2016年5月29日 『罪人を招くイエス』(ルカ5:27-32) | 説教      

2016年5月29日 『罪人を招くイエス』(ルカ5:27-32)

 聖書は、私たち一人一人は神のかたちに造られたものであると教えています。先日のオバマ大統領のスピーチの中でも、一人一人の人間は創造主なる方によって造られた大切な存在であると語っていました。私たち人間が神のかたちに造られているために、人は、誰からも教えられなくても神の存在を感じています。苦しい時、自分ではどうすることも出来ないとき、思わず「神様助けて!」と叫びます。そういう訳で、世界中にはありとあらゆる宗教が存在します。誰もが、心の奥に神を求める気持ちがあるからです。それらの宗教はいろいろな点で違いがありますが、大きく分けると2つのカテゴリーに分けることができます。一つは、人間の側で神の教えや掟を守ることによって天国に行くことが出来ると教えます。イスラム教には5つの柱という教えがあり、それらを守ることによって救われます。その5つの柱の一つがラマダンの月の断食です。エホバの証人の人々は、家を訪問伝道することで天国に近づけると信じています。このように、世界中の宗教は、キリスト教以外は、すべて、人間の努力によって神に近づく宗教です。しかし、聖書は、人間は自分の努力によって天国への道を得ることはないとはっきり教えています。イエス・キリストの十字架による救いという福音の知らせをただ信じることによって、私たちは天国への道に入れられると教えているのです。エペソ人への手紙2章8,9節にはこう書かれています。「 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」天国への道に入ることを聖書は救いと言いますが、救いは、じぶんの努力でつかむものではなく、神様からの賜物、つまり神様からの贈り物なのです。だから、聖書は、自分の罪を認めて、イエスを救い主と信じるなら、ただ信じるだけで救われると教えるのです。ところが、イエスの時代、旧約聖書を信じていたユダヤ人たちは、心の中のことは無視して、外側の行いによって自分が正しいことを証明しようとしていました。宗教的な儀式を守ることや、食事のルールを守ること、律法の教えを守ることによって、天国に行けると信じるようになっていました。ユダヤ教のリーダーたちは、自分たちは正しい人間であり、聖書の教えを実行していることを自慢にしていました。しかし、今日読んだルカの福音書5章27節から32節に記されているのは、イエスが、彼らとはまったく違うことを人々に教えておられるのが分かる箇所です。

 主イエスは、ガリラヤ湖という湖に面したカペナウムという町を活動の拠点にしておられました。あるとき、その家で人々を教えておられると、そこに病気のために寝たきりになっていた人が運ばれて来ました。人々の前で主イエスはその人に「起きなさい」と言って癒やされました。この後、主イエスはその家を出て、湖のほとりに行かれたのですが、大勢の人々がついて来たので、そこでも、人々にいろいろなことを教えられました。(マルコ2:13)それからイエスが道を歩いておられると、アルパヨと言う人の息子でレビという名前の取税人が、その道ばたに造られた取税所に座っているのを目に留められました。もちろん、主イエスは、全知全能の神ですから、その日は、この取税人と出会うために、その道を通られたのです。レビという男は、別の名前ではマタイです。マタイの福音書を書いたイエスの弟子のマタイとの出会いが、今日のテーマです。当時のユダヤ人の社会では、取税人は人間のくずだと思われていました。ユダヤ人たちは、ローマ帝国に税金を支払っていました。その税金を集めるのはユダヤ人の取税人でした。取税人になるためには、お金を払って、取税人としての権利を手に入れます。そして、ガリラヤ地方の税金にはいろいろなものがありました。奴隷も含めて全員が支払う税金(人頭税)、所得税(1%)、農夫の場合は、収穫したものの10分の1、そのほか、ガリラヤの道を通行するときに税金、者を運ぶための税金、とにかく、取税人たちは、いろいろなものに税金をかけていました。さらに、税金を払うことができない人々のためには、ものすごい利子をつけて貧しい人々にお金を貸していました。また、税金の額をごまかして、人々の税金を自分のために使っていました。自分たちの仲間を苦しめて、ローマ帝国のためにお金を集めている彼らは、ユダヤの社会では、最も嫌われていました。彼らはユダヤ教の会堂に入ることが赦されませんでした。また、取税人は嘘つきだと見られていたので、裁判で証言することもできませんでした。主イエスは、そんな仕事をしていたマタイが道ばたに建てられた取税所に座って、人々から税金を集める仕事をしている姿を見られたのです。カペナウムという町には、エジプトとシリアのダマスカスを結ぶ海の道と呼ばれる道が通っていましたので、多くの商売人がこの道を通りました。マタイは、人々に道を通るための税金や、この場所を通るいろいろな商品に税金を掛けていましたから、彼は非常に裕福であったに違いありません。ただ、彼は、今の自分の仕事、自分の生活には、喜びがなくこのままでいいのだろうかという思いがあったのだと思います。おそらく,マタイは、これまでに、どこかでイエスの教えを聞いていたことでしょう。ガリラヤ地方でのイエスの説教やイエスの奇跡の働きなどについて人々の噂を聞き、ひそかに群衆に紛れてイエスの教えを聞いて、今まで自分が持っていた価値観や考え方と全く違う、イエスの教えに心を動かされていたのだと思います。彼は経済的には恵まれていましたが、社会からのけ者にされ、取税人の仲間たちや犯罪者ややくざのような人々との交わりしかありませんでした。「このままでいいんだろうか。」「イエスの教えを受け入れれば生活が変わるのだろうか。」きっと心の中でそんなことを考えていたでしょう。そんな時に、主イエスが自分の仕事場に来られたのです。

