2016年5月15日 『人を癒し、赦すイエス』(ルカ5章12-16節) | 説教      

2016年5月15日 『人を癒し、赦すイエス』(ルカ5章12-16節)

 今日は、キリスト教のカレンダーではペンテコステと呼ばれる日です。ペンテコステとは、「50日目のお祭り」という意味で、旧約聖書の時代には、大麦の収穫を神に感謝する日として祝われていました。このお祭りはユダヤ教では、過ぎ越しの祭り、仮庵の祭りとともに三大祭りの一つになっていたので、イスラエルの男子はみな祭りに出席することが義務づけられていました。ですから、ペンテコステの日には、イスラエル国内だけでなく、海外からも大勢のユダヤ人が祭りに出席するために集まっていました。イエスの弟子たちは、イエスから聖霊を受けて新しい力を得るのを待っていなさいと言われていたので、彼らは、約束のものを待ち望んで、集まって祈り会を開いていました。この出来事は「使徒の働き」の2章に記されていますが、初めて、弟子たちに聖霊が下った時には、不思議なことが起こりました。天から激しい風が吹いてくる音がして、炎のような舌が現れて、祈っていた一人一人の上にとどまりました。このようにして、イエスの弟子たちは主イエスが約束していたように、聖霊による新しい力を受けることができました。すると彼らが突然、いろいろな国の言葉で話し始めました。弟子たちの周りには、海外から祭りに参加していた人も大勢いましたが、イエスの弟子たちが自分の国の言葉で話していることにびっくりしました。この日、人の目を恐れてイエスを知らないと3回言ったペテロが、聖霊によって新しい力を受けたので、集まった人々を少しも恐れることなく大胆に主イエスの福音を語りました。すると、その日だけで3000人の人々がイエスを信じました。ここにイエスを神と信じる人々の群れ、つまり教会が誕生しました。
 教会が誕生し、その基礎が固まることが必要であった初期の時代には、このように不思議な神の力がしばしば現れました。ところで、この時に集まっていた弟子たちが突然外国の言葉で話し始めたことにはどんな意味があるのでしょうか。一つは、バベルの塔での出来事への解決という意味があります。創世記の時代、人々があまりにも神に逆らったために、それまではみな同じ言葉を話していたのが、突然バラバラ皆が違う言葉を話すようになり、混乱が起きて、彼らの計画が失敗に終わりました。言葉がばらばらになったために、今日にいたるまで世界の混乱は続いています。聖霊が注がれた時に、弟子たちが様々な言葉で話し出したことは、聖霊が働くときに、混乱した世界が一つにまとまることができるということを示しているように思います。もう一つの意味は、教会に与えられた使命です。聖霊の力を受けた弟子たちには、全世界に出て行って、あらゆる民族、あらゆる言葉を話す人々に主イエスの救いのメッセージを語るようにとの使命が与えられました。私たちも、主イエスの一人の証人として、自分の周りにいる人々に主イエスの福音を伝えていくことが、私たちに与えられた責任です。

