2016年8月14日 『イエスが驚いた立派な信仰』(ルカ7章1-10) | 説教      

2016年8月14日 『イエスが驚いた立派な信仰』(ルカ7章1-10)

 ルカの福音書6章は、主イエスが自分で選んだ12人の弟子たちに、キリストの弟子としての生き方を教えるための説教が記されていました。そして、その説教の最後に、主イエスは、説教を聞いていた12人の使徒をはじめ、群衆に向かって、イエスの教えを聞くだけでそのように生きようとしない人と、イエスの教えを聞いてそのように生きようとする人の違いがどれほど大きいのかということを岩の上に建てた家と、砂の上に建てた家の違いに例えて話されました。今日の箇所は、それに続いて起きた出来事ですが、ここでも、主イエスは弟子たちに信仰について教えようとしておられます。1節から10節に記された出来事の中心人物はローマの軍隊の百人隊長です。百人隊長とはその名のとおり、ローマの軍の100人の兵士を指揮するリーダーでした。主イエスの時代、イスラエルはローマ帝国の支配を受けており、国中にローマ軍の部隊が配備されていました。彼らの多くは、支配しているユダヤ人たちに自分たちの権威を見せつけるような横柄な態度を取っていました。マタイの福音書5章41節で、主イエスが「あなたに1ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに2ミリオン行きなさい。」と言われましたが、これは、当時、ローマ帝国が決めた法律で、ローマの兵士は、ユダヤ人の一般市民に、荷物を強制的に運ばせることができたことを表しています。ローマの兵士から「この荷物を持って1キロ運べ」と言われたら、ユダヤ人はその命令に従わなければならなかったのです。主イエスの十字架を運んだクレネ人シモンも、この命令によって十字架を運ぶことになりました。ユダヤ人たちは、外国人の命令に従わなければならないことは屈辱を感じていましたから、このイエスの言葉を聞いたユダヤ人の多くは、強い怒りを感じたに違いありません。権威というのは、それ自体は良いものでも悪いものでもなく、その良し悪しは、誰が権威を持っていて、その権威を使うかによって決まります。権威を持っている人が、権威について正しい考え方を持っているかどうか、そして、その人のモラルを信頼できるかどうか、その人が権威を正しく使うことができるかどうか、これらの3つの点が、権威を良いものにも悪いものにもしてしまいます。ところで、今日の説教のタイトルは「イエスが驚いた立派な信仰」ですが、実は、主イエスは、この百人隊長の信仰を見て非常に驚かれました。「驚いた」と訳されている言葉は、「すごい!」と叫ぶほどびっくりしたという意味です。イエスの教えを聞いて驚いた人、イエスの奇跡を見て驚いた人はたくさんいますが、主イエスが、人の信仰を見て驚かれたのは、この時だけです。しかも、その信仰は、ユダヤ人ではなく、異邦人であるローマ軍の百人隊長の信仰でした。この百人隊長の信仰はどのようなものだったのでしょう。

(1)ユダヤ人たちから見た百人隊長
 イエスは、人々への説教を語り終えるとカペナウムの町に入られました。そのとき、一人の百人隊長に大切にされていたひとりのユダヤ人の召使いが病気で死にかけていました。3節には、「百人隊長はイエスのことを聞き、みもとにユダヤ人の長老たちを送って、しもべを助けに来てくださるようにお願いした。」と書かれています。この百人隊長は、イエスのことを聞いていました。彼はローマ人ですから、元々は、ローマの神々を信じていたと思います。しかし、イスラエルに派遣されて何年か過ごしている中で、イエスのうわさを聞いたはずです。イエスが多くの人々をいやしておられること、イエスの教えに多くの人が驚いていること、あるいは、どこかで主イエスが群衆に向かって教えておられるのを直接聞いていたかも知れません。ローマ神話に出てくる神々は非常に人間的で、神とは思えないようなことがいろいろあります。この時、家族同然のように大切にしていた召使いの一人が病気になって死にかけていました。人生には思いがけないことが起こりますが、百人隊長は、いくらローマの軍人として権威を持っていても、自分の召使いのいのちを助けることはできません。かと言って、ローマの神々に祈っても召使いが助かるとは思えませんでした。その時に、イエスについて聞いたこと、あるいはイエスから聞いたことを思い出して、今こそ頼りになるのはイエスだと思ったのだと思います。それで、彼はユダヤ人の長老たちにお願いして、主イエスの所へ行ってもらい、召使いを助けに来てくださいと頼んでもらいました。このことから分かるのは、この百人隊長がユダヤ教の指導者たちと深い信頼関係を持っていたことです。普通は、ユダヤ人は異邦人を非常に低く見ていましたし、異邦人の家に行くと宗教的に汚れると考えていました。ですから、ユダヤ教の指導者たちがローマ総督にイエスを裁判してもらえるよう頼みに行った時も、彼らがピラトの家の中に入ろうとしなかったので、ピラトが家の門のところまで出てきました。そのように、ユダヤ人は異邦人と交流を持たなかったのです。ところがこの指導者たちは百人隊長の願いを聞き入れてイエスがおられるカペナウムまでやって来ました。しかも4節を見ると、彼らはイエスに熱心にお願いして、次のように言っています。「この百人隊長は、あなたにそうしていただく資格のある人です。この人は、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です。」彼らの言葉からも、この百人隊長がユダヤの人々を愛し、彼らのために様々な良い働きをしていたことが分かります。

