2016年4月10日 『人生でもっとも大切なこと』(ヨハネ21章12-19) | 説教      

2016年4月10日 『人生でもっとも大切なこと』(ヨハネ21章12-19)

 私たちは、信仰生活の中で誰でも失敗をします。失敗をすると、私たちは落ち込んで、自分は駄目な人間だと考えてしまいます。そして、神様が自分のことをもはや愛していないのではないか、神様から見捨てられるのではないかと、どんどん悪い方向に考えて行きます。しかし、ちょっと待ってください。私たちが信じる聖書の神様は全知全能の神様です。すべてのことを知っておられる神です。神様は、最初から、私たちが不完全な人間であること、失敗の多い人間であることを知っておられ、そんな私たちのために罪のない神の一人子イエス様を十字架にはりつけにされたのです。ですから、私たちは、どんな時も神を見上げ、神から離れないようにしなければなりません。今日の聖書の箇所には、主イエスの弟子の一人ペテロが,人生で最大の失敗をした後、主イエスがペテロの信仰を回復させてくださった様子が描かれています。
 ペテロは、もともと魚を捕る漁師でしたが、主イエスから、「私についてきなさい。あなたを人間を取る漁師にしよう。」と言われて、イエスの弟子の一人になった男です。使徒パウロと違って、すぐれた教育を受けていない、ごく普通の人間でした。彼は、主イエスが大好きで、本心から、主イエスの為なら自分のいのちを犠牲にしても良いと考えていたと思います。ただ、彼は十分に考えずに言葉を言ったり、行動を起こしたりするので、失敗することも多かったのです。彼にとって人生最大の失敗は、主イエスが十字架にはりつけにされる時に、周りの人から「あなたもイエスの仲間だろう」と尋ねられたときに、怖くなって、「イエスを知らない」と3回も繰り返して言ったことでした。主イエスは、最後の晩餐の後ゲッセマネの園に向かっていた時、弟子たちに言われました。「あなたがたはみな、つまずきます。」すると、ペテロは「たとい全部の者がつまづいても、私はつまずきません。」と断言していました。(マルコ14章29節)それにも関わらず、彼はイエスを裏切ってしまったのです。ペテロはイエスの言葉を思い出して、激しく泣きました。自分が心から慕い、その弟子であることを誇りにしていた主イエスを裏切ったことは、死ぬまで彼の心から消えることはなかったでしょう。彼は、主イエスが十字架に付けられた日も、その次の土曜日も、心を悶々とさせていたはずです。
 ただ、主イエスはペテロの失敗を知っておられましたが、それだけでなくペテロの心の中も知っておられました。それで、主イエスは復活の日、朝、女性たちの前に姿を現わされた後、他の弟子たちよりも先に、ペテロに個人的に姿を現わされました。それは第一コリント15章の5節に書かれています。その出会いの様子は聖書に書かれていないので、詳しいことは分かりません。イエスがペテロに何を話されたのか、分かりません。ただ、他の弟子よりも先にペテロに姿を現わされたのは、主イエスがペテロの心の状態を知っておられたからです。ひどく落ち込んでいたペテロは、主が自分だけに姿を現わしてくださったことで、非常に慰められたことでしょう。さらに、その日の夕方には、他の弟子たちといっしょにいるところに、再び、復活の主イエスが現れて、「私から平安を受け取りなさい。」と言われたので、ペテロの心は、さらに慰められたと思います。ペテロは、イエスを3回裏切った後、自分が直接主イエスに選ばれた弟子であることが大きなプレッシャーになっていました。「こんな自分が、主イエスの弟子だと言えるのだろうか。」「もはや、主イエスは私のことを弟子とは認めないのではないか。」いろいろな考えが彼の頭の中をめぐっていました。しかし、そんなペテロや他の弟子たちのために、主イエスは、食事を準備して、「さあ、来て朝の食事をしなさい。」と招いてくださいました。ペテロ以外の弟子たちも、皆イエスを見捨てたという大きな失敗をしていましたが、主イエスは、それでも彼らを食事に招いておられます。弟子たちがどう考えようと、どう感じようと、主イエスは弟子たちを愛し、弟子たちのために様々な恵みを喜んで与えて下さる方です。また、主イエスは、私たちを一度救いに迎え入れてくださったら、最後まで私たちとの約束の関係を保ち続けてくださいます。普通の契約では、相手が約束したことを守らなかったら、その契約は破棄されますが、主イエスと私たちの関係においては、主イエスは、私たちの救いを最後まで守り続けてくださるのです。この朝の、主イエスとペテロの会話の中に、そのことが明らかに示されています。
 朝ごはんが終わった時に、主イエスがペテロに話しかけられました。「ヨハネの子、シモン。あなたは、この人たち以上に私を愛しますか。」このように尋ねられたペテロは、何と答えたらよいのかわからずしばらく言葉につまったと思います。主イエスは、この時、ペテロを「ヨハネの子、シモン。」と呼ばれました。ペテロというのは主イエスが彼につけられたニックネームです。それは、主イエスが弟子たちに「あなたは私のことを誰だと言いますか?」と彼らの信仰を尋ねられた時に、ペテロが「あなたは、生ける神の子キリストです。」と告白した時のことでした。ペテロの告白は、当たり前の告白のように聞こえますが、「キリスト」とはユダヤの言葉では「メシヤ」であり、旧約聖書が繰り返し教え、預言していた救い主を意味する言葉です。ペテロの信仰告白は、主イエスを神が遣わした約束の救い主だと告白するもので、ペテロが自分の全生涯をかけてイエスに従う決意を込めた素晴らしい信仰告白だったのです。それで、主イエスは彼に「ペテロ」というニックネームを与えました。これはギリシャ語で「岩」という意味です。彼の信仰こそが、「岩」であり、教会の土台であると主イエスは教えられたのです。しかし、この時、イエスはペテロを「ヨハネの子、シモン」と呼ばれました。ペテロは、このように呼ばれたのを聞いて、自分が信仰告白した時のことを思い出したはずです。それにも拘わらず、自分が主イエスを、一番イエスを助けなければならない時に3回も裏切ったことを思うと、自分がペテロと呼ばれる資格がないことを強く感じました。主イエスが、この時ペテロを「ヨハネの子シモン」と呼んだのは、「あなたは、私と出会う前に自分がどんな人間であったか覚えているか。自分の弱さを覚えているか。」という意味が込められていたのではないでしょうか。イエスは、ペテロの失敗を責めているのではなく、ペテロに自分の失敗、自分の弱さを隠さないように、見て見ぬふりをしないように、自分の弱さをしっかり受け止めて、そこから立ち直ってほしいと願っておられたのです。私たちは失敗をうやむやにしたままで本当の回復はありません。失敗を認めることは辛いことですが、しっかりと認めた時に初めて新しいスタートがあるのです。
さらに、主イエスは「あなたは、この人たち以上にわたしを愛しますか。」とペテロに尋ねています。この言葉もペテロの胸に刺さりました。それは、主イエスが、十字架にかかる前に、弟子たちに向って「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。」と言われた時に、ペテロがイエスに「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」と宣言していたからです。主イエスの前では、魚を焼くための炭火が燃えていました。ペテロがイエスを3回知らないと答えた時も、ペテロはたき火にあたっていました。実は、彼が3回目に「イエスを知らない」と言った時に、主イエスが預言していたように鶏が鳴きました。、そして、同時に冷たい中庭にいた主イエスが振り向いて、暖かいたき火の近くにいたペテロを見つめられました。(ルカ22:61)ペテロは、きっと、その時の光景を思い浮かべたと思います。そんな状態のペテロにはイエスの言葉は非常に辛いものでした。
 ペテロは、どのように主イエスの言葉に答えているでしょうか。21章15節で、ペテロは、「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」彼は、もはや自分が他の弟子たちよりも勇気がある、信仰が深いとは考えていませんでした。彼が自分の失敗から、それが自分だけの思い込みであることを知ったからです。箴言の中に「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。」(3:5)という言葉がありますが、ペテロは、自分の悟り、自分の思い込みに頼ることが愚かなことであることを経験を通して知りました。ここで、ペテロが「私があなたを愛すること」と言うときに使った「愛する」という言葉は、主イエスが「あなたはわたしを愛しますか」と尋ねたときに使った言葉とは違っています。ギリシャ語には、日本語の愛を意味する言葉がたくさんあるのですが、イエスがペテロに尋ねた時の「愛する」はアガパオーという言葉が使われています。