(1)主イエスのタッチを必要とする人
 今日読んだ箇所には、主イエスが一人の人の病気を癒されたという出来事が記されています。
新改訳聖書では、この人の病気を「らい病」と訳しているものと「ツアレファト」と訳しているものがありますが、「ツアレファト」というのはヘブル語の言葉で、あらゆる種類の皮膚の病気を意味する言葉です。その病気の中でもっとも深刻だったのが、「らい病」あるいは「ハンセン氏病」と呼ばれる病気でした。ルカは、この人の皮膚の病気が全身に広がっていたと書いていますので、おそらく、この人は「ハンセン氏病」を患っていたのだと思います。この病気は旧約聖書の時代から存在していたようで、エジプトで見つかったミイラの中にも、この病気を患っていた人のものがあるそうです。イスラエルにおいても、この病気は広く知られていたようで、旧約聖書のレビ記の13章と14章には、この病気に関する細かな規則が記されています。この病気にかかった人は、その瞬間、ほかの人々との交わりから引き離されてしまいます。レビ記の13章45、46節には次のように書かれています。「患部のあるらい病人は、自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口ひげをおおって、『汚れている、汚れている。』と叫ばなければならない。その患部が彼にある間中、彼は汚れている。彼は汚れているので、ひとりで住み、その住まいは宿営の外でなければならない。」つまり、この病気を持っている限り、人は、社会の中に入ることができません。外に出る時は、わざわざ髪の毛をぼさぼさにして、ぼろぼろの服を着て、近くにいる人に「私は汚れている。私は汚れている。」と大きな声で叫ばなければなりません。彼らは、どんなにみじめな気持をしていたことでしょう。彼らは、一人で生活をし、仕事もできません。誰もが乞食として生きるしかありません。時々、家族が少し離れたところに食べ物を置いて行ってくれるので、それを食べて生きていました。このような状況ですから、この病気を持っている人々は、たいてい仲間と一緒に暮らしていました。旧約聖書にも、新約聖書にも、この病気の人々が一緒に行動している場面があります。
 さらにこの病気の人々にとって辛いことは、ユダヤの社会では、この病気は大きな罪を犯した結果だと考えられていました。というのは、旧約時代の様々な出来事の中で、大きな罪を犯した人々がこの病気になることがよくあったからです。たとえば、モーセのお姉さんのミリアムという女性が傲慢になった時に、体にこの病気が現れました。また、ウジヤという王様は、大きな罪を犯した時に、額にこの病気が現れたため、死ぬまで王宮から追い出されて、別の家に隔離されていました。そういうことから、イエスの時代の人々は、この病気にかかった人は何か大きな罪を犯した結果だと考えていたのです。この病気が罪の結果であるというのは完全な誤解ですが、この病気には、人間の心の中にある罪と似ている点がたくさんあります。この病気は体のいろいろな機能を滅ぼして行きます。同じように、罪も人の心の中にある良いものを次々に破壊して行きます。この病気の症状は体の外側に現れますが、病気そのものは表面ではなく体のもっと深いところにあります。聖書が言う人間の罪も同じです。罪の症状はいろいろな形で外側に現れます。憎しみ、怒り、傲慢、貪欲、そして、それが私たちに罪の行いへと導きます。しかし、罪の根は心の奥底にあるもので、それは、一言でいうと「神を恐れない心」です。人は、この罪の性質を持って生まれて来るので、心が滅びに向っているのです。
 
(2)主イエスの癒しのタッチを受けた人
 この箇所と同じ出来事がマタイの福音書では8章に記されています。マタイでは、主イエスが山の上での大切な説教を教えた後に、山を下りてきた時に、この病人との出会いが記されています。ですから、主イエスの後ろには大勢の群衆がいたと記されています。そこへ、この病人がやってきました。彼は、何年もの間、社会から追い出されてつらい毎日を過ごしてきましたが、主イエスが自分の町に来られたことを知って、「この時しかない」と勇気を出して、イエスの前に出て来たのです。彼は旧約聖書の教えに従って、ぼろぼろの服を着て、髪の毛はぼさぼさにして、そして、「私は汚れています」と大きな声で叫びながらやってきました。この場面を想像できるでしょうか。イエスの後についてきた群衆は、「私は汚れています」と叫びながら近づいてくる男を見て、みな、彼からできるだけ遠くに離れたことでしょう。群衆はこの男に向って、さんざん呪いの言葉を浴びせたと思います。しかし、この男はイエスに近づくのを止めませんでした。群衆はこの男から遠くへ逃げましたが、主イエスは逃げませんでした。それで、この男はイエスを見ると、イエスの前でひれ伏して言いました。「主よ。お心一つで、私はきよくしていただけます。」 この姿を見た主イエスは、マルコの福音書によると、「この男を深く憐れんだ」と書かれています。深く憐れんだと訳された言葉は、内臓が震えるほどの強い感情を持ったという意味を含んでいます。そして、主イエス以外の人間は、みな、この病人から離れていましたが、イエスは、反対に、この男に近づき、手を伸ばして、彼の体に手を置いて言われました。「わたしの心だ。きよくなれ。」13節で「さわる」と訳されていますが、ギリシャ語の言葉は、軽く触れるというよりも、きつく抱きしめるというような意味の言葉です。主イエスは、誰も近づこうとしなかったこの男を力いっぱい抱きしめらました。この男は病気になってから、一度も、誰からも抱きしめられることはなかったはずです。どれほど程驚いたことでしょう。同時に、どれほどうれしかったでしょうか。周りで見ていた人々も弟子たちもみなびっくりしました。この病気の人に触った人は宗教的に汚れました。主イエスは、この男に触って宗教的に汚れましたが、この病気の人はイエスの愛に包まれました。私たちが誰かの肩を抱くとき、だれかを抱きしめる時、それは、「私はあなたといっしょにいるよ。」「わたしはあなたの味方だよ。」というメッセージが込められていると思います。主イエスは、そのようにこの病人の肩を抱かれたのです。主イエスは、私たちがどんな人間であって、どんなに罪深い生き方をしているとしても、いつも、この男に対するように、自分に近づくものを受け入れてくださいます。
 なぜ、主イエスはこの男の願いを聞き入れてくださったのでしょうか。それは彼の心がイエスに近づくためにふさわしい心だったからです。第一に、この男は、自分の汚れを知っていました。その汚れを自分ではどうすることもできないことも知っていました。だから、イエスのところに来たのです。第二に、彼はイエスの前にひれ伏しています。この姿勢は、この男がイエスの前に本当にへりくだっていることを示しています。神様は自分を高くする者を低くし、自分を低くする者を高くしてくださいます。第三に、この男には信仰がありました。彼はイエスに言いました。「主よ。お心一つで、私はきよくしていただけます。」この男は、これまでにイエスについての噂を聞いていたでしょう。そして、彼は、イエスが全能の神であることを信じるようになっていました。それで、このような信仰告白ができたのです。そのような彼に向って、主イエスは、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われました。主は、この男がきよくされることが私の心だ、わたしの心の願いだと言われました。主イエスは、この世のすべての人が、主イエスとの出会いによって、心もからだも健康になることを願っておられるのです。そして、主イエスがそのように言われた瞬間、彼のからだは癒されました。

