2016年6月26日『普通の人に与えられた特別な使命』(ルカ6:12-16) | 説教      

2016年6月26日『普通の人に与えられた特別な使命』(ルカ6:12-16)

 主イエスは30歳の時に、神の子としての働きを始められましたが、活動の中心は、都のエルサレムではなく、イスラエルの北にあるガリラヤ地方でした。4章から6章には、主イエスが働きを始めたころの出来事が記されていますが、ここで、ルカが特に強調しているのは、主イエスの神の子としての権威です。主イエスが人々に教えると、人々はイエスの教えに驚きました。イエスのことばには権威があったからです。さらに、イエスには人々に悪霊を追い出す権威、ハンセン氏病のような重い病気をいやす権威、そして、罪を赦す権威や安息日を支配する権威を持っていることを人々にはっきりと示されました。そして、今日の箇所では、主イエスはご自身の権威によって12人の弟子を選んでおられます。
(1)主イエスの祈り(12節)
 イエスの権威はどこから来るのでしょうか。それは、父なる神と一つであるという事実が保証します。12節を読みましょう。「このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。」主イエスは、大切な時には、いつもひとりになって父なる神に祈られました。5章16節に「イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられらた。」と書かれています。主イエスは、絶えず祈りを通して父なる神との交わりを持っておられました。そして、ここで、12弟子を選ぶ前には、「神に祈りながら夜を明かされた。」と書かれています。ですから、イエスは、午後8時ぐらいから翌朝の6時頃まで、山の中に入って祈っておられました。主イエスは、神の御子ですが、私たちとまったく同じ完全な人となられたので、自分の能力や知識を全部用いることをせず制限しておられました。そして、すべてのことを父なる神のみこころ委ねておられました。そのために、この時、主イエスは自分のそばに集まっている大勢の人々の中から12人を選ぶ時にも、父なる神に祈られたのです。もし、神の御子イエスでさえも、地上で生きる時に祈りが必要であったとすれば、まして、私たちは、イエス以上に祈ることが必要ではないでしょうか。
 やがて夜が明けました。長い父なる神との祈りの中で、イエスは父の御心を知って誰を選ぶのか分かりました。主イエスにとって、12人を選ぶことは決して簡単なことではありませんでした。イエスは、私たちと同じ感情を持っておられました。12人の中には、やがて自分を裏切るイスカリオテのユダも含まれています。イエスはこの時にすでにこの男が自分を裏切ることを知っていましたが、父の御心に従って彼を弟子のひとりに選びました。13節を見ると、イエスは「12人を選んで、彼らに使徒という名前をつけられた」と書かれています。「弟子」とは学ぶ者という意味です。しかし、「使徒」という言葉は、人々に伝えるメッセージを持って人々のところへ遣わされるという意味があります。主イエスには多くの弟子がいましたが、使徒となるために選ばれたの12人だけです。彼らは、この後、主イエスによって遣わされて行くことになります。