 マタイは、このように町の人々からは憎まれ、軽蔑され、のけ者にされていましたが、主イエスはマタイに近づいてくださいました。主イエスは、彼の心の中の思いをすべて知っておられました。ですから、主は、彼に向かって一言「わたしについて来なさい。」と言われました。彼が今の生活、人々を苦しめて自分だけが豊かに暮している生活、人々をだましてお金を盗んでいることに、これでいいのかと考え、もっと違った生き方をしたいと願っている、その心を見抜いておられました。彼は、この時点で、イエスが、旧約聖書がずっと預言している救い主メシヤであるどうか、それはまだ分からなかったと思います。ただ、主イエスの教えに力と権威があるのを見て、預言者の一人だろうかと考えていたことでしょう。イエスの招きに対して、マタイは、「何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。」と書かれています。イエスの招きに従ったことによって、マタイの生き方、考え方がすっかり変わってしまいました。彼の主イエスに対する信仰は本物でした。「何もかも捨ててイエスに従った」この行動は決して簡単にできることではありません。取税人という仕事は、一回始めると決して止めることができない、お金が簡単にすごく儲かる仕事だからです。取税人の資格を持っていれば、将来生活に困ることは決してありません。あるとき、主イエスのところに信仰について質問をしに来た若い役人に対して、主イエスは、「あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人に与えなさい。そのうえで、わたしについて来なさい。」と言われましたが、この言葉を聞いた役人は、顔を曇らせ、悲しみながらイエスのもとから立ち去ったと書かれています。何もかも捨てて主イエスに従うことは簡単なことではないのです。

 聖書の中に「誰でも、キリストにあるなら、その人は新しく創られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ。すべてが新しくなりました。」という言葉があります。まさに、このマタイも主イエスと出会って、すっかり変わりました。まず、彼は、自分の家でイエスのために大振る舞いをし、彼の家に大勢の取税人や大勢の奴隷を招いて大々的にパーティーを行いました。このことからマタイは豪邸に住んでいたことが分かります。彼は、自分の人生を変えた主イエスを、自分の仲間たちにも是非会ってもらいたいと考えたのです。ルカの福音書は29節で、「大勢の人たち」と書いていますが、マタイ自身が書いたマタイの福音書には罪人が大勢と書かれています。ここで罪人というのは、犯罪を犯した人、ヤクザ、覚醒剤やっている人、そんな感じの人々たちが集まっていたのです。マタイは、彼らの心の中が分かっていましたから、彼らにも新しい人生を生きてほしいと願っていたのでしょう。

 この様子をのぞき見していた人々がいました。30節に記されていますが、パリサイ人や律法学者たちでした。彼らは宗教に熱心で、自分たちは旧約聖書の教えを守っている正しい人間だと思っていました。彼らは、決してマタイのような取税人や罪人と一緒に食事をすることなどありません。そんなことをすれば自分が汚れてしまうと考えていたからです。それで、彼らは、イエスの弟子たちに質問しました。「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに食事をするのですか。」彼らの質問を聞いた主イエスが彼らに向かって答えました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるために来たのです。」マタイの福音書によれば、この言葉の前にイエスは彼らに向かって「わたしはあわれみを好むがいけにえは好まない。」とはどういう意味か行って学んで来なさい」とも言われています。これは旧約聖書のホセア書からの引用なのですが、この言葉が言おうとしているのは、神様が人間に求めるのは、外面や行いにおいて決まりを守り、いろいろなことをきちとすることではなく、むしろ周りの人々に憐れみ、優しさ、赦す心を持っていることだということです。パリサイ人や律法学者たちは、自分たちが聖書のきまりをきちんと守っていることを誇りに思い、周りの人間、特にマタイやマタイとともにいた罪人たちにあわれみや優しさを示すことはありませんでした。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるために来たのです。」神様が求めているのは自分を正しいと思う人ではありません。むしろ、神様の前で自分の罪を認める人です。聖書がはっりと語っています。神様の前に、正しい人間は一人もいません。神様は,すべての人が救われることを願っておられますが、自分の罪を認めようとしない人、罪を簡単なことと考えている人、罪の問題を無視する人を救うことはできません。パリサイ人や律法学者たちは、神様が人間に律法という神の掟を与えられた目的を誤解していました。聖書の律法は、自分が正しいことを証明するためにあるのではなく、自分が律法を完全に守ることができないことを知るためにあるのです。

 マタイは、自分の仕事も立派な家もすべてを捨てて、イエスに従って行きました。イエスの弟子となったマタイは、住む家もない生活へと入って行きました。28節の言葉はとても意味深い言葉です。「レビは、立ち上がってイエスに従った」とありますが、「立ち上がる」という言葉と「従う」という言葉の動詞の形が違うのです。ギリシャ語はとても細かい表現をするのですが、立ち上がると言う言葉は一度だけ行う時に使う形が使われています。マタイは、自分の人生の方向転換を決意して、今の生活から立ち上がりました。そして、イエスに従って行きました。この「従う」という言葉は、一回だけ行う時のかたちではなく、繰り返し行う、続けて行うと言う意味を持つ形が使われています。マタイは、古い生活に区切りを付けて新しい生活に入りました。これは一度だけ行うことです。しかし、その後、イエスに従って行くのは、一度だけ行うことではなく、毎日毎日、新しい気持ちで行うことです。マタイは、そのようにして、取税人の人生から、イエスの弟子の人生に移りました。多くのものを失いました。お金や財産を失いました。しかし、マタイは、永遠のいのちを受け取りました。主イエスを信じる素晴らしい仲間たちとの交わりも持ちました。主イエスは、すべての人が、例え社会でのけ者にされているような人であっても、マタイのように、新しい人生を始めるようにと招いておられるのです。

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