2013年6月30日『男と女が創られた』(創世記2章18~25節) | 説教      

2013年6月30日『男と女が創られた』(創世記2章18~25節)

 創世記1章では、神様が6日間でこの世界とその中にあるすべてのものをお創りになったことが記されていますが、一日の働きを終えるごとに、神様はご自分が創ったものをご覧になって「それを良しとされた」という記事が繰り返して記されています。そして6日目にすべての業を完了された時には、すべてが非常に良かったと書かれています。このように神様が創られた世界は完璧なものでした。2章の4節からは、神様の働きが視点を変えて、繰り返し語られていますが、その特徴は、神様の呼び名が変わっていることです。エローヒームからエロヒーム・ヤーウェーに変わりました。ヤーウェーという呼び名が示していることは、天地万物をお創りになった神様は私たちの理解を超える偉大な全知全能の神様であると同時に、私たち人間と個人的な関係を持ってくださる神様であるという点です。そもそも、この世界が創られた理由は、神様が、私たち人間と共に楽しい交わりを持とうと思われたからです。この宇宙が創られたのも、地球が創られたのも、すべての植物や動物が創られたのも、人間が喜びを感じて生きられる環境を創り出すためでした。

(1)アダムの必要
 このように、神様が創られた世界は何一つ欠けた物のない完璧な世界だったはずですが、2章18節を見ると神様はこう言われました。「人がひとりでいるのは良くない。」この「良くない」という言葉はヘブル語の表現では、かなり強い言い方がされています。男だけが一人で生きているのは、ちょっと何かが足りないことではなく、根本的に不完全な状態であることを示しています。ただ、「人がひとりでいるのは良くない」と思われたのは、神様で、最初の人間アダムが神様に「寂しい」と訴えたからではありません。アダムは、神様が人間のために特別に創ってくださったエデンの園で、有り余るほどのおいしい食べ物や動物たちに囲まれて、自分が一人ぼっちという思いは持っていなかったのではないでしょうか。アダム自身は自分の必要を感じていなかったのですが、神様がその状態は良くないと見て、その状態を変えなければいけないと行動を起こされたのです。このように、私たちの神様は、私たちが自分の必要に気がつく前に、すでに私たちの必要を知っておられて、私たちのために最善のことをしてくださる方です。それで、神様は「私は彼のために彼にふさわしい助け手を造ろう」と言われました。日本語で「助け手」と訳されているために、ある人は、神様は男のためにヘルパーとして働く者として女を創られた、つまり、女を男よりも低い身分の者として創られたと考えます。しかし、「助け手」と訳されている言葉は「エゼル」と言うのですが、旧約聖書の中で20数回使われています。そして、そのほとんどは、神様がイスラエルの民の助け手となってくださるという時に使われていて、人間のことで使われる方が珍しいぐらいです。例えば、第一サムエル記の7章12節にはこのような言葉が記されています。「そこでサムエルは一つの石を取り、それをミツパとシェンの間に置き、それにエベン・エゼルという名をつけ、「ここまで主が私たちを助けてくださった。」と言った。」当時のイスラエルのリーダーはサムエルでしたが、ペリシテ人との戦いで大きな困難を経験していました。神様の助けを受けてペリシテを征服した時に、サムエルは神様の助けに感謝して、そのことを記念する記念碑を立ててその場所をエベン・エゼルと名づけました。神様が男のために助け手を創られたのも、このエゼルとしての助け手でした。ですから、男にふさわしい助け手とは、決して男よりも劣った者ではないことがわかります。
 神様は女性を創る時に「彼のために彼にふさわしい助け手」を創ると言われました。男は、男だけでは不完全な存在であり、女性が男性の足りない部分を補うことによって完全な人間となることを意味しています。日本語では「彼にふさわしい」と訳されていますが、ヘブル語では、「彼とペアをなすような」という表現が用いられています。男と女が一つのペアを創るためには、同じような性質を持っていなければなりません。聖書は、神様が人間を神のかたちに創られたとありますが、神様は男も女も同じ神のかたちに似せて創られました。そして女が男の相手役となって、男に欠けているところを補えば、男と女で完全なものとなるのです。言い換えると、女性は男性と同じ性質を持っていると同時に、男にはないものを持っているということになります。
 最初に創られた人間アダム自身は寂しさを感じることはなかったようです。ただ単に、アダムは自分がひとりであるということを知らなかったのです。それで、神様は、アダム自身がひとりであることを気づかせるために、アダムに、神様が創られたあらゆる動物に名前をつけるという任務を与えられました。それで、エデンの園にいたあらゆる動物や鳥たちがアダムのところに集まってきました。一つ一つの動物の特徴を見て、その動物にふさわしい名前をつけることは簡単ではありません。アダムは、名前をつけるためにいろいろな動物や鳥を詳しく観察したと思いますが、アダムは自分と対等に交わりを持つことができる存在を見つけることができませんでした。また、動物や鳥たちにはオスとメスがいて、どれもが仲睦まじくしている様子を見た時に、自分には他の動物のようにパートナーがいないことに気がつきました。動物たちの様子を観察し、名前をつけて行くうちに、彼は自分にも他の動物のようなパートナーを持ちたいと思ったに違いありません。神様は、アダムにこのような責任を与えることを通してアダムの心を準備しておられたのです。

