2016年8月21日 『生と死を支配するイエス』(ルカ7章11~17節) | 説教      

2016年8月21日 『生と死を支配するイエス』(ルカ7章11~17節)

 今日の聖書の箇所の中心テーマは「死ぬ」ということです。私たちは、普段、「死ぬ」ということについて深く考えていません。人間は必ず死ぬことが決まっているのに、普段は、「死ぬ」ことは自分とは無関係のように考えています。日本では、死ぬことは、忌み嫌うもの、不吉なものだから避けなければいけないと考えられてきました。上智大学のドイツ人の教授が書いた本の中に書かれていたのですが、死に関する研究を行う「死学」という学問があって、ある時、死学会がホテルで学会を行おうとