2013年6月9日『神の安息』(創世記2章1-4節) | 説教      

2013年6月9日『神の安息』(創世記2章1-4節)

創世記1章によると、神様は6日間という期間で、この世界をお創りになりました。最初は、私たちが住んでいるこの地球は形がなく、何もないさびしい場所でしたが、神様が、そこに形を与えてくださり、そして、何もないところにすべての良いもので満たしてくださいました。創世記の1章を見ると、神様は、人間を創るために、天と地とその中のすべてのものをお創りになったことが分かります。神様は6日目に人間を創られましたが、それまでは、神様が言葉で命令すれば、それだけですべてのものが創られました。しかし、人間を創られる時は、神様は「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして。われわれに似せて。」と三位一体の神が互いに話し合ってから創られました。私たちが何かを作る場合も、何も言わずに何となく何かを作っている時もありますが、時には、思い立って、「今日は何かを作ろう」と思って作る時もあります。「さあ、作ろう」と思い立って作るものは、私たちにとって特別な意味を持っています。神様が人間を創られた時も、神様にとって特別な意味を持つ存在として人間を造られたのです。そのようにして造ることは楽しいことであり、どのような出来上がりになるのかとても楽しみです。うまく出来上がれば本当にうれしいものです。神様が人間を造られた時も、そのような喜びを感じておられたはずです。そして、出来上がりも上々だったようです。1章31節を見ると、「神様はおつくりになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった」と書かれているからです。それまでは、神様は、創られたものを見て「よしとされた」のですが、人間を創られた後に、すべての創られたものを見たときは「非常に良い」と思われました。神様がお創りになったこの世界は神様の目に完璧なものでした。私たちの周りを見回しても、空の星の美しさ、花の美しさ、天体の動きが完璧であることを見れば、神様が「非常に良かった」と思われたことがよく分かります。もちろん、その中には、私もあなたも含まれています。私たちは、偶然の結果なんとなく生きているのではなく、このように神様から「~を創ろう」という楽しみと期待とともに創られた人間であることを覚えておきましょう。ですから、神様は旧約聖書のイザヤ書の中で、次のように言っておられるのです。「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。」母親が自分の子供を忘れないように、神様は決して私たちを忘れることはありません。あわれまないこともありません。私たちは、神様によって創られた特別な一人だからです。