(2)選ばれた使徒たち
 主イエスが12人の弟子たちをお選びになった時に、どんな順番で選ばれたのかわかりません。しかし、マタイの福音書とマルコの福音書に記されている記事を見ると、3つの福音書に記されている12使徒の名前のリストについて一つの共通点があります。それは、いつもペテロの名前が最初に記されていて、最後に記されているのがイスカリオテのユダであるという点です。ルカのリストでは次のように書かれています。「ペテロという名をいただいたシモンとその兄弟アンデレ、ヤコブとヨハネ、ピリポとバルトロマイ、マタイとトマス、アルパヨの子ヤコブと熱心党員と呼ばれるシモン、ヤコブの子のユダとイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。」ここに挙げられている使徒たちの名前は、全部は知らないにしても、ほとんどの人はペテロやヨハネ、ヤコブ、マタイなどの名前は聞いたことがあるはずです。しかし、彼らが選ばれた当時、12人はみな、まったく無名の人々でした。イスカリオテのユダを除いて、11人は皆ガリラヤの出身です。イスカリオテとは、ヘブル語でカリオテの人という意味ですが、カリオテとは、ユダヤの南にある村の名前です。彼だけがユダヤ地方の出身者でした。福音書には、他の11人が彼をのけものにしたとかいじめたとは書かれていませんが、彼自身、どこか他の11人とうまく人間関係を築けなかったかもしれません。ガリラヤ地方は北の田舎です。弟子たちの中には、エルサレムの出身者がいないだけでなく、教育を受けた人もいませんし、祭司になれる家系の出身者もいませんでした。本当にごく普通の人々でした。神様が、ごく普通の人、あるいはむしろ弱い人を選ばれる理由は、そのような人を通して神様の偉大な力が現れるためです。第二コリント4章7節で使徒パウロは次のように述べました。「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この計り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかにされるためです。」イエスの時代、人々は宝物を土の器の中に隠していたそうですが、パウロは、自分の働きをそれに例えています。神様がすべての人間のために用意してくださった主イエスの十字架と復活によって私たちの罪が許されて永遠のいのちが与えられるという素晴らしいメッセージ、つまり福音を、神様は土でできた器のように壊れやすい、弱い人間にゆだねてくださるということです。私たちは、自分の弱さを見るときに、クリスチャンはそれを嘆くのではなく、神様に助けを求めます。自分の力に頼ることができないので、神様の力に頼ります。私たちの自分の力と神の力を比べれば、どちらの力が大きいか明らかです。福音のメッセージが、ごく普通の人々に任されたのは、人間の力ではなく神の力が現れるためなのです。もし、私たちが自分の力、自分のやり方を信頼してそれに頼るなら、神の力は働かないのです。アメリカの大きな教会の牧師が、ある時、教会で行う大きなプログラムの準備をするために、役員たちと集まって話をしていました。その教会には能力のある人、プロの仕事をしている人がたくさんいます。音楽のプロもいます。宣伝をするプロもいます。音響のプロもいます。ですから、準備のための話し合いはすぐに終わりました。プロの力を持つ人に任せれば、よい準備ができるからです。しかし、その時、その牧師は考えました。「能力のある人がたくさんいて、その人たちに準備を任せれば、きっとそのプログラムは、うまくできる。しかし、この話し合いの中で、一度も私たちは神様のことを考えなかった。神様に頼ろうともしなかった。これでいいのだろうか。すべてはうまくいったとしてもそこに聖霊の働きがないことに誰も気付いていない。教会に人が多く集まっていると、そこに聖霊の働きがあると思い込んでいる。私はその事実に気が付いて恐ろしくなった。」聖書の中で、神に用いられた人々は、みな自分が土の器に過ぎないことを知っていました。モーセも、ギデオンも、エレミヤも。彼らは、自分の弱さを知って神により頼んだからこそ、大きな働きをする人に変えられたのです。私たちも、自分の弱さを知るなら、悲しむのではなくて、むしろ喜びましょう。そして神様に大きく期待しましょう。「神様、あなたは私を通してどんな大きなことをしてくださるのでしょうか。」と。

