2016年5月1日 『人間を獲る漁師になる』(ルカ5章1-11節) | 説教      

2016年5月1日 『人間を獲る漁師になる』(ルカ5章1-11節)

 これからしばらくの間、ルカの福音書を読んで行こうと思います。先週までは、主イエスが復活された後の出来事についてヨハネの福音書を読みましたが、時間を逆戻りさせて、主イエスの働きの始まりの頃を描いている5章から読んで行きましょう。4章の後半に、すでに主イエスが、活動の拠点にしていたガリラヤ地方で説教をし、病人を癒し、悪霊を追い出すという働きをしている姿が記されています。その結果、イエスが出かけていくところには、常に大勢の群衆が集まるようになっていました。ユダヤ人の歴史家のヨセフスという人が書いた本によると、その当時、ガリラヤ湖の近くには300万人もの人が住んでいましたので、イエスのもとに集まった群衆の数も相当多かったと思います。1節には、「群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられた」と書かれています。ここに記されているゲネサレ湖とは、ガリラヤ湖のことです。ガリラヤ地方に住んでいる大勢の人々が神のことばを聞きたいと、湖のほとりに立つイエスのもとに押し迫って来ました。人々は、イエスが語ることばを聞いて、これこそ神の言葉だと感じていました。イエスはどんな言葉を語っておられたおでしょうか。4章43節で主イエスは「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」と言っておられます。神の国の福音とは、神を信じないで自分勝手生き方をしている私たちの罪が赦され、神の子どもとなる特権が与えられるというメッセージです。ヨハネの福音書5章24節では次のように言われました。「 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」人々はイエスの教えを聞くと、非常に驚きました。それは、主イエスが、パリサイや律法学者のようにではなく、権威ある者のように語られたからです。イエスの言葉には、特別な神の子としての権威がありました。

 湖の岸辺に立っておられた主イエスは、岸辺に小舟が二艘あるのをご覧になりました。小舟と書かれていますが、これは魚を取るための舟で長さは10メートルぐらいあります。公園の池にある小型のボートではありません。イエスと12人の弟子たちがガリラヤ湖の向こう側に行くときに乗ったボートですから、かなり大きい舟です。2節に漁師たちが舟から降りて網を洗っていたと書かれています。ガリラヤ湖ではふつう夜中に魚を獲ります。この舟は漁を終えて岸に戻ってきて、漁師たちが後片付けをし、そして次の漁のための準備をしていました。イエスは、群衆が迫ってくるのを見て、漁師の一人シモン、これは弟子のペテロのことですが、シモンに頼んで、舟を出してもらって、その舟に乗り込み、少し沖に漕ぎ出して、舟の中から群衆に向かって説教をしました。主イエスは、ペテロの舟に乗り込みましたが、これは偶然ではありません。主イエスが行われることに偶然はありません。この日は、ペテロの舟に乗ることによって、ペテロの人生にも乗り込まれたのです。実は、主イエスとペテロの出会いは、この時が初めてではありません。最初の出会いは、ヨハネの福音書1章に記されています。彼は自分の弟のアンデレが最初にイエスと出会い、アンデレがペテロを主イエスのところへ連れて行きました。その時から、アンデレとペテロは、イエスの教えに引かれて、時間がある時には、主イエスのあとを追いかけていました。また、この箇所の出来事はマタイの福音書4章18~19節に記された出来事と同じものではありません。この時は彼らは網を打っていたと書かれていますので、彼らが漁をしていた時の出来事です。ペテロとアンデレは、主イエスから「わたしについて来なさい。あなたがたを人間を取る漁師にしてあげよう。」と言われた時に、もう一組の兄弟ヨハネとヤコブとともに、網を捨ててイエスについて行きました。この4人は、しばらくイエスといっしょに行動していましたが、いったん、もう一度漁師の生活に戻っていたようです。そのような4人に対して、主イエスは、この時、彼らに生涯をかけてイエスの弟子として生きるようにと、最終的な招きをされました。

(1)全知のイエス
 群衆への説教が終わると、主イエスはペテロに言われました。「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」この網は、小さなものではなく、海の深いところにいる魚を取るための大きな網でした。ペテロは主イエスの言葉にびっくりしました。人間としてのイエスは大工をして親の仕事を手伝っていました。そのイエスが、子どもの時からガリラヤ湖で漁をしてきた自分に魚を取るようにと指示されるとは、いったいどういうことなのか、ペテロには理解できませんでした。それで彼はイエスに言いました。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」イエスの命令に従うことはペテロたちにとって大変なことでした。彼らは一睡もせずに、夜通し漁をしていました。その夜は一匹も魚が取れず、精神的にも疲れていました。そして、今は、次の漁に備えて網を洗い、網にできた穴を繕っていました。そんな時に、もう一度、重い網を舟に積んで、舟を沖に漕ぎ出して網を下ろすのは、体力的に大変な作業でした。しかし、ペテロやヨハネたちは、これまでにイエスと一緒にいた時に、イエスが様々な奇跡の働きをしているのを見ていたので、ペテロは主イエスに、「でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」と答えたのです。
 ペテロが、イエスの言葉どおりに網をおろしてみると、驚いたことにたくさんの魚が入り、網は破れそうになるほどでした。彼らは、これまでずっとガリラヤ湖で漁をしてきましたが、真昼に、こんなにたくさんの魚をとることは一度もありませんでした。主イエスはすべてのことを知っておられる神です。どこに魚がいるのかもすべて知っておられました。イエスが神の子として働いた3年余りの間に、主イエスは何度も、ご自身がすべてのことを知っていることを弟子たちに示されました。ある時、弟子たちはイエスに言いました。「いま私たちは、あなたがいっさいのことをご存じで、だれもあなたにお尋ねする必要がないことがわかりました。これで、私たちはあなたが神から来られたことを信じます。」(ヨハネ16章30節)主イエスがすべてのことを知っておられることは、私たちにとって大きな慰めです。私たちは、人生の中で苦しいことや悲しいことを経験するとき、自分の気持ちは誰にも分からないと思います。確かに、ほかの人間には分からないでしょう。しかし、主イエスは私たちのことをすべて知っておられるのです。そして、私たちをいつでも助けようと待っておられます。
 ペテロは、今まで見たこともないほどの多くの魚が網に入っているのをみて非常に驚きました。そして、網が破れそうになったので、仲間のヨハネとヤコブに助けを求めました。4人で魚が入った網を引き揚げると、2艘の舟が沈みそうになるほどの数の魚が獲れました。彼らが岸に戻ると、イエスの前に集まっていた群衆たちも、みな熱狂的に喜んだことでしょう。これは、まさに奇跡です。彼らは主イエスが力ある神であることを知りました。

(2)聖なる神イエス
 この時、ペテロは、あまりにも多くの魚が獲れたのを見て、イエスが神であることを知りました。そして、同時に、今、自分の目の前にいる方が神であるのを見て、自分が神の前に立つのにふさわしい人間ではないことを強く感じました。湖のこと、さかなのことをすべて知っておられるイエスが、自分の心の中もすべて知っておられることに気付いたのです。それで、彼は恐れを感じて、思わずひれ伏して、イエスに向って言いました。「主よ。私のような者から離れてください。私は罪深い人間ですから。」ペテロは5節でイエスを「先生」と呼んでいました。しかし、ここでは「主よ」と呼んでいます。イエスが神であることが分かったからです。神を信じる者は、神の前に立つときにこのような姿勢を取ることが必要です。創世記に出てくるアブラハムは、神の前で自分はちりや灰にすぎないと言いました。(18:27)また、ヨブという人は、神を見て、私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めますと言っています。(ヨブ42:6)神を信じる信仰の第一歩は、聖なる神の前で自分がどれほど汚れているかを認めることです。ペテロだけでなく、仲間のヨハネもヤコブも同じ気持ちでした。
 神の前に自分の汚れを感じたペテロは主イエスに遠く離れてほしいと願いました。しかし、主イエスは、そのようなペテロに近づいて言われました。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」神様は、自分の心が自分中心であることを認めて神を恐れる人を救いに導いてくださいます。旧約聖書時代の偉大な王ダビデも、自分が大きな罪を犯した後、次のように言っています。「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(51:17)彼らの心を知っておられたイエスは、彼らに自分の人生をささげて弟子になるように招かれました。「あなたは人間をとるようになるのです。」「人間をとる」と訳されている「とる」という言葉は、ギリシャ語で「ゾーグレオー」と言うのですが、「ゾー」はいのち、「グレオー」は捕まえるという意味です。ですから人間をいけどりにする人になるという意味になります。ペテロたちは、これまで、魚を取っていましたが、獲った魚は殺して、食べます。これまでは、彼らは、いわば、魚を殺すために漁をしていました。しかし、これからは、人間をとらえて命を与える、そんな働きをしなさいと主イエスは彼らに言われたのです。そして、この主イエスの招きの言葉に彼らは従いました。彼らが漁師として、これまでで最も多くの魚を引き揚げた日、言い換えれば、彼らの漁師としての最高の業績を上げた日に、彼らは、その仕事を捨て、人々に永遠のいのちを与える働きをするために自分の生涯を捧げました。彼らは、欠点を持った私たちと変わらない人間でしたが、主イエスの弟子として死に至るまで忠実に働きました。ペテロは、初めて人々に聖霊が下ったペンテコステという日に、キリストに反対する人々をまったく恐れることなく、大胆にイエスの十字架の福音を語ったので、その日だけで3000人もの人々がイエスを信じて救いを受けました。確かに、彼らは、人間をとらえて新しいいのちを与える働きをする人になりました。

 私も、彼らとは比べものになりませんが、人々に永遠のいのちを与えるためのお手伝いをさせていただくことを本当に喜んでいます。大した働きはしていませんが、ひとりの人が、主イエスを信じて永遠の滅びから永遠のいのちに移されるのを見ることは何にも代えがたい喜びです。私は牧師になる前はカナダ大使館で働いていました。とても楽しい仕事でしたし、残業もなく休みも目いっぱい取ることができて文句のない仕事でした。外務省が発行した大使館職員のIDを持っていることがちょっと自慢でした。外国の大使館で日本人がする仕事はほとんどがアシスタントとしての働きです。私の仕事は1年経験するとだいたい、毎年同じことの繰り返しなので、何をすればよいのかが分かってきました。そんな状況の時、ある日、ふと思うことがありました。仕事は楽しいし何も不満はないのですが、クリスチャンとして1回しかない人生を生きるのに、このままでいいのだろうか。この仕事は誰でもできる仕事だけど、何か自分がしなければならないことがあるのではないだろうか。と思う時がありました。そんな時に、前任の牧師先生が教会を辞めることになって、私は、神様から改めてチャレンジを受けて、牧師になることが自分の道なのだという確信を持つようになりました。小さな牧師ですが、クリスチャンのお葬式をするとき、結婚式をするとき、説教をするとき、神様の働きによって、人々に喜びや慰めが与えられることがあります。そのようなとき、私は、本当に、牧師になって良かったなと思います。私たちには一人一人異なった使命が与えられています。主の招きに従って生きることこそ、本当に充実した人生の始まりなのです。
 

2016年5月
« 4月   6月 »
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031  

CATEGORIES

  • 礼拝説教