(1)神の安息
 神様が6日間で天地創造の働きをすべて終わって、そして創られたすべてのものを見て心から満足して、すべてのものが非常に良いと思われました。その時に創られた世界、すべての生き物、人間はどれほどすばらしいものだったのでしょうか。しかし、そのすばらしさは、この後、最初の人間が神様の命令に背いてしまったことで、ひどく傷つけられてしまいます。2章1節には「こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。」と記されています。そして7日目に神様はすべての働きを止めて休まれました。2章2節と3節は、7日目を特別な意味を持つ日として述べています。2節と3節はヘブル語の聖書では4行で書かれていますが、はじめの3行は皆同じ構造になっています。3行はヘブル語では、7つの言葉で書かれていて、それぞれ真中に「七日目」という言葉が記されています。ヘブル語では、何かを強調する時には、同じような言葉を3回繰り返して表現しますが、ここでは七日目という言葉が繰り返されています。しかも、3行とも、その中心に「七日目」という言葉が置かれているのです。それは、7日目がそれまでの6日間とはまったく異なった意味を持つ日であることと、また、その日が、この時から永遠に特別な日であることを意味しています。
 神様はなぜ、7日目に休まれたのでしょうか。もちろん天地創造の働きで疲れて休まれたのではありません。神様は決して疲れることのない方です。休むと訳されている言葉は、休憩するという意味ではなく、「働きを止める」という意味です。英語のstopのような言葉です。神様は天地創造の働きは止められました。すべてが完成したからです。しかし、神様は何もしておられないのではありません。主イエスが、ある安息日に、体が不自由で38年間も寝たきりの人を癒されたことがありました。ところがその日が安息日であったために、ユダヤ人たちはイエスを迫害しました。その時、主イエスは彼らに答えられました。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」神様は天地創造の働きは止められましたが、何もしていないのではありません。神様はこの世界の動きをいつも管理しておられます。この世界を守っておられるのです。地球が常に同じ速度で一定の方向に回り続けているのも、太陽の周りを同じ軌道をまったく外れることなく一定のスピードで回転し続けているのも、惰性で動いているのではありません。宇宙のすべての星の動きを神様が常に管理しておられるから、この宇宙はいつも規則正しく動いていて、私たちに時を教え、季節を教えてくれるのです。これらの動きは決してたまたまこうなっているのではありません。神様の手によって守られているのです。
 また、神様は七日目を祝福されました。祝福するとは実り豊かな日とするという意味です。これまで、天地創造のときに、神様は2回祝福しておられます。5日目に初めて生き物を作られた時と、6日目に人間をお創りになった時で、どちらにも「生めよ。ふえよ。」という言葉を語られました。ここでは7日目という日を祝福されましたが、それは、この日が霊的な意味で、信仰的な意味で実り豊かな日となるようにされたという意味です。この日は、私たちが生きていくのに必要な安息を与えて心身をリフレッシュする日であり、新しい力を与えて、私たちが満ち足りて生きることができるようにする日として制定されました。7日目が他の日と違う点がもう一つあります。それは、7日目には他の日のように「夕があり朝があった」という言葉は記されていまいという点です。これは、7日目が終わっていないことを意味します。神様が私たちに安息を与えるために制定された日は今もなお続いているのです。言い換えると、今もなお、神様は私たちに安息を与えるためにこの日を残しておられます。この世は、最初に神様が創られた時とは、大きくことなり、人間が神の命令に背いたことによって、誰もが自己中心で生きるようになって、生きるのが大変な世界になっています。ですから多くの人が人生に疲れています。しかし、そのような人々のために、今なお、神様の安息・休息の扉が一日中、昼も夜もなく開かれていることを意味します。
 さらに、神様はこの七日目を聖なる日に定められました。聖なるという意味は、神様のために特別にとっておくという意味です。私たちが、この世で生きる時に、7日間に一度のサイクルで、神様からの平安を受け取ることが必要だからです。特に、現代を生きる私たちは、誰もが忙しい日々を送っています。カトリックのシスターの渡辺和子さんが書いた本の中に、エレベーターのボタンのことが書かれています。人は、エレベーターのドアを早く閉めようとして、閉めるというボタンを押します。その操作によってエレベーターのドアは2,3秒早く閉まるのですが、私たちは、それで獲得した2,3秒という時間をどのように使うのでしょうか。しかも、そのように忙しく生活しながら、いろいろなことで心を悩ませて、多くの人が疲れ果てています。本当は一日の心配は一日で十分であり、私たちは一日、一日を生きればよいのですが、ある人が言ったように多くの現代人は二つの敵に挟まれて生きています。それは昨日のことを後悔する心と明日のことを思い煩う心という敵です。神様が創られたほかの動物は、一日、一日をそのままに受け入れて生きています。うちのペットのウサギも昨日のことを後悔している様子はありませんし、明日のことを心配しているふうにも見えません。ところが、人間だけはそのように生きるのが難しいようです。しかし、主イエスが言われたように、明日のことは明日が心配するのです。私たちは、心配する代わりに、一週間に一度を神様とともに過ごす日と決めて生きる時に、私たち体の疲れだけでなく、心の安息も得ることが出来るのです。このように教会の礼拝に出て、神様からの安息と祝福を受け取ることが、何にもゆるがない生き方ではないでしょうか。

