2016年5月22日  「圧倒的な勝利者として生きる」(ローマ8章31-39節) | 説教      

2016年5月22日  「圧倒的な勝利者として生きる」(ローマ8章31-39節)

 今日、私たちが最も心配していることは、「安全」「セキュリティー」の問題です。世界各地でテロ行為が頻繁に起こっています。また、日本でも非常に簡単に人が殺される事件が多発しています。自動車の事故に巻き込まれる危険もあります。今日読みました、ローマ人への手紙の8章は、新約聖書の中で最もすばらしい箇所の一つだと見なされていますが、その締めくくりの部分で、著者の使徒パウロは、私たちの安全、セキュリティーについて語っています。当時、ローマ帝国の首都ローマに住んでいたクリスチャンたちは、大きな危険に直面していました。この手紙が書かれた頃のローマ皇帝はネロという人物でしたが、皇帝ネロは、精神的にもちょっと異常だったようで、自分の母親、自分の妻、自分に悪口を言う者など、次々に殺して行きました。AD64年にローマで大きな火事が起きるのですが、火事の直後に、建物が焼け落ちた場所に、皇帝ネロがものすごく豪華な黄金宮殿と呼ばれる宮殿を建てたので、ローマの市民は激怒して、この火事はネロが火をつけたのだと言いはじめました。自分の身の危険を感じたネロは、この時からクリスチャンへの激しい迫害を始めます。当時、ローマには、多くのクリスチャンがおり、またその数がどんどん増えていたために、ネロはクリスチャンを危険なグループだと感じていました。それで、ネロは、この時に「ローマに火をつけたのはクリスチャンだ」と言って、次々にクリスチャンを殺しました。イエスの弟子のペテロも、この手紙を書いたパウロも、ネロによって殺されたと言われています。このように、当時のローマ教会のクリスチャンたちは大変厳しい状況の中に置かれていましたので、中には、神様が自分たちを本当に守ってくれるのか疑いを持つ人もいました。そのことに気付いたパウロは、ローマのクリスチャンを励まし、信仰の確信を与えるために、2つの質問を彼らに問いかけ、そして、その質問に対する神様の答えをここに記しているのです。

(1)イエス・キリストはあなたの味方です
 8章31節で、パウロは「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」と質問しています。ここで「~なら」と訳されている言葉は、「~なので」とも訳すことができます。「神様が私たちの味方であるのだから」誰が私たちの敵になることができますか。」という意味になります。戦争に加わる時に大切なのは、勝つほうの側に入るということです。自分はどちらの側にいるのか?パウロがこの質問で言いたいことは、「この天と地とその中にあるすべてのものを創造された神様よりも強い者、大きい者がこの世にいるのか?」「神とまともに戦って勝てるような者がいるのか」ということです。私たちは、毎週使徒信条で告白しています。「我は天地の創り主全能の父なる神を信ず」私たちは、本当にこの告白を信じているでしょうか。ダビデ王は、人生の中で殺されそうになることが何度もありました。しかし、ダビデは、詩編27篇の中で「主は、私の光、私の救い、だれを私は恐れよう」と宣言しています。全能の力を持つ神様を信じるならば、人間の敵を恐れる必要はありません。宗教改革者のルターとともに戦ったメランヒトンという人物がいます。激しい性質のルターに対してこの人は非常におとなしい人物でした。見た目は弱弱しい感じの人です。しかし、彼は31節の言葉を確信していました。「神が味方であるなら、だれが私たちに敵対できるのか」彼が死ぬ時を迎えていたとき、ベッドサイドで、教会の牧師が31節の言葉を読みました。すると、すでに意識がもうろうとしていたメランヒトンが「そうだ。そうだ。」とつぶやいたそうです。彼もルターとともに厳しい戦いの人生を過ごしました。もっともつらいとき、彼はいつもこの言葉を口ずさんで、自分を励ましていたのです。聖書の言葉は、今も私たちに働いています。神様はあなたの味方なのです。それなら、私たちは誰を恐れる必要があるでしょうか。
 パウロは、神が味方であることの証拠を32節で述べています。「私たち、すべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」神様は、私たちすべての人間が罪を赦されて神のこどもとなることができるようにと、自分にとって一番大切な、自分のひとり子イエスを十字架にかけてその命をささげてくださいました。世の中にはいろいろな人がいます。とんでもないような人もいます。しかし、神様は、すべての人間が罪から救われて永遠のいのちを持つようにと、自分にとって一番たいせつなものを惜しまないで捧げてくださいました。私たちに対する神様の愛は、まさしく驚くばかりの恵み、アメージンググレースです。私たちをそれほどに愛しておられる神様は、私たちを養い、私たちを守るのに必要なものを与えないなんてことは絶対にありません。だから、私たちは、神様は私の味方だと確信することができるのです。