これは、完全な愛、自分を犠牲にするほどの愛、言い換えると神の愛を表わす言葉です。ですから、主イエスはペテロに対して「あなたは、私があなたを愛するように、私を愛しますか」と尋ねておられるのです。それに対して、以前のペテロであれば、「もちろんです。」と答えていたかも知れませんが、失敗を経験しているペテロはとても主イエスと同じ愛することはできないことを知っていましたので、別の言葉を使って答えました。それは「フィレオー」という言葉です。この言葉は友情の愛という意味を持っています。ペテロは主イエスに「自分が持っている最善の愛であなた愛しています。私はそれ以上のことは言えません。」というような返事をしたのです。ペテロが主イエスを愛する心は以前と変わっていません。ただ、以前は、彼は自分について自信満々でしたが、失敗を通して経験した彼は謙遜な人に変わっていました。そのペテロに対して、主イエスは「わたしの小羊を飼いなさい。」と言われました。それは、言い換えると、「私のために仕えなさい。私の言葉に従いなさい。」という意味です。主イエスに対する愛を告白する者は、主イエスに従い、主イエスのために生きることが最も大切なことです。
 イエスはまたペテロに尋ねられました。「ヨハネの子。シモン。あなたは私を愛しますか。」2回目には「この人たち以上に」という言葉はありません。ペテロがもはや自分が他の人と比べていないことが分かったからです。この時もイエスはアガパオーという言葉を使っています。「あなたは、私があなたを愛したように、私を愛しますか。」と尋ねたのです。この時も、ペテロはフィレオーという言葉を使って慎重に答えました。「私が、あなたを自分にできる限りの愛で愛することを、あなたは知っておられるでしょう。」そして、主イエスが3回目にまた、ペテロに尋ねられました。「ヨハネの子。シモン。あなたは私を愛しますか。」ペテロは主イエスが3回同じことを質問したことに、また胸を刺されました。自分が主イエスを3回知らないと言ったからです。でも、この時、主イエスは、愛すると言う言葉に、アガパオーではなくフィレオーを使っています。それは、主イエスが、ペテロの言葉をそのままに受け入れて、「ペテロ、あなたは、今の自分にできる限りの愛で私を愛するのだね。」と言われたのです。それで、ペテロは、もう一度同じように、「主よ。あなたはすべてを知っておられる方です。ですから、私が、今自分のできる限りの愛であなたを愛していることもご存じですね。」と謙遜に答えました。ペテロの主イエスに対する愛は変わっていません。以前はそのことを自慢にしていました。しかし、今は、他の人に見せつける愛ではなく、ただ、純粋に主イエスを愛する心を表わしています。そのことを主イエスもよく分かっていましたから、ペテロに「わたしの羊を飼いなさい。」と言われました。主イエスは、失敗したペテロを見捨てることなく、彼を愛し、彼を信頼し、そして大切な働きに彼を任命しました。主イエスが、他の弟子がいる前で、あえて、ペテロの失敗に触れて、彼がその失敗に乗り越えられるように、3つの質問を通してペテロを完全に回復させてくださいました。主イエスとペテロの対話がなかったら、ペテロは、弟子としての働きを再開するのに十分な備えができていなかったでしょう。ペテロは、イエスの質問に対してつらい思いをしましたが、同時に、そこにイエスの愛を感じ、彼の主イエスに対する愛は以前よりもずっと強くなっていました。ペテロの主イエスへの愛は、失敗する前は、ほかの人を意識し、他の人と比べている愛でした。しかし、今は、彼は純粋に、主イエスを愛し、他の人のことなどまったく意識しないで、イエスのために働きたいと思いました。主イエスを3回知らないと言ったペテロが、主イエスのために喜んで自分のいのちをささげる弟子へと変わったのです。人間的に見るとペテロのその後の人生は、クリスチャンへの迫害の中で、大変なことの連続だったに違いありません。しかし、彼の心は喜びに満ちていました。主イエスへの愛が彼をそうさせていました。クリスチャンにとって最も大切なものは、ペテロが持っていた純粋な主イエスへの愛です。その愛があれば、周りの状況にまったく関係なく、喜びと希望に満たされて生きることができます。幸福は何かを手にした時に与えられるものではありません。誰かを愛し誰かのために生きる時に与えられるものです。

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