(2)女が創られた
 いよいよ、神様はアダムにふさわしい助け手をお創りになりました。21ー22節「そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。(22) こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。」まず、神様はアダムを深い眠りに入れられました。そして、アダムの体内から一本の肋骨を取って、それで女をお創りになりました。アダムは土のチリから創られたのですが、女は土のチリからではなく、アダムのあばら骨から創られました。ですから材料だけを考えれば、女性は男性よりも遥かにすぐれていると思います。すべての生き物の中で、最初の女性エバだけが土のチリではなくアダムの体の一部から創られたのです。エバはアダムと同じ骨、同じ肉、同じDNAによって創られました。ですから、アダムが神のかたちに似せて創られたのですから、エバも神様のかたちに似た者として創られました。エバはアダムと全く同じDNAを持っており、同じ神のかたちを持っており、アダムと比べて、何一つ劣っている点はありませんでした。ピューリタンの聖書学者マシューヘンリーは次のような言葉を書いています。「エバがアダムの頭の骨から創られなかったのは、エバがアダムを支配しないためである。足の骨から創られなかったのはエバがアダムを踏みつけないためである。あばら骨から創られたのは、エバがアダムと同等であることを示している。またあばら骨は脇の下にあるので、アダムがエバを守る存在であり、また、その骨は心臓(ハート)の近くの骨であるから、エバはアダムに愛されるべき存在であることを示している。」エバは、アダムにとって極めて大切な存在として創られました。そして、神様は、そのエバをアダムのところへ連れて来られました。ちょうど、結婚式で花嫁の父が自分の娘を花婿のところへ連れてくるような感じです。神様によってアダムのもとへ連れて来られたエバは、罪を犯す前ですので、肉体的にも、霊的にも完全な者でした。どれほど美しい姿であったことでしょう。
 動物に名前をつけながら自分のパートナーがいないことに気づいていたアダムが、エバを初めて見た時に、どのような反応を示したでしょうか。23節を読みましょう。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」アダムがエバを見て、嬉しさのあまり興奮している様子がよく現れている言葉です。これまであらゆる動物や鳥を見ても自分のパートナーにふさわしい動物は一匹もいませんでした。アダムは、次第に、他の動物とは違って、自分にはパートナーがいないことに気がつき、寂しさを感じるようになっていたでしょう。そんな時、眠りから覚めると、目の前に神様によって創られたエバがいたのです。「私の骨からの骨、肉からの肉」この表現はユダヤ人の伝統的な考えを表しています。日本では、人間の近い関係を表す時に血縁関係と言って、同じ血が流れていることが近い関係であることを表しますが、ユダヤ人は血縁関係ではなく骨肉関係と表現するのです。アダムはエバを見た時に、自分の姿を鏡で映し出しているように感じたでしょう。そして、自分のカラダとは違うことも、十分に納得できることでした。宗教改革者カルビンが書いた創世記の注解書には、アダムの言葉を次のように言い直しています。「私は、ついに、自分にふさわしいコンパニオンを見つけた。この人は私の体の一部だ。私は、この人の中に、自分自身を見ているようだ。」彼は、エバを見て、寂しかった思いが消えました。愛する対象が見つかったからです。
アダムは、神様から言われてあらゆる動物に名前をつけていましたから、名付けることが得意になっていました。それで、彼はエバを見た時にこのように言いました。「これを女と名付けよう。これは男から取られたのだから。」日本語に訳すとアダムの言葉の意味は分かりませんが、ヘブル語では女は「イッシャー」と言い、男は「イッシュ」と言います。ついでに言うと、「イスカリオテのユダ」と言うのは正確に言うと「イッシュカリオテのユダ」で、カリオテという町の出身の男ユダという意味なのです。アダムが言ったのは、「これをイッシャーと名付けよう。これはイッシュから取られたのだから。」ということでした。ヘブル語では、言葉の後ろにアーとかヤーを着くと女性を表す言葉になります。自分を表すイッシュという言葉に女性を表すヤーをつけてエバをイッシャーと呼びました。女という言葉の中に自分自身の名前を加えているのは、アダムがエバと親しい関係を持ちたかったという気持ちの現れだと思います。

