礼拝説教  「心のうちが燃えている」(ルカ24章13~35節) | 説教      

礼拝説教  「心のうちが燃えている」(ルカ24章13~35節)

 先週は、イースター礼拝で、主が蘇られた朝早く、イエスの墓に行った女性たちが、イエスの復活を知るという出来事について語りました。今日は、その続きです。ルカの福音書24章13節から35節までに記されているのは、同じ日曜日の午後の出来事です。主イエスが十字架につけられたのは三日前の金曜日。イエスは、午後3時ごろに、「完了した」と叫んで息を引き取られました。「完了した」という言葉は、主イエスの勝利の宣言でした。私たち人間の罪が赦されて神との関係を回復するための道が開かれたという宣言です。しかし、十字架の周りに集まっていた人々、イエスを救い主として期待していた人々の中で、イエスの勝利を信じていた人はほとんどいませんでした。日が暮れると、皆、ただ悲しみと失望を感じつつそれぞれの場所へ戻っていきました。

 翌日の土曜日は、ユダヤ人の安息日です。その日は、ユダヤ人にとって、神様を礼拝する特別な日ですので、仕事をすることも旅をすることもしませんでした。そして、週の最初の日曜日になりました。その日の午後、日が傾き始めたころ、イエスに従っていた二人の弟子が、エルサレムからエマオという村に向かって歩いていました。エマオはエルサレムの西10キロほどのところにあった小さな村です。ふたりの内の一人の名前はクレオパと言いました。クレオパという名前は「クレオパトロス」という名前を短くしたもので、ヨハネの福音書の19章25節出てくるクロパと同一人物だろうと思われます。イエスが十字架に付けられたときに、十字架のそばにいた女性たちの中に、イエスの母マリヤ、マグダラのマリヤらとともに、クロパの妻マリヤがいたと記されています。ですから、エマオの村に向かっていた二人とは、クレオパとその妻マリヤであったと考えるのが自然です。彼らは、悲しみにうちひしがれてエルサレムから自分の家に帰る途中でした。14節に「ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた」と書かれていますので、彼らが、イエスと共に行動していた間に目撃したすべてのことを思い返していたのでしょう。イエスが十字架につけられる週の日曜日、二人は、主イエスがエルサレムに入られる時に、大勢の群衆が「ダビデの子ホサナ」と叫んでの熱狂的に歓迎していた様子、月曜日は、神殿の外庭にあった両替商やいけにえの動物を売っていた屋台をひっくりかえして、神殿をきよめられた様子、火曜日には、ユダヤ教の指導者たちと様々な論争をされたこと、そして、金曜日に十字架に掛けられて、墓に埋葬された様子など、一週間に主イエスに起きた様々な出来事を思い返していました。21節の彼らの言葉によれば、二人は「この方こそイスラエルをあがなってくださるはずだ」と望みを掛けていました。ここで、イスラエルをあがなう」と書かれていますが、これは、イスラエルを敵の手、つまりローマ帝国から救い出すことを意味します。当時、ローマ帝国に支配されていたユダヤ人たちの多くは、旧約聖書に預言されている救い主は、政治的な救い主、軍事的な救い主にちがいないと勝手に期待していました。彼らは、約束の救い主が、人間を罪の支配と裁きから救い出す救い主であるということを理解していなかったのです。それで、彼らは、イエスが十字架で死んだのを見て、すっかり希望を失ってしまいました。

 クレオパと妻マリヤは、夢中になっていろいろ話し合ったり論じ合ったりしていましたが、その時、復活された主イエスがそっと二人に近づきました。しかし、ふたりの目は遮られていたために、それが主イエスだとは気がつきませんでした。その道はエルサレムから海岸に至る道なので、いつも大勢の人々が歩いていました。そのように混み合っている状態では、別の旅行者と一緒に歩くことも、よくあることでした。この時、ふたりの目がどのように遮られていたのかは分かりません。二人は、主イエスが現れることなどまったく予期していません。しかも、復活の主イエスには光り輝くような特別の姿はありませんでした。また、二人は下り坂を西に向かって歩いていたので、正面には太陽がまぶしく光っていました。イエスの姿がまばゆい光のために見えなかったのかもしれません。あるいは、聖霊の働きによって、特別に、彼らにはそれがイエスとは分からないようにされていたとも考えれます。いずれにせよ、二人は、それがイエスとは分からず、同じエルサレムからどこかに向かって旅をしている人だと思いました。

