2013年6月23日『人間の創造』(創世記2章4~17節) | 説教      

2013年6月23日『人間の創造』(創世記2章4~17節)

創世記の2章4節から、天地創造の出来事について新しい記事が始まります。2章4節から17節には、もう一度、人間が創られたことが記されていますが、1章の記事とは多くの点で違いがあります。1章の記事は、宇宙的な視点で書かれていて非常に厳かな感じがしますが、2章からは場所もエデンの園を中心とした地球の一つの地域に限定されていて、ずっと身近な出来事に思えます。このように天地創造の同じ出来事、特に人間が創られる記事が1章と2章で繰り返されていますが、一番重要な相違点は、神を意味する言葉が違っていることです。1章では、エロヒームという言葉が使われていました。これは、世界全体を支配する神、この世界を創られた神という意味で使われていて、権威と力に満ちた全能の神を表す言葉です。ところが2章4節からは、ヘブル語では「ヤーウェー・エロヒーム」という言葉に変わります。新改訳では「神である主」と訳されています。ここから4章の終わりまで、天地創造の出来事が書かれていますが、一部の例外を除いて常に「ヤーウェー・エロヒーム」が使われています。この「ヤーウェー」という言葉は、ずっと後になって、神様がユダヤ人指導者モーセに知らせた名前で、「私はある」という意味を持っています。そして、この名前は、エロヒームとは違って、イスラエルの民と約束を結んで、常に特別な関係を持っていることを示す名前です。創世記の2章から4章には、特に、神様と神に創られた人間との関係に焦点が当てられています。この2つの名前はキリスト教の神の大きな特徴を表しています。「エロヒーム」は、この天地万物を創られた神様の偉大さと権威を示しています。私たちが信じている神様は小さな神様ではありません。人間の手によって運ばれなければならないような偶像の神ではありません。時間的にも空間的にも無限の神なので形がありません。だから神は見えないのです。もし目に見える神がいるとすれば、その神は決して無限の力を持つ神ではありません。次に「ヤーウェー」という名前は、私たちひとりひとりの人間と約束を結んで私たちと個人的な関係を結んでくださるという聖書の神の特徴を示しています。私たちが信じる神様は偉大な神様ですが、偉大であっても私たちから遠く離れている神ではありません。私たちと関係を結んでくださる神です。申命記4章29節で神様は私たちにこう語りかけておられます。「そこから、あなたがたは、あなたの神、主を慕い求め、主に会う。あなたが、心を尽くし、精神を尽くして切に求めるようになるからである。」しかも、私たちが神様を忘れても、神様は決して私たちを忘れることはありません。続く31節で神様は次のように言われました。「あなたの神、主は、あわれみ深い神であるから、あなたを捨てず、あなたを滅ぼさず、あなたの先祖たちに誓った契約を忘れない。」このように、聖書の神は、天地万物を何もない所から創造された偉大なエロヒームの神であると同時に、私たちひとりひとりのことを心に留め、私たちと個人的な関係を持ってくださるヤーウェーの神でもあるところが素晴らしい点なのです。全能の神があなたの個人的な友達になってくださることは大きな励みとなるのではないでしょうか。

