2016年6月12日 『古いものと新しいもの』(ルカ5章33~39節) | 説教      

2016年6月12日 『古いものと新しいもの』(ルカ5章33~39節)

 前回、イエスの弟子のひとりマタイが主イエスによって弟子になるように召されたという出来事について学びました。マタイは、弟子になる前は、ユダヤ人の社会で一番嫌われ、軽蔑されていた「取税人」という仕事をしていました。貧しい人々からきびしく税金を集めて、そのお金の一部を盗んでいました。彼らは金をもうけることだけを考えて生きていました。そんなマタイが、仕事を辞めてイエスの弟子になるのを決心したときに、心が喜びと期待にあふれていたので、自分の仕事仲間や、人々からのけ者にされていた罪びとたちを集めて大きなパーティーを開きました。取税人や罪びとたちと一緒に食事をすることは、ユダヤ人にとっては、とんでもないことだったので、ユダヤ教のリーダーであったパリサイ人たちは、イエスと弟子たちの行為に激しい怒りを感じて、彼らはイエスの弟子に向かって「あの人はなぜ取税人や罪びとたちと一緒に食事をするのか?」と厳しく尋ねました。彼らは、自分たちは聖書の命令を守っている正しい人間であるが、彼らは様々な罪を犯す悪い人間だと思い込んでいたからです。それに対してイエス様が言われたのは、「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪びとを招くために来たのです。」という言葉でした。主イエスは彼らがどんな人間であるかちゃんと見抜いておられました。彼らは、自分を正しい人間に見せるために、人々から褒められるために、善い行いをしていました。当時、彼らが特に自慢していた行いが3つありました。断食をすること、お祈りをすること、そして貧しい人に施しをすることでした。彼らは自分がそれらのことをいつも行っているので自分は神の前に正しい人間だと思い込み、そして、自分の周りにいる人間はみな罪人だとさばいていました。彼らの姿は、私たちへの警告であるように思います。私たちも、自分の行いを通して自分は正しい人間だと考えたくなる傾向があります。目に見える自分の行いによって人々から認められることを求めます。このような人々は神様を喜ばせる生き方、神の栄光を求める生き方ではなく、自分を喜ばせる生き方であり自分の栄光を求める生き方なのです。それで彼らは、自分と同じように行動しない人々をさばいていました。神様が求めているのはそのような生き方ではありません。第一コリント13章でパウロは言っています。「山を動かすほどの信仰を持っていても、愛がないなら何の値打ちもありません。」彼らは外側を整えていましたが、心の中に愛がありませんでした。神様が私たちに求めるのは、外側を整える生き方ではなく、神様の前に自分を低くする謙遜な心を持っている人です。
 このイエスの言葉を聞いてもパリサイ人たちの心は変わりませんでした。それで、彼らは、またイエスのところに来て言いました。「ヨハネの弟子たちは、よく断食をしており、祈りもしています。また、パリサイ人の弟子たちも同じなのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています。」旧約聖書の中には断食をしなさいと言われている箇所は1つしかありません。1年に1回だけ、贖罪の日という日に断食するように言われています。ところが、イエスの時代のパリサイ人たちは、自分たちで規則を作って1週間に2回、月曜日と木曜日に断食をすることにしていました。彼らは断食をすることで、自分が非常に信仰深い人間であることを人々に見せていました。そのため、彼らの多くは、わざと顔を青白くなるように化粧したり、わざとみすぼらしい服を着たりして、いかにも自分は断食という苦しみを味わっていますというように見せかけていました。主イエスは、すべてを知っておられましたので、マタイの6章16節で言われました。「断食するときには、偽善者たちのようにやつれた顔つきをしてはいけません。彼らは、断食していることが人に見えるようにと、その顔をやつすのです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。」

(1)大切なのは神様とともに生きること
 彼らの質問を受けた主イエスは、彼らに逆に質問されました。「花婿がいっしょにいるのに、花婿につき添う友だちに断食させることが、あなたがたにできますか。」ユダヤ人が結婚式を挙げるとき、新婚旅行には行かず、自分たちの家にいて一週間オープンハウスをして宴会を開きます。招かれた人々は「花婿の友」と呼ばれました。そして、彼らは、この宴会に出席している間は、断食をしなくてもよいことになっていました。ユダヤ教徒たちが作ったルールの中に、結婚式のパーティーに出席している人は、花婿の喜びを少なくするような儀式には参加しなくてもよい。」というルールがあったからです。ここでイエスは自分を花婿であり、イエスの従う人々を花婿の友であって、永遠のお祝いの席に出席するという特権を持っている人々だと見なしています。結婚式はお祝いの時であり喜びの時です。そんな時に断食をするのはおかしいです。結婚式は笑うときであって泣くときはありません。旧約聖書には、救い主が私たちにとって花婿であるという教えはありません。しかし、主イエスは、ここで初めて、ご自分のことを私たちの花婿だと言われたのです。結婚式のパーティーに出席するのは楽しいことです。そこに集まるすべての人が喜びに満ち溢れています。私たちが主イエスを信じる時、私たちは 花婿イエスの友として、永遠の喜びに入れられるのです。ただ、主イエスは、この時、弟子たちにご自分が十字架につけられることを預言されました。「しかし、やがてその時が来て、花婿が取り去られたら、その日には彼らは断食します。」しかし、弟子たちの悲しみは、十字架から三日目に、主イエスが死から復活されたことによって、喜びへと変わりました。そして、その後、主イエスは天に帰られたので、弟子たちの前からイエスの姿は消えました。ふつうは、親しい人と別れるのは悲しいことです。しかし、イエスの復活を経験した弟子たちは、非常な喜びに心があふれていました。ルカの福音書24章50~52節にその様子が描かれています。主イエスが与えてくださった福音は、弟子たちを永遠の喜びで満たしました。これは、旧約聖書の律法の教えとは異なる新しい福音です。人々を罪に定める律法の時代は終わって、イエスの十字架による罪の許しの時代が始まりました。もはや、断食の儀式を繰り返す必要はないのです。