 主イエスは二人に尋ねました。「歩きながら、ふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると二人は暗い顔つきになって立ち止まりました。彼らが、どれほど失望と悲しみに襲われているかが分かります。そして、夫のクレオパが、主イエスに向かって、主イエスとは知らずに、不機嫌な様子で言いました。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こったこと、あなたは何も知らないのですか?」クレオパは、話している相手が復活された主イエスとは知りませんから、エルサレム中が大騒ぎになったイエスの十字架のことを知らない人間がいたことにびっくりし、そんな人間がいたことにあきれたのです。さらに、イエスが「何のことですか」と尋ねられたので、19節以下に書かれているように、クレオパが話し始めます。主イエスはどんな思いで彼の話を聞いたでしょうか。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。」主イエスは、ぐっと我慢して途中で口を挟むことなく、クレオパが話を終えるのを待っておられました。私たちも、この二人を笑うことはできません。私たちも、主イエスに向かって不信仰な祈りをささげることがないでしょうか。主イエスは全能の神であるにも関わらず、自分が直面している問題によって押しつぶされそうになると、自分が信じている神様が全能の主であることをわすれてしますことはないでしょうか。そのような姿の私たちを見て、あるいは私たちの言葉を聞いて主イエスはどのように思っておられるでしょうか。クレオパは、語れば語るほど、自分の不信仰をさらけ出しています。ローマ人への手紙10章17節に「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについての言葉、あるいは、キリストの言葉によるのです。」と書かれています。ただ、私たちは、本当にその言葉を聞いてそれをそのままに受け取っているのかどうかを問わなければなりません。神の言葉は、生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通すと言われています。しかし、それは、私たちが、真剣な心で聞いているときにはじめて実現するのです。この二人の弟子も、イエスの言葉を何度も聞いていたはずですが、それを完全には信じてはいなかったのです。二人は、主の復活の証拠をすでにたくさん、持っていました。21節の後半からクレオパは次のように述べています。「その事があってから、三日目になりますが、また、仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、イエスのからだが見つからないので、戻ってきました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げたと言うのです。」彼が言った言葉の中に、主イエスの復活を示す証拠がいくつあるのでしょうか。これ以上、どんな証拠が必要なのでしょうか。きっと主イエスは、クレオパの話を聞きながらそう思ったことと思います。二人は、イエスの言葉をよく聞いていたはずですから、主が、苦しみを受けて、十字架につけられるが三日目によみがえるということも聞いていたに違いありません。それでも、二人は、失望して、暗い気持ちでいろいろ論じ合っていました。本当は、これだけの証拠を見れば、主が復活されたことを信じて、むしろ喜びに満ち溢れていなければならないのですが、彼らの信仰の目は非常に弱っていたために、悲しみでいっぱいでした。

