2016年8月7日 『岩の上の家と砂の上の家』(ルカ6章46-49節) | 説教      

2016年8月7日 『岩の上の家と砂の上の家』(ルカ6章46-49節)

主イエスは、6章のはじめからイエスの弟子としてどのような生きかたをするべきかという教えを話しておられましたが、その最後に、説教を聞いていた人々に、説教を聞いた後、どうするか決断を迫られました。そして、その決断によって決まる二つの結果を建物の土台に例えられました。建物にとって最も大切な部分は土台です。土台が建物の強さを決めるからです。もし、建物の土台が弱いと、建物の強度が弱くなり、大地震がくると倒れてしまう危険性があります。イタリアには有名な「ピサの斜塔」があります。ピサの斜塔は高さが約60メートル、そして毎年20分の1インチずつ傾いた結果、とうとう垂直から5メートル傾いてしまいました。ピサという町の名前の意味は「沼地」という意味だそうです。ピサの町はもともと沼地だったために、この塔はこんなにも傾いてしまいました。問題の根本が土台にあったのです。BBCによると2008年の5月28日にピサの斜塔が、建てられたから8世紀たって初めて傾くのが止まったそうです。技術者が傾きを止めるために40億円の費用と10年の歳月をかけて、塔の土台を修復工事を行い、現在、地面に埋められている測定装置によると、傾きは完全に止まっており、今後200年は倒れることはないそうです。丈夫な土台が建物に力を与えます。主イエスは、弟子たちや群衆に説教をした後、私たち一人一人が、自分の人生の土台が何であるかを考えるようにチャンレンジしておられるのです。人生の土台が何であるのか、聖書は、はっきりとクリスチャンの人生の土台はキリストであり、それ以外の何物でもないことを断言しています。 

(1)イエスの弟子の正しい生き方
 主イエスは、弟子たちのあるべき姿として、「わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。」と言われました。ここに、主イエスによって、弟子たちが行うべき3つの行動が教えられています。第一に、イエスのもとに来ることです。イエスが説教を語っていた時に、イエスの周りに、何重もの人々が取り囲んでいました。一番そばには主イエスが選んだ12人、その周りには、12使徒には選ばれなかったけれども主イエスの弟子として生きることを決心していた人々がいました。さらに外側には、なんとなくイエスに興味を惹かれて集まっている人もいました。彼らは、イエスの教えに感心はしたけれども従おうとしない、あるいは、従えない人でした。しかし、主イエスのところに来て、イエスの言葉を聞かない限り、キリストの弟子になることはできません。教会の礼拝に出ないままでキリストの弟子になることは不可能です。
 第二に、「わたしの言葉を聞く者」と言われています。今日、私たちの周りにはたくさんの音が流れ、たくさんの言葉が語られていますが、私たちはじっくりと人の話を聞いているでしょうか。また、誰かに自分の話を聞いてもらいたいと思っても、皆忙しくて、ゆっくり話を聞いてもらえないことも多いのではないでしょうか。主イエスは、「わたしの言葉を聞きなさい」と言われましたが、私たちは、本当にイエスの言葉に耳を傾けているでしょうか。一つの出来事について話しましょう。主イエスがエリコという町に向かっているときに、親しくしているマルタとマリヤの家に弟子たちとともに寄られました。料理が得意な姉のマルタは腕によりをかけてご馳走を作って彼らをもてなそうとしました。客間に通されると、主イエスは弟子たちに教え始められました。それを見た妹のマリヤは、自分のするべき仕事を片づけるとイエスの足元に座って、イエスの言葉をじっと聞いていました。その間、姉のマルタは台所と居間の間を忙しく行ったり来たりしていました。妹が自分を手伝わずに、イエスの話を聞いている姿を見て、彼女は腹を立てました。マルタは、イエスと弟子たちに喜んでもらおうと思って得意の料理を振る舞おうとしていたのですが、料理作りが大変になって来て、妹への怒り、手伝わないマリヤに何も言わないイエスや弟子たちへの怒りで、大好きなはずの料理作りがむなしくなり、結局、自分の怒りを主イエスに爆発させてしまいました。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」マルタは、尊敬しているはずの主イエスに非常に失礼な言葉を言ってしまいました。そんなマルタに、主イエスは次のように答えました。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」イエスは、「なくてはならないものは一つしかない」と言われました。人生の中に、良いものはいろいろあります。しかし、どうしても必要なものは一つだけです。人生でそれ以外のものをどれだけたくさん持ったとしても、それを持っていなければ、人生はだめになるという意味です。私たちの周りにも大切なものがたくさんあります。学校の勉強において大切なこと、仕事において大切なこと、人間関係において大切なことはたくさんありますが、どうしても必要なことは一つしかなく、その一つを選んだのがマリヤでした。彼女は、イエスの前に座って主イエスの言葉をじっと聞いていました。これが主イエスの教えであり、聖書の教えです。マタイの福音書24章35節で主イエスはこういわれました。「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」姉のマルタが心にかけていたことは時間とともに過ぎ去って行くものですが、マリヤは、永遠に変わることのないものに心を向けていました。二人とも、イエスの言葉を聞いてはいたのですが、聞く姿勢が異なっていました。私たちは、マリヤがイエスの言葉に耳を傾けたように、神からのメッセージを聞いているでしょうか。
 第三に「わたしの言葉を聞いて、それを行う人」と言われています。結局、ここで、主イエスが2種類の人について語っていますが、この2人の人は、イエスのもとに来て、イエスの言葉を聞くところまでは同じことをしています。したがって、二人の決定的な違いは、イエスの言葉を聞いて、それを行うか、行わないかというところにあります。キリスト教の試験で100点をとってもクリスチャンでない人がいます。医者に診てもらっても、医者の言うとおりにしなければ、何の意味もありません。毎日、主イエスの教えを聞いていても、それを自分の生活の中で実践しようとしなければ、意味はないのです。もし、私たちが本当に主イエスの弟子として生きようとするならば、私たちは、イエスの言葉を聞き、それを実行しなければなりません。バークレーという人が書いた本の中に書かれていましたが、昔、イギリス海軍で、一人の兵士が海軍の規律を破ったために厳しい処分を受けました。その処分が非常に厳しかったために、市民の間で非難が起き、ある新聞社が読者に意見を求めました。すると、一人の元海軍兵が、その処分は厳しすぎることはないという意見を述べました。軍隊では、兵隊が上官の命令に反射的に従うように訓練されており、それが実行されて初めて軍隊として行動できるという意見でした。その意見は彼の体験に基づくものでした。彼が乗っていた小型の船が荒れた海の中で大型船を鉄のロープで引っ張っていました。ところが突風が吹いて両方の船が大きく揺れました。そのとき、小型船の船長が大声で全員伏せろと叫びました。その瞬間、小型船の乗組員は全員さっと体を伏せました。その直後、切れたロープが怒り狂う鉄の蛇のようにあたりを打ちました。船長の命令に従っていなければ、乗組員は死んでいたことでしょう。イエスが命令されることは、私たちの魂にとって、生きるか死ぬかという大切な命令です。これに従うか、従わないかによって、その人の信仰が決まります。