(2)古いものと新しいもの
 主イエスは、パリサイ人たちに、イエスによる福音は、旧約聖書を信じるユダヤ人たちの教えとはまったく違うものでした。旧約聖書は、それだけでは未完成のもので、イエス・キリストによって旧約聖書の預言が完成するのです。ところがユダヤ教のリーダーたちは、主イエスが旧約聖書の教えを完成する救い主だと信じませんでした。彼らは、旧約聖書の教えに人間的なルールを加えて完成させようとしましたが、彼らの信じていたものは偽善者的で、律法的で、喜びのない宗教になっていました。イエス・キリストの教えは、旧約聖書の律法の教えとはまったく別のものです。そのことをユダヤ教のリーダーたちに教えるために、主イエスはたとえを用いて話されました。最初の例えは、古い布切れと新しい布切れのたとえです。新しい布は出来上がったばかりで、縮んでいません。その新しい布を古い布に縫い合わせると、濡れた時に新しい布が縮んで、古い布を引き裂いてしまいます。イエス・キリストは律法中心の教えに何かを付け足すためにこの世に来られたのではありません。イエスはまったく新しい救いを私たちに与えるために来られました。律法の教えを守って正しい行いをすることによって救われるという教えではなく、イエス・キリストが私たちの身代わりに私たちが受けるべき罰を十字架で受けてくださったことを信じることによって救われるという新しい救いです。
 イエスの時代、ユダヤ人はブドウ酒をヤギの皮で作った袋に入れていました。新しいぶどう酒は発酵する力が強くて多くのガスを発生しますが、新しい皮には弾力性があるので、袋がふくらんでも、問題ありません。しかし、皮の袋は古くなると弾力が失われて行きますし、皮そのものも弱くなります。そこに新しいブドウ酒を入れると、たくさんのガスが出て、袋の中の空気がふくらむため、古い皮袋だと、破れてしまい、ブドウ酒が全部流れ出てしまいます。へブル書8章13節に「神が新しい契約と言われたときには、初めのものを古いとされたのです。年を経て古びたものは、すぐに消えて行きます。」と記されているように、主イエスは、私たちと新しい契約を結ぶためにこの世に来られました。古い契約は新しい契約にとってかわったのです。ところがユダヤ教のリーダーたちは古い契約にこだわって、新しい契約を受け入れませんでした。しかし、歴史的に、彼らの古い宗教は滅んでしまいました。紀元70年に、ローマ帝国がエルサレムの町と神殿を完全に破壊してしまいました。そして、そこに住んでいたユダヤ人たちはみな全世界に散らばって行きました。神殿もなくなり、祭司もいなくなり、そこに住む人々もいなくなったため、旧約聖書の、神殿でいけにえを捧げるという宗教は終わりを迎えたのです。今日のユダヤ教には、祭司はいません。神殿も祭壇もありませんから、いけにえを捧げるという儀式はできなくなりました。旧約聖書の時代の人々はエルサレムの神殿で動物のいけにえを捧げ、祭司に祈ってもらうことによって罪が許されました。しかし、今は。主イエスが十字架で贖いの働きをすべて完了してくださったので、クリスチャンは、もはや、動物のいけにえを捧げる必要はありません。また、新約聖書は、信じる人一人一人が祭司であると教えています。以前は人々は直接神様に祈りませんでした。祭司を通して神様に祈っていました。しかし、主イエスによって、すべてのクリスチャンは、自分で直接神様に祈ることができるようになりました。主イエスは、古い律法中心の信仰と主イエスの十字架による神の恵みを受け取る信仰とは、つなぎ合わせたり組み合わせたりできないことを教えておられます。
 第三のたとえは、39節に記されています。 「また、だれでも古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物は良い。』と言うのです。」パリサイ人たちは、自分たちで作ったルールを守ることで自分を正しい人間であることを人々に見せようとしていましたが、彼らはその生き方に満足していました。そして自分のことを自慢していました。しかし、彼らは、主イエスによる救いを受けていませんでした。したがって、神の目には、彼らは正しい人間ではありませんでした。彼らの生き方を、主イエスは古いブドウ酒を飲んでいる人々が新しいブドウ酒を飲んでみようという気持ちを持たないのと同じだと説明されました。酒飲みは、酒を飲み続けていくうちに、飲んでいるということに満足して、酒の味をあまり気にしなくなります。それと同じように、自分にとって心地よい宗教を信じていると、そのうちに、自分の信仰生活に満足して、その宗教が本当に価値あるものなのか、正しいものなのか、人をマインドコントロールするものではないのか、というような大切な問題を気にしなくなります。そうなると、そのような人々は、主イエスの十字架による救いを受けることはできません。キリストを信じる生活は、私たちをいつも気持ちを心地よくするとは限りません。しかし、主イエスは言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」私たちが、道を進んでいく時は、必ず、その道が目的にまで続いているかどうかを確かめます。間違った場所に行かないためです。人生も一本の道です。聖書は、正しい人生の道は一本しかないと教えています。イエス・キリストによる救いの道です。あなたは、今どの道を歩んでおられますか。

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