(3)この癒しが示しているもの
 主イエスは、癒された人に向って「誰にもこのことを言わずに、祭司のところへ行って体を見せなさい。」と言われました。旧約聖書には、この病気が治った場合、本当に治っていることを宣言するための手続きが決められていました。旧約聖書のレビ記の14章3節から7節にその手続きが詳しく記されていますが、実は、その手続きが、主イエスの十字架の働きを現わしているのです。当時のイスラエルにはこの思い皮膚病を癒す方法はなかったので、この病気の癒しは神からの特別な恵みだと考えられていました。病気が治った人は祭司のところへ連れて行かれます。
祭司は、その人のために、二羽の生きている小鳥と、杉の木と緋色の撚り糸とヒソプを取り寄せます。そして、土の器に入れた湧水の上で、生きている1羽のことりをほふります。小鳥の血が湧水の中に落ちて、器の中の水は赤く染まります。それから、その殺された小鳥の血が混じった湧水の中に生きている小鳥を浸し、それから杉の木とヒソプの枝を糸で結んで束にしたものも殺された小鳥の血の中に浸します。そして、祭司は、杉とヒソプでできた束を使って、その人に殺された小鳥の血を7回振り掛けて、その人を「きよい」と宣言し、それから、血に浸された生きている小鳥を野に放ちます。
 殺された小鳥は十字架のイエスを現わしています。その小鳥の血に生きている小鳥が浸され、また、その血は木の枝の束によって、7回、患者のうえに振り掛けられます。殺された小鳥の血が振り掛けられることなしに、この人がきよめられることはありません。私たちも、イエスキリストが十字架で流された血潮によって初めて罪を赦されてきよくされるのです。しかも7回振り掛けるのは、7が完全数なので、その人が完全にきよめられこと表しています。血に浸された小鳥が野に放たれるのは、イエスの復活のシンボルだと考えられています。この人は、自分が癒されたことをどのようにして知ることができるでしょうか。祭司がその人をきよいと宣言するからです。今日、クリスチャンはどのようにして自分の罪がゆるされきよめられたということを知ることができるでしょうか。聖書が私たちのすべての罪はイエスの十字架によって赦されきよめられると宣言しているからです。

 私たちは、今、神の前にどんな状態でしょうか。神様は、この病人と同じように、私たちにも「きよめられた」と宣言してくださいます。そのために必要なことは、自分が神の前に罪ある者であることを認め、謙遜な心で神に近づき、信仰をもってイエスの十字架と復活の力が自分をきよめると信じることです。

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