(1)人間の性質
 創世記1章27節では、神が人間を創られたことを詩のような表現で記しています。「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」私たちは、偶然にできたのではなく神様の愛と期待をこめて創られた者です。新約聖書のエペソ人への手紙2章10節に「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」という言葉があります。作品と訳されている言葉は英語の聖書の中には、masterpieceとかworkmanshipという言葉を用いているものがあります。Masterpieceとは「傑作」普通この言葉は偉大な作曲家、画家、作家が作った作品の中でも特に素晴らしい作品の時に使います。またworkmanshipとは直訳すると「職人の技」ということです。ショッピングのカタログによく「職人の技」と呼ばれる有名な職人が作ったカバンや陶器などが載っています。見た目は他のものとあまり変わらないのにどれも値段がすごく高いのにびっくりします。それはその職人だけが持つ技術によって作られたもので、非常に質の高い作品だからです。私たちは、そのようなものとして創られた人間なのです。そして私たちは神のかたちに創られました。その意味は、私たちは他の生き物と違って、神様と特別な関係を持つことができる者として作られているということです。人間だけが神様から様々な霊的な祝福や恵みを受け取ることができるのです。この神のかたちは、最初の人間アダムとエバが神様の命令を破って罪を犯したために傷ついてしまいましたが、イエス・キリストを信じる信仰によって回復する道が開かれました。さらに、神様は人間を男と女とに創造されました。別の言い方をすれば、男も女もともに神のかたちに造られました。これは、男と女がまったく同等の者として創られていることを意味します。神様の心には男女差別はありません。
 このように1章では簡潔な言葉で人間が神によって創られたことが記されていますが、2章では、もっと詳しく、これまでは宇宙的な視点述べられていた出来事を、カメラを地球の一つの場所に限定して描いているような書き方がされています。2章の7節を読みましょう。「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」ここで、人間は、単に創られたのではなく「形造られた」と記されています。これはヘブル語のヤーツァルという動詞ですが、特にはっきりとした目的をもってデザインを考えて作る時に使われる言葉です。英語の聖書ではformとかfashionという言葉が使われます。
 また、人間は土地のちりで作られたと書かれています。ユダヤ人は、いわゆるオヤジギャグが大好きで、聖書の中にも、あちこちに言葉のしゃれが出てきます。ここでも「土地のちりで人を形造り」というところで、ヘブル語で土地のことをアダマーと言い、人のことをアダムと言います。だから、ヘブル語の聖書では、神は「アダマーのチリからアダムを作った。」と書かれているのです。人間とは、そもそも土地のちりだと言うのです。人間の肉体の成分は何も特別なものはありません。創世記2章19節を見ると、神様はあらゆる野の獣と空の鳥も土から作っておられるので、人間の体の材料は他の動物と何も変わらないのです。ヨブ記34章15節に記されているように、いのちを失った人間の体はちりに帰るのです。「すべての肉なる者は共に息絶え、人はちりに帰る」
 ところが他の動物は土地のちりで形作られて生きるものとなりましたが、人間だけは違いました。7節を見ると、神様は人間を土地のちりで形造った後に、人間の鼻に「いのちの息」を吹き込まれました。その時はじめて、人は生きものとなりました。
「息を吹き込む」という言葉は、ちょっとロマンチックな言葉です。白雪姫が毒りんごを食べて気を失っていた時に白馬に乗った王子様がやって来てキスをしたら白雪姫が目をさましました。白雪姫を愛していた王子様は、彼女を助けるという一心で、彼女にキスをしたところ、彼女が生き返ってふたりはその後幸せに過ごしましたというストーリーです。王子様は白雪姫が生き返ってどれほど喜んだことでしょう。それと同じように、神様は土くれに過ぎない人間に近づき、その鼻にキスをするかのように、ご自分の息を人間に分け与えてくださいました。それで初めて人間は生きものとなったのですが、神様はこの時、どれほど喜ばれたことでしょうか。人間とは、そのような存在なのです。人間は、本来、神様とともに親しく交わるように、神様と同じ息を持つ者として造られました。ヘブル語では「息」を表す言葉には「霊、spirit」という意味も持っています。人間は神様と同じ霊が与えられて初めて本当に生きる存在なのです。もし、この霊が死んでしまっていたら、ただの土くれに過ぎないのです。人間が人間として本当の価値を持ち、本当の能力を発揮するのは、神と霊の交わりを持つときであると聖書は教えています。

(2)人間が住むところ(8-14節)
 神様は作られた人間を、東の方エデンに園を設け、そこに置かれました。東の方とは、どこから見て東なのかということですが、これを書いたモーセから見て東です。モーセがどこにいる時に創世記を書いたのか分かりませんが、いずれにせよ、現在のイスラエル、あるいはエジプトのシナイ半島から見て東ですので、現在のイラクあたりの地域だと思われます。エデンそのものが庭であったのではなく、エデンという場所に、神様が、人間が快適に過ごせるような庭園を作ってくださいました。エデンがどこにあるのか分かりませんが、そこから4つの川が流れ出ていたことが記されています。第三のヒデケルはアッシリア時代の遺跡からチグリス川であることが分かっています。また第4の川のユーフラテスはチグリス川と共にペルシャ湾に流れ込む川であることは知られています。しかし、第一の川ピションと第二の川ギホンがどこを流れていた川なのか今も分かりません。ギホンはクシュの全土を巡って流れると書かれています。旧約聖書ではクシュは一般的にエチオピアを指すので、これはナイル川を指しているかも知れませんが、クシュが他の地域を意味する場合もあるので、確定できません。ピションはハビラの全土を巡って流れていましたが、ハビラの地がどこなのかが不明です。ただ、そこからは良質の金や黄色い松脂と思われるブラトフそして宝石のしまめのうと高価なものが多く獲れていましたので、当時は有名な場所であったに違いありません。エデンの園の正確な場所は分かりませんが、いずれにせよ、現在のイラクのあたりであったと思われます。神様は、その場所に、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせてくださったので、素晴らしい楽園であったことは確かです。ここはエデンの園とかパラダイスと呼ばれますが、パラダイスという言葉自体、ペルシャ語で「庭」を意味する「パラデサ」から作られた言葉です。最初に創られた人間のアダムとエバは、まさにパラダイスで生活をしていました。エデンというヘブル語の言葉は「喜び」という意味を持っています。ですから、エデンの園は神様にとってもアダムとエバにとっても喜びに満ちた場所であったことは確かです。だからこそ、神様は6日目にすべてのものを創られた後に、すべてのものを見て非常に良かったと満足されたのです。この世界は神の目に非常に良い世界であったのですが、その中でも神様は最初の人間アダムとエバをエデンの園という喜びに満ちた美しい楽園に置かれました。エデンの園には人間が必要とするすべてのものがありました。彼らは何一つ不自由なく、神様との交わりを喜びつつ毎日を過ごしていたのです。