(2)家と土台
 家を建てる場合は、将来のことまで考えて建てます。死ぬまでその家に住むことを考えて、家を建てます。最初に言ったように、建物にとって最も大切なのは土台です。どんなに見晴らしがよい土地であっても、固い岩の土台ではなく、崩れやすい砂の土台であれば、その上に立った家は大雨が降ると倒れてしまいます。イエスは、人生という家の土台を、神の言葉を聞き、それを実行することだと教えておられます。その生き方こそ、人生に何が起きても揺るがされない秘訣だからです。自然には春夏秋冬の四季があるように、人生にも、いつも楽しい春や夏だけなく、厳しい冬の時も来ます。時には、台風のような思いがけない嵐に襲われることもあります。思いがけずに病気になることもあります。突然世界の経済状況が変わって仕事を失うこともあります。突然、何かの事件に巻き込まれることもあり得ます。いつどこに、死ぬかもしれない危険が潜んでいるか、私たちにはわかりません。
 礼拝で毎週語られる聖書の言葉、毎日のデボーションで読む聖書の言葉、これらはすべて、人間が考えて作り出した言葉ではなく、神ご自身の言葉です。言葉一つで、何もないところから、この宇宙とその中にあるすべてのものを作り出された、私たちとは比べ物にならない全知全能の神様の言葉です。私たちが、この神の言葉とどのように向き合うかによって私たちの人生が決まります。私たちの人生の土台は私たちの自分の力にあるのではなく、私たちを愛し、私たちを赦し、私たちを守り、私たちを家族の一員としてくださる神の力にあるのです。詩篇50編15節で、神は私たちに向かってこう言っておられます。「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」苦難の日に神を呼び求めなさいと神ご自身が招いておられます。そして、神様が「わたしはあなたを助ける」と約束してくださいました。その結果、あなたはわたしをあがめようと言われます。クリスチャンは、苦しみの時にこそ、頼るべきお方を知っています。神様の約束は真実です。だからこそ、私たちはどんなときにも、神をあがめて毎日を生きることができるのです。
 私たちは、どちらの生き方をしているでしょうか。神の言葉を聞くだけの人でしょうか。それとも、神の言葉を聞いてそれを実行している人でしょうか。私たちの人生は1回しかありません。毎日、心配して人生を終える人もいます。また一方では、嵐の中を通っていても、神を呼び求め、いつも神をあがめ、神に感謝して人生を終える人もいます。どちらの人生が幸いなのでしょうか。あなたはどちらの生き方をしているでしょうか。

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