(2)百人隊長の信仰
 イエスは、ユダヤ教の長老たちの願いを聞いて、彼らと一緒に百人隊長の家に向かいました。一方、百人隊長は、長老たちを送りだした後、一つ気が付いたことがありました。それは、熱心なユダヤ教の人々は外国人の家の中には入ろうとしないということでした。それで、長老たちとイエスが彼の家の近くまで来た時に、彼は友人たちを使いに出しました。そして、イエスに次のように言うように命じました。6節の後半に記されている言葉です。「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の家に入れる資格は、私にはありません。」
「私には資格がありません。」百人隊長はイスラエルを支配するローマ帝国の軍隊のリーダーです。ユダヤ人に対してどんなことでも命令できる力と権威を持っていました。しかし、彼は、ユダヤ人にとっては異邦人なので、主イエスに自分の家の中に入ってもらう資格がないことを自ら認めています。普通は、戦争に勝って支配している人間は、戦争に負けて支配されている人間を見下したり、ひどい扱いをしたりします。しかし、彼は、自分がイスラエルの神の前には神から離れて生きてきた異邦人であることを認めています。彼は、自分の姿をありのままに、正直に見ています。イエスの前には、自分のローマ軍の百人隊長として持っている地位も権威も価値がないことを知り、それをある意味、捨てています。それは、自分にとって大きな力となるものを捨ててでもイエスに頼りイエスに従う価値があることを認めているのです。
 しかし、一方で、主イエスの神としての権威と力を信じる純粋な信仰を持っていました。彼は7節8節で次のように言っています。「ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵士がいまして、その一人に「行け」と言えば行きますし、「来い」と言えば、そのとおりにいたします。」
多くの人は、イエスが病人をいやしたり悪霊につかれている人を解放したりする奇跡を見て、イエスに驚き、イエスがすごい方であることを認めています。しかし、私たちは、イエスの奇跡の働きに頼るのではありません。イエスというお方を信頼して、イエスを神の子と信じて受け入れることが必要です。ヨハネの福音書に記されたイエスの言葉に、「あなたは、しるしと奇跡を見ない限り決して信じないだろう。」しかし、この百人隊長は、奇跡を見ないでもイエスには自分の召使いの病気を癒す権威と力があることを信じる信仰がありました。だから、わざわざイエスに家の中に入って、召使いに手を置いて祈ってもらわなくても、主イエスが遠く離れた場所でも「病気よ、去れ」と一言言えば、必ず、その召使いはいやされると信じていました。この百人隊長の信仰からわかることは、クリスチャンの信仰には大切な2つの面があることです。一つは、自分が誰であるかを知ることであり、もう一つはイエス・キリストが誰であるかを知ることです。

(3)主イエスは百人隊長をどう見たのか
 百人隊長の言葉を聞いて、イエスは驚かれたと書かれています。そして、自分について来ていた群衆に向かって言われました。「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。」イエスは何を驚かれたのでしょうか。一つは、百人隊長の背景です。彼はローマ人として生まれ育ったので、イスラエルの民が持っていた様々な特権を持っていませんでした。会堂の礼拝に通ったこともなかったし、ユダヤ人の子どもならだれでも暗唱していた聖書の言葉も知りませんでした。彼が異邦人だったからです。しかし、彼にはイエスを信じる信仰がありました。第二に、彼の立場です。彼は軍人でした。彼は特に百人隊長でしたから、大きな権力を持っていました。そのような立場にある人は、彼のように、謙遜な心でイエスに近づくことは非常に難しいです。彼らは、百人隊長のように自分が誰であるかを正直な目で見ることができないからです。高い地位についている人の中には、いつも非常に威張っている人がいます。自分が命令すれば、人が自分に従うので、自分は偉い人間だと思うのです。しかし、人がその人に従っているのは、その人のためではなくその人が持っている地位のためなのです。よく言われますが、会社の部長も仕事を辞めればただの人です。百人隊長は、大きな権威を持つ人間でしたが、自分の権威と自分自身とをはっきり区別していました。だからこそ、彼は、謙遜な姿勢でイエスに近づくことができたのです。第三に、彼のイエスに対する絶対的な信頼です。百人隊長の信頼は「ただ、おことばをいただかせてください。」という言葉に表れています。この言葉こそ、へブル書11章1節に記されている信仰そのものだと言えます。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」信仰の始まりはイエスが聖書が示しているような方であることを信じることであり、そしてイエスが語る言葉を信頼して生きることです。百人隊長は、主イエスの目に見えない霊的な力を見抜いていました。そして、その力によって自分の召使いは必ずいやされると信じていたのです。本当に、驚くような信仰です。
 百人隊長は異邦人でしたが、イエスを神と信じ、イエスに絶対的な信頼を置いて生きていました。このような信仰を持って生きるなら、必死に頑張って生きることから解放され、神様のあわれみと恵みの中で生きることを知ります。私たちも、百人隊長が言うように、本当は、神の愛や恵みを受ける資格がない者です。しかし、そのことを認めてイエスに近づく時に、イエスは私たちを受け入れ、私たちに恵みを豊かに与えてくださいます。主イエスの愛と恵み、それが私たちの希望であり、それが私たちに平安をもたらすのです。主イエスは、あなたの信仰を見て、驚かれるでしょうか。
 

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