発見しましたが、彼は、「神を信じない天文学者は気が変だとしか思えない。」と言っています。また、ニュートンも「この美しい太陽と惑星と彗星の体系は全知全能の神によって造られたものとしか考えられない。」と書いています。神がこの宇宙を造ることを思いつき、それを実行されました。詩篇8篇で「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに」と言われているように、神様の力によって、まるで指のわざで行ったかのように、この世界が完璧な美しさをもった宇宙として整えられました。
5日目です。神様は2日目に大空を造られて、その上にある水とその下にある水を分けられました。それに対応する5日目に、神様は、空と海を生き物で満たされました。海は様々な種類の生き物で満たされ、空は、空を自由に飛びまわる生き物で満たされました。魚がいなければ私たちの生活はどれほど寂しいものでしょうか。空を飛ぶ鳥がいなかったら、人間は自分たちが空を飛びたいという夢を持つこともなかったでしょう。神様は5日目にただ海と空を様々な種類の生物で満たされただけではなく、また、造られたものを見てよしとされただけでなく、初めて神様はご自分が造られたものを祝福されました。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は、地にふえよ。」神様は、様々な種類の生物を造られました。大きいものも小さいものもあります。強いものもあれば弱いものもあります。しかし、神様は一つ一つの生き物がこの世界で生き、しかも増えることができるように、その環境を整え、生態系を完璧に整えてくださったのです。全知全能の神にしかできないことです。この完璧な環境や生態系を破壊するのは人間です。私たちは、神様から他の生き物が楽しく生きられるように管理する責任を与えられているのですが、自己中心の人間が自分に都合の良いように動植物を管理した結果、今、地球の環境の危機が言われているのです。
6日目。3日目に、神様は天の下の水が一箇所に集まって、地と海とを分けられました。それに対応する6日目には、神様は地上で生きる様々な生き物をお作りになりました。いよいよ天地創造のクライマックスの時が来ました。まず、神様は「地は、その種類にしたがって、生き物、家畜、はうもの、その種類にしたがって野の獣を生ぜよ。」と言われました。6日目は、天地創造にとって特別な日です。この日に人間が創られたからです。この日、神様は、この地を満たすために様々な生物を造られました。創世記を見ると、あらゆる生物も人間もその材料は同じです。土から造られました。2章7節には「神である主は、土地のちりで人を形造り」と書かれていますし、同じ2章19切には「神である主が土からあらゆる野の獣とあらゆる空の鳥を形造られた」とあります。そういうわけで、どの生き物も人間も、死んだら土に戻るのです。神様は最初の3日間で、この世界に形を与えられ、そして残りの3日間で、かたちづくられた世界をいろいろなもので満たされました。大空で光を司るものとして太陽、月、星を空いっぱいに満たし、海や空には魚や鳥でいっぱいにし、地の上にはあらゆる生き物で満たされました。しかし、ここまではすべて準備段階でした。これから、神様が一番創りたかったものを創られたのです。それが私たち、人間なのです。