(3)結婚の制定
 24節に「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」と書かれていますが、これはアダムの考えたことではなく、著者のモーセが神様から示されたこととして書いたことです。神様がこの世界を創り、人間を創られましたが、その後、人間が一つの家族から、社会が生まれ、国が生まれて行くことを知っておられました。人間の世界がさまざまな組織で成り立っていくことも知っておられましたが、最初に神様が制定されたのが結婚でした。人間社会の出発点は男と女が結婚して生まれる家庭にあったのです。聖書は、結婚も家庭もとても大切なものとみなしています。25節の言葉は、主イエスご自身もマタイの福音書19章5節で引用しておられますが、結婚について3つのことを教えています(1)「男はその父母を離れよ」聖書は、男と女が結婚して結ばれる関係が最も重要で、緊密な関係であることを教えています。ですから、そのような関係が結ばれるためには、男も女も親から離れなければなりません。これは、実際に家を出るということよりも、むしろ精神的に親から自立して離れることを意味していると思います。というのは聖書の中の家族の場合、例えば、ヤコブには息子が12人いましたが、兄たちは結婚してもヤコブと一緒に生活していました。しかし、男も女も自分にとって第一の責任は夫であり妻であることです。この決意がなければ、結婚した男と女が強い絆に結ばれた家庭を築くことはできません。(2)「男は妻と結び合い」この「結び合う」と訳されている言葉(デベク)は非常に強いことばで、抱きついて離れない、という行動の面と、相手を愛し、相手に対して忠誠を誓うという内面の思いの両方を意味します。この言葉の典型的な例はルツ記にあります。「彼女たちはまた声をあげて泣き、オルパはしゅうとめに別れの口づけをしたが、ルツは彼女にすがりついていた。」ルツがしゅうとめのナオミに「すがりついた」のがこの言葉です。夫をなくした嫁のルツがしゅうとめのナオミとの関係を続けたかったので自分を残して故郷に帰ろうとしているナオミにしがみついている場面です。そして(3)「ふたりは一体となる」男と女の結婚は、二人が一つの体となることを意味します。男は女の体の一部であり、女は男の体の一部です。文字通り肉体的にも一つであり、精神的、霊的にも一人の人と見なされるほどに、結婚とはお互いを結び合わせるものなのです。ここで忘れてはならないのは、神様が、この結婚に関する命令を言われたのは、天地創造のわざの6日目であったことです。つまり、男と女が創られ、そして結婚に関する教えが言われたのは、天地創造が行われている最中でありました。結婚というのは人間の勝手な気分で行われるものではなく、神様から決められたものとして行わなければならないものなのです。
 25節を見ると、その時、男も女も裸でしたが、お互いに恥ずかしいとは思いませんでした。それは、二人は神様によって完全なもの、恥じることを何一つ持っていない者として創られたからです。二人は神様の前に結ばれ、神との交わりを持ち、神の前でもお互いの前でも完全な状態で存在していたからです。神様が創られた完全な場所であるエデンの園で、ふたりは、罪のない状態で、神様と完全な生活を過ごしていました。現在の社会が、このエデンの園とは全く異なっているのは、そこに罪が入ってしまったからです。それが人間の運命を完全に変えてしまいました。ですから、私たちは、ペテロが第二の手紙に書いた言葉に耳を傾けて慎み深い生活に励みたいものです。「しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。」

2013年6月
« 5月   7月 »
 1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30  

CATEGORIES

  • 礼拝説教