 すると、主イエスは二人に言われました。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。」イエスは弟子のクレオパと彼の妻を叱りました。二人は、旧約聖書の預言者の言葉を信じていたはずですが、問題は、預言者たちの言ったすべてを信じていないことでした。私たちクリスチャンは、聖書に書かれているすべての教えを信じなければなりません。「すべて」というのが信仰のキーワードです。彼らは、旧約聖書の救い主メシヤに関する教えを読んで信じていたと思いますが、自分が信じたいことだけを選んで信じていました。旧約聖書には、力強いメシヤの姿も預言されていますし、同時に、苦しまなければならないメシヤについても預言されています。しかし、二人は、自分たちをローマの支配から助けてくれるような救い主を望んでいたので、苦しむしもべとしてのメシヤを受けいれることができませんでした。二人は、「愚かな人たち」「心の鈍い人たち」と呼ばれてしまいました。そして、27節を見ると、主イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事柄を彼らに説明されました。おそらく、主イエスは、創世記の3章15節を最初に語られたでしょう。それは、アダムとエバがエデンの園で罪を犯した出来事の中で、主イエスについて最初の預言だからです。また、創世記の22章についても説明したと思います。それは、アブラハムが25年待って与えられた息子イサクを神様にいけにえとしてささげるように命じられた時の出来事です。父親が待ちに待って生まれた一人息子を神様にささげる時のアブラハムの苦しみは父なる神がひとり子イエスを十字架に掛ける苦しみのひな形だからです。また、イザヤ書53章に記された、イエスの十字架の詳しい預言についても語られたはずです。聖書を理解する秘訣は、聖書のあらゆる箇所に主イエスに関することが書かれていることを理解することと言えます。イエスの言葉を聞いていた二人は、これまで暗記していた旧約聖書の言葉や、預言者イザヤの言葉の意味などが、イエスの説明を聞いて、新しい光が差してきたように感じました。彼らはあとから気づくのですが、キリストの話を聞くうちに、彼らは心の中が燃えるような感じを味わっていたのです。
 そのうちに、3人はエマオの村に近づきました。主イエスは、そこで二人と別れるような行動をとられたのですが、二人は、もっと、話を聞きたくて、強引に自分たちの家に泊まるようにと勧めました。家に入ると、妻マリヤは急いで食事の準備をしました。そして、三人が食卓につくと、普通は、招いたクレオパがホストなので、お祈りをしてパンを配るのですが、この時は、主イエスが、パンを手に取って祝福の祈りをささげられました。この二人は、弟子として、常にイエスと行動を共にしていたので、イエスが5000人の人々にパンと魚を配られたときにも、その場所にいたはずです。それで、二人は、主イエスがパンを手にとって祝福の祈りをする姿を前に見ていました。きっと主イエスの祈りには独特のスタイルがあったと思います。また、パンを裂いた主の手にははっきりと釘を打たれた跡が残っていました。それで、二人の心の目が開かれて、これまで一緒にいた旅人が主イエスであることが、この瞬間に分かりました。二人が「イエス様だ」と叫んだ時、イエスの姿は見えなくなりました。普通に考えると、二人はイエスが死んだと思い込んで失望していたのですから、イエスが一緒にいることがわかって喜んで叫び声をあげた瞬間にイエスの姿が見えなくなった時に、どうしてイエスが消えてしまったのか分からず、失望や怒りを感じるのではないかと思います。しかし、彼らは違いました。彼らの心にあった、疑いや疑問、失望、悲しみ、それらすべてが一瞬で消えてしまったのです。彼らは、主イエスが復活されたメシヤであると確信をしたので、イエスの姿が見えなくなっても、まったく悲しい思いはありませんでした。むしろ、二人は、復活の主と出会い、しばらく一緒に時間を過ごしたことを思うと、うれしくてうれしくて、すぐにでも11人の弟子たちに知らせたくなって、夜も更けていたにもかかわらず、エルサレムに向かって再び急いで歩き始めました。当時の街道は、夜歩くことは非常に危険でした。どこに強盗が隠れているかわからなかったからです。しかし、二人には、そんなことはまったく無関係でした。イエスの復活をできるだけ早く伝えたい、その一心で、上り坂の道を喜びに満ちて歩いて行きました。

 二人は、最初の日曜日の朝、暗い心でベッドから起き上がりました。そして、暗い気持ちでエルサレムから自分の家があるエマオに向かって旅を始めました。道を歩く間も、二人はイエスの十字架の意味が分からず、いろいろ話し合っていました。ところが、夕方になって主イエスが彼らといっしょに歩いてくださり、そして、ついに、彼らの目を開いて、その日主が彼ら二人と一緒であったことを知らせました。悲しみと失望で始まった一日が大きな喜びによって終わりました。それは、その日の途中で、主イエスが彼らと一緒に道を歩いてくださったからです。もし、あなたが、日々、主イエスとともに歩んでいるなら、本当に幸せな人生を歩んでいます。主は、地上の人生の最後の瞬間まで、あなたと共におられるからです。主がともにおられることを知るならば、私たちは、何も恐れることなく、いつも平安を感じることができます。詩編の記者も23篇4節でこう言っています。「たとえ死の陰の谷を歩くことがあっても、私は、わざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」主イエスは、復活された後、天に帰られました。そして、今は、信じる一人一人に目には見えませんが聖霊として、いつも私たちと一緒におられます。全知全能の神ご自身がともに歩んでくださるとは何と幸いなことでしょう。人間の力ではどうすることもできないことであっても、その中にも神様が働いてくださいます。死に対しても打ち勝たれた主イエスがあなたとともに、今もおられます。これが、私たちの与えられた福音、すなわち喜びのメッセージなのです。

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