(2)イエス・キリストはあなたのためにとりなしています。
 パウロの第一の質問は、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるか」というものでした。33節でパウロがローマのクリスチャンに尋ねている第二の質問は33節に記されています。「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。」罪に支配されたこの世は私たちを訴えます。サタンも私たちを罪に定めようと働いてきます。クリスチャンの皆さんは正直で、まじめです。自分の罪をごまかさずに正直に認めて、神の前で告白をして、イエスが十字架で受けられた苦しみは私の身代わりであることを信じて、救いを経験した人々です。しかし、クリスチャンの一つの弱点は、自分のうちにまだ罪があるのを見て、自分は本当に救われているのか、赦されているのか心配になって、悩んでしまうことです。この世の人々やサタンは、その弱点を突いて来ます。「お前は、クリスチャンだと言っているが、心の中には醜いものがあるだろう。」私たちのすべての罪は許されているのですが、実際の生活においては、生まれつき持っていた罪の残りかすがあることを知らされます。サタンは、クリスチャンの救いの確信を揺り動かして、神様から引き離そうと働くのです。クリスチャンを訴えるのは神の敵であるサタンです。
 しかし、私たちは何も恐れる必要はありません。それは、私たちが神に選ばれた者だからです。神に選ばれた人々とは、私たちが主イエスを救い主と信じて神のこどもとなって、神の家族に加えられた特別な人という意味です。神のこどもとなったのですから、悪魔がどんなに私たちを責めてきても、少しも怖くありません。私たちの父親となってくださった神様が私たちを義と認めてくださるからです。義と認めるというのは、ただ罪を赦すこと以上の意味を持っています。神様は、私たちがイエス・キリストを信じた時に、人生において、一度も罪を犯したことがない者として扱ってくださるという意味なのです。神様が一度私たちに無罪を宣言されたら、それがひっくり返ることはありません。それだけではなく、主イエス・キリストは、私たちの弁護士となってくださって、サタンがどんなに私たちを責めてきても、私たちを弁護してくださいます。主イエスは、私たちの身代わりに罪を受けてくださいましたから、はっきりと私たちを弁護することができるのです。34節にイエスについて4つのことが記されています。私たちの罪のために死んでくださったこと。これによって私たちの罪が無罪になりました。そして、イエスはよみがえられました。イエスの復活によって、イエスの働きが確かなものであることを証明しました。そして、主イエスは神の右の座に着きました。イエスは、これまで、天からこの地上にくだって来て私たちを救うためにさまざまな働きをしてくださいましたが、天に帰り、父なる神の右に座っているのは、すべて必要な働きを完了されたことを意味します。その主イエスが、今、天において私たちのためにとりなしておられるのです。今この瞬間も、主イエスは、私たちのために弁護をし、私たちのために祈っておられます。イエスは地上から天に帰られましたが、私たちとイエスの関係は切れてはいません。主イエスが天において私たちのためにいつも働いておられるからです。このことを知れば、私たちは何も恐れる必要がありません。

(3)私たちをキリストの愛から引き離すものはない
 ここまで、パウロは、私たちを神の愛から引き離す者はいないことを強く訴えてきましたが、パウロは、ローマのクリスチャンが心の中で別の質問を考えているだろうと想像していました。当時のローマのクリスチャンは、様々な迫害が始まっていて、大きな身の危険を感じていました。ある人々は、困難な状況が起きると、自分たちは神の愛から引き離されないだろうかと心配していたのです。そこで、パウロは、人がどんな状況に直面しても、絶対に神の愛から引き離されることはないと、強く訴えています。35節で、パウロは「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか。苦しみですか。迫害ですか。飢えですか。裸ですか。危険ですか。剣ですか。」ここでパウロが語っている状況は、すべて彼自身が経験してきたことです。パウロは、ユダヤ人以外の人々に主イエスの救いを知らせる最初の宣教師として活動してきましたが、いつも多くの人々から反対され、攻撃され、苦しめられていました。クリスチャンの生活は必ずしも楽な生活ではありません。むしろ、この世の中は神を信じていない人のほうが断然多く、自分中心の競争社会です。だから、クリスチャンに反対する人も多いのです。イエス様も、十字架にかかる直前に弟子たちに言われました。「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」私たちは、たとえ、この世でパウロが述べているような辛いことを経験したとしても、がっかりする必要はありません。わたしたちは、この世を超えたもの、この世よりもはるかに素晴らしいものを知っているからです。パウロも、激しい迫害や、教会内部の反対など、四方八方から苦しめられていました。しかし、37節で、彼ははっきりと宣言しています。「私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」ここで大切なことは、私たちは、自分の力で勝利者になるのではありません。「私たちを愛してくださった方によって」です。私たちがこの世で安全なのは、私たちのいのち、生活、すべてが神様の手にによってしっかりと守られているからです。神様は、私たちを永遠の愛で愛してくださっています。この世のものはすべてどんどん変わって行きます。しかし、神様の愛は決して変わりません。だから、神様は私たちを決して見放すことなく、見捨てることがないのです。私たちは死ぬことさえ恐れる必要がありません。死ぬことは、この世を離れて神様が私たちのために場所を用意して待っておられるところへ、より素晴らしいところへ進んでいくことだからです。畑にまっすぐな溝を作るときに2本の杭を立てます。一本は近くに、もう一本は遠くに。そして、近いほうの杭から遠いほうの杭を見つめながら掘っていくと、まっすぐな溝ができます。遠くの杭を見ていれば、溝が曲がることはありません。私たちは、すべてのことが変わりやすく、また消えていくこの世で生きていますが、この世をまっすぐに生きるために、私たちが死んだ後にある希望という遠くの杭を見つめて生きることが大切です。神様と私たちの関係は、この地上に生まれる前も、地上で生きている間も、さらにはすべての未来をも含めて続いているのです。

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