(3)人間の責任
 神様は人間にこのように素晴らしい場所を備えてくださいましたが、同時に人間に対して守るべき規則をお与えになりました。9節に書かれているように、園の中央には、いのちの木と善悪の知識の木が2本並んで生えていました。神様はアダムに命令を与えることによって人間の果たすべき責任を作られました。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」エデンの園には見るのに好ましく食べるのに美味しい木や植物が無数に生えており、神様は、それらの木から心ゆくまで自由に食べて良いと言われました。エデンの園には美しい花々と美味しそうな野菜果物が限りなく生えていていつでも食べたい時に、自由にとって食べることができました。私が初めてアメリカに行った時に、カリフォルニアで、知人の友人の家を訪れたのですが、家の裏にぶどう畑があり、たくさんの緑のぶどうの実がなっていました。その家の人から「自由にとって食べていいよ」と言われたので、思いのまま取って食べましたが、本当に楽しいひと時でした。アダムとエバもどれほど楽しい生活をしていたことでしょう。ところが、神様は一つだけ守るべき規則を作られました。それは園の中央に生えている善悪の知識の木からはとって食べてはいかないという規則でした。それを食べると必ず死ぬと神様は言われました。エデンの園には、数限りなく美しい花が咲き、美味しいものが実っていました。アダムとエバはそれらを自由に食べることができました。その中でただ一本だけ食べることが禁じられました。ある人は、神様がこのような規則を作るのは意地悪だと言いますが、これは、神様が人間と本当の交わりを持ちたいと思われたからです。神様は人間を創る時に、何でも神様の言うことを聞くロボットのように創ることもできましたが、そのようなロボットを創っても本当に楽しい交わりはできません。相手は機械のようにしか動かないロボットだからです。神様は人間を神のかたちに創られましたが、それは神様と同じように、たくさんの能力が与えられていることを意味します。その一つが自分で考えて決断する。二つのものを選ぶ時に、自分で考えて自分で選ぶことができる能力が与えられているのです。神様は人間と本当に心の通った交わりをするために、人間が自分の力で考えて神様と交わることができるように創られたのです。その選ぶという能力を実際に使うためには、してはいけないことも無ければなりません。間違ったものを選ぶ可能性がなければ、するかしないかを決める、選択するということができないからです。
 神様はエデンの園の中央にいのちの木と善悪を知る木の2本のとても大切な木を植えられました。いのちの木は人々にいのちを与える木です。いのちの木は完全な場所にしか生えていません。聖書では創世記のエデンの園の中と、ヨハネの黙示録22章2節に記されているだけです。「都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。」一方の善悪の知識の木は、神様から「それを食べると必ず死ぬ」と言われていた木です。この2本の木が園の中央のよく見える場所に2本並んで生えていました。アダムとエバは毎日、この2本の木を見て、自分の行動を決めなければなりませんでした。この時に、二人は神様から与えられて自由意思で自分の行動を決定する能力を使う機会が与えられていました。ふたりは、いのちを選ぶか死を選ぶか、神の言葉に従って生きるか、神の言葉に逆らって生きるか、善を取るか悪を取るか。神様は、私たち人間が強制的に神を愛し神に従うのではなく、人間が自分の自由意思で神を愛し神に従うことを求められたからです。
 神様が与えた禁止事項は、一つだけです。それ以外はすべて許されていました。神様がアダムとエバに願ったことは、神様の言葉をよく聞いて、それに従おうとする心です。それが私たちの神様に対する愛だからです。誰かを愛する時に、人はその人の言う通りに生きようとしますから。神様はアダムとエバに自分で考え自分で選んで神を愛する、このような本当の愛に基づく関係を持ちたかったのです。私たちもアダムとエバのように神に創られた人間です。神様は善なる神です。私たちのためにいつも最善のことをしようと思っておられます。だから、私たちにとって、神様の言葉に従って生きることが一番大切であり、最も幸福な人生につながって行くのです。主イエスは言われました。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」

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