(2)この地を人間で満たされた
 神様は地上のすべての生き物を創られた後で、人間をお創りになりました。人間の創造は特別なものです。26節と27節に人間が創られたことが記されていますが、それまで創られたものはすべて「神は創られた」と三人称の形で書かれているのですが、人間を創る時には、神は「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう」と「私たちは人間を創るのだ」と一人称、つまり自分が創るのだというように書かれています。26節を見ると、神の間で話合って、人間が創られています。神は霊的な存在で唯一の神ですが、父、御子、御霊という3つの霊が一つとなって存在しています。
この箇所からまず言えることは、人間は偶然の進化の結果の生物ではなく、神様の綿密な計画と設計図に基づいて創られた神の作品であるということです。特に27節は聖書に出てくる最初の詩と言われているのですが、オリジナルのヘブル語では、4つの言葉の文章が3行で書かれています。そしてバーラー、創るという言葉が3回繰り返して使われています。これは創るということを強調している表現です。私たちにとっても簡単に作った物よりも苦労して時間をかけて作った物のほうが自分にとって大切です。そういう訳で、私たち一人一人は神様にとって特別な存在であり、大切な存在なのです。もし人間が、進化論が教えるように、細胞分裂が偶然に起こって、それが環境の中で偶然に生き残ることができた結果生まれたのだとすれば、その価値は、他の動物と全く変わりません。私たちは、普通、蚊やハエやゴキブリを殺すことにあまり罪悪感を抱きません。また、鹿や猪が増えすぎて作物が荒らされると殺しますが、それを罪だとは思いません。もし、人間が偶然の進化の結果だとしたら、人間はそれらの動物とどこが違うのでしょうか。その価値に違いはないはずです。しかし、私たちはゴキブリを殺すようには人間を殺すことはしません。それは、なぜなのか、進化論には答えがありませんが、聖書は、人間が神に創られた存在だから、しかも、人間だけが神に似せて創られているから、ひとりひとりの人間には特別な価値があると答えるのです。
 27節で、人間は神のかたちに創造されたと書かれていますが、「神のかたち」とは何を意味するのでしょうか?人間の目に見える姿が神に似ているという意味ではありません。人間には、神様と交わりを持つことができる能力があり、そのような人格を持っていることを意味します。神様は、父、御子、御霊なる神が一つの神となって存在していますが、人間にはそれに似た構造があります。すなわち、人は、体とこころと霊という3つのものが組み合わさって存在しています。これは、他の動物と全く異なっている点です。神様から霊を吹き込んでもらって生きるものとなった人間だけが神を感じ、神を知り、神を求めるのです。他の生物はどれほど高い知能能力を持っているとしても、永遠を思うことや神を求めることはしません。彼らには神から霊が与えられていないからです。まず私たちには体があります。これは、私たちが神様の創られた世界の中で快適に生活ができるように、本当に精巧に創られています。体の各器官の働きを少し知るだけで、私たちの体がどれほど素晴らしいものであるかが分かります。また、体はこの世で生きる時に、私たちのこころと霊の宿る所として働いています。しかし、私たちが死ぬ時に、この体は土に帰ります。次に私たちには心があります。心の中には、私たちの意思や願い、人格、知性、考え、感情などが宿っています。心の中で、私たちは色々と考えたり、何かを好んだり、嫌ったり、願ったりします。心が働いて、私たちの体の様々な部分を動かす結果、私たちは、この世の中で他の人々と関わるのです。心があるから、私たちは自分自身を意識します。他の動物も、レベルは違いますが、私たちと同じようにこころを持っています。彼らも考え、何かを願い、喜んだり、嫌がったりします。そして、三番目に、人間だけが持つものとして霊があります。心は、自分自身を意識させますが、霊は、私たちに神を感じる力を与えます。パウロはこの部分を手紙の中で「内なる人」という表現を用いています。私たちの内なる人は、この世に生まれた時には霊的に死んでいました。しかし、私たちが主イエスを救い主と信じる時に、聖霊が私たちの内に入って、死んでいた内なる人を活かしてくださいました。そして、私たちに、神様が私たちに与えてくださる、教えや、恵みや、大きな愛を理解できる力を与えてくださいました。こころと霊は似ていますが、こころは横に働いて他の人々との関係の中で働きます。しかし、霊は縦に働いて、私たちが神を見上げるように働くのです。私たちが死ぬとき、体は土に帰りますが、心と霊は神のもとへ帰ります。神から霊を与えられた人間は決して消えてなくなることはありません。旧約聖書の伝道者の書の12章7節に「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。」と書かれている通りです。

 このように天地創造の最後を飾る冠として人間は創造されました。ですから、私たち一人一人は、神様の目にはかけがえの無い大切な存在です。神様は、6日間でこの世界とその中にあるものを創られましたが、それぞれの日に、神様は創られたものを見て、良いものだと思われました。しかし、6日目だけは、天地創造の働きを終えて、そこにあるすべてのものをご覧になった時に、すべてのものは「甚だ」良いものだと思われました。この後、神に創られた最初の人間が神の教えを破って勝手な行動をとったために、罪が私たちの内側に入り込み、すべての内なる人は、神の目には死んだ状態になっていました。そのような私たちに新しく生きる力と情熱を与えるために、神様は御子イエス・キリストをこの地上に送ってくださいました。神様は私たちとの交わりをとても喜んでくださるのです。私たちは、自分の本当の姿を知り、同時に、自分の本当の価値を知らなければなりません。かつてローマ・カトリックの神学者アウグスチヌスも、フランスの哲学者パスカルも、おなじことを述べています。それは、神様の教えに逆らって罪を持っているすべての人間の内側には、全能の力を持つ永遠の存在者である神以外に決して満たすことのできない深い穴が空いているのです。あなたは、自分の心の中に、そのような空虚な思いを感じていませんか。もし感じておられるなら、することはただ一つ、神に向かって祈ることです。「神様は、どうぞ、私の内側をあなたで満たしてください。」神に内側を満たされた人だけが、人間として本当にふさわしい生き方ができるのです。

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