(2)クリスチャンにとっての安息とは
 それでは、クリスチャンにとって安息とはどのように意味があるのでしょうか。マタイの福音書11章28節から30節までに主イエスの言葉が記されています。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたまたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎが来ます。」聖書は本当の安息を得るために必要なことは、イエスのところに来ることだと教えています。主イエスは、「私の教えを学びに来なさい」とか「私の奇跡の働きを見に来なさい」とは言われませんでした。「わたしのところに来なさい」と言われたのです。つまり、私たちは主イエスというお方と共に生きることが大切なのです。主イエスは、一切の罪がない神ですが、私たちと同じ人間となってこの世に来られ、私たちの身代わりとなって十字架で死んでくださいました。それは、私たち一人一人の心の中にある自己中心な態度、聖書はこれを罪と呼びますが、その罪の問題を解決するためのものでした。聖書は、人間が持っている最大の問題は、自分の周りの環境や社会あるいは周りの人間ではなく、自分自身の心の中にある罪だと教えます。すべての人間が自己中心なのでどうしても一緒に生きる時にぶつかってしまうのです。罪を持っている者はバツを受けなければならないのですが、それを私たちの身代わりに十字架で受けてくださったのが主イエスなのです。主イエスは、あなたの代わりに死んでくださった神です。親は子供を助けるために自分を犠牲にします。それは親が子供を愛しているからです。主イエスの十字架の死は、私たちに対する主イエスの愛を示すものです。あなたが、もし、孤独だなと感じているなら、是非、このことを知ってください。主イエスは、あなたのために自分のいのちを犠牲にするほどまでに、あなたのことを大切に思ってくださるのです。人は自分を愛してくれる人と一緒にいる時に心が落ち着きます。それと同じように、主イエスのもとに来るときに、私たちは本当の安息を得ることができるのです。
 主イエスは、ただ死んだのではなく、罪と死を打ち破って十字架の死から三日目に復活されました。そして今も生きておられます。聖なる霊的な存在として生きておられます。目には見えませんが感じることができます。聖霊という言葉は新約聖書の言葉であるギリシャ語では、パラクレートスというのですが、これは呼ばれて近くに来てくれる者という意味を持っています。聖書以外では、この言葉は弁護士とか、戦争で不利な状況にいる仲間を助けるために呼ばれる援軍を意味する言葉です。主イエスは、目には見えませんが、私たちのそばに来て私たちを助けてくださる方です。その方が、私たちに呼びかけておられます。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」このイエスとともに生きる生活に入る時に、人は本当の安息を味わうことができます。
 また、主イエスはマタイの福音書の11章で「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたまたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎが来ます。」と言われました。くびきとは、畑を耕すときに、2頭の牛の首につける木製の道具です。それをつけると2頭の牛は1+1=2以上の力を発揮するようになるそうです。私たちは、人生を一人で生きるのではなく、キリストとともに生きるのです。しかも主イエスは「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い。」と言われました。くびきは首にはめるものですから、形が首にあっていないと首が痛くなります。また、自分ともう一人がくびきでつながっていますから二人が同じペースで同じ方向に行かないと、その場合も首が痛くなります。主イエスは言われましたが。わたしのくびきは負いやすい。イエスは私たち一人一人のすべてのことを知っておられるので、私たちにぴったりあったくびきを与えてくださるのです。そして、私たちのペースに合わせてくださいます。私がこの世で抱える人生の様々な重荷も、一人で担ぐと重いですが、主イエスとともに担ぐならば軽くなります。主イエスは私たちよりも遥かに力ある方です。その方が私の重荷のほとんどの重さを担いでくださるのです。今日は日曜日、聖書的に言えば安息の日です。一週間の最初の日に、私たちはこのように礼拝で主イエスを礼拝し、この一週間も主イエスからの平安が与えられることを感謝するならば、残りの6日間の生活がずっと軽やかなものになるのではないでしょうか。私たちは、神様が備えてくださった安息の日を大切にして、この世が与えるのとは違う、神様からの安息を受け取って、歩んでいきましょう。

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