(3)使徒たちの素顔
 イエスが選んだ使徒たちは12人ですが、リーダーであったペテロとヨハネとヤコブ以外の使徒たちについては、福音書の中にもわずかなことしか書かれていません。職業も全員はわかりません。12人のうちでペテロ・アンデレ、そしてヨハネ・ヤコブの兄弟は皆さん知っていると思いますので、比較的知られていない他の8人について述べたいと思います。ピリポとバルテロマイ。ピリポはヨハネの福音書1章44節によると、ガリラヤ湖のほとりの町ベツサイダの出身で、ペテロとアンデレと同じ町の出身でした。おそらく、彼も漁師だったと思われます。彼はいつもバルテロマイとペアで名前が書かれているので、親しかったと思います。このバルテロマイという人の名前は、「テロマイの子」という意味で、本名はナタナエルと思われます。ヨハネの1章で、ピリポがナタナエルをイエスのもとに連れて行きました。彼は、イエスと会った時に、救い主とは信じなかったのですが、イエスから、「あなたは本物のユダヤ人だ。あなたがイチジクの木の下でいつも祈っていることを知っている。」と言われてイエスを信じました。
 次に、マタイとトマスです。マタイは、先日お話ししたように、もともとの名前はレビでした。これはユダヤ人によくある名前で、後からマタイという名前に変えたのではないかと考えられています。マタイとは「神の賜物」という意味です。彼は、ローマ政府のためにユダヤ人から税金を取り立てる役人でしたので、皆から嫌われた人物でしたが、イエスは、このマタイを12使徒のひとりに選びました。彼は自分のような人間が使徒の一人に選ばれたことは、「神の賜物」だと感じ、新しい名前をつけて、イエスの12弟子として新しい人生をスタートしたのでしょう。トマスは、主イエスが復活した日、たまたま他の弟子たちから離れた場所にいたため、復活のイエスに会うことができませんでした。他の弟子たちから復活のイエスに出会ったと聞いても、その言葉を信じませんでした。すると、その一週間後に、トマスがいる場所に主イエスが現れてくださったというエピソードが有名で、一般的に「疑い深いトマス」と呼ばれています。しかし、イエスの復活を確信したトマスは、伝説によれば、インドに行って福音を伝えたと言われています。インドには、トマスが建てたという聖トマス教会があります。
 アルパヨの子ヤコブと熱心党員と呼ばれるシモン。アルパヨの子ヤコブは、ヨハネの兄弟のヤコブと区別するために、アルパヨの子と言われているのですが、この人については、それ以外、何も分かっていません。熱心党員シモンですが、熱心党員というのはユダヤ人の中でも超国粋主義者であって、当時イスラエルを支配していたローマ人を何とかして国から追い出したいと考えていたテロリストのような存在でした。彼らは、いつでもローマ人やローマに協力するユダヤ人たちを殺す気持ちを持っていました。もし、このシモンがイエスの12使徒でなかったなら、もともと取税人だったマタイとは、一切かかわりを持たなかったでしょうし、もしかすると彼を殺していたかもしれません。取税人はユダヤ人から税金を取り上げて、ローマに協力していましたから。
 最後に、ヤコブの子ユダとイスカリオテのユダです。ヤコブの子ユダは、マタイの福音書ではタダイと呼ばれています。タダイというのはニックネームで「おっぱいの子」という意味で、いわば、いつまでもお母さんに甘えている子供という意味です。彼はおそらく末っ子だったので、そう呼ばれたのでしょう。彼は、末っ子の甘えん坊でしたが、伝説によると、厳しい迫害の中で福音を述べ伝え、最後には殉教したようです。そして、イスカリオテのユダ。彼だけがガリラヤ出身ではなく、南のユダヤのカリオテ村の出身でした。彼が選ばれたのは、父なる神様のご計画によるものです。主イエスにとっては裏切り者ですが、主イエスは最後まで彼を愛し、ユダの前でいつも神の子として罪のない生き方を続けられました。普通、3年間も一緒に生活をすると相手の欠点が目に付くものですが、イエスの場合は違いました。彼は、イエスを裏切った後、そのことを後悔して非常に苦しみました。その時彼が語った言葉は、「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったのだ。」
 このように見てみると、12使徒に選ばれた人物は、皆、当時の社会ではまったく無名で、特別な権力も、お金も持たない、ごく普通の人間でした。また、いろいろな背景を持ち、特に、熱心党員のシモンとマタイのように、普通であれば憎み合うような者たちが選ばれました。それは、力のない彼らを通して神の偉大な力が現れるためだったのです。主イエスの力は、自分に頼らず神様に頼る人々の中に大きく働きます。そして、主イエスのもとにあって、私たちは一つになることができることを示しています。

 主イエスは12人を選んだあと、すぐに、彼らとともに山を下りて行きました。そこには多くの弟子たちや、全国から集まって来た大勢の民衆がいました。彼らはイエスの教えを聞くため、病気をいやしてもらうため、また、けがれた霊につかれて悩んで集まっていました。彼らは何とかして、イエスに触ろうとしていました。するとイエスから大きな力が出て、すべての人をいやしました。イエスは12人を選んだ直後、いろいろな必要を持つ人々に対して大きな力と憐みの心を示されました。それは、主イエスが、この世界にいるいろいろな必要や悩みを抱えている人々に主イエスの力と愛を表していくことが彼らの使命であることを教えるためだったと思います。私たちも、主イエスによって選ばれた弟子の一人です。自分の弱さを嘆く必要はありません。弱いところにイエスの力が働くからです。主イエスに祈りながら、自分の周りにいる人々にイエスから受けた愛と力を分かち合うこと、これが私たちの教会に、そして私たち一人ひとりに委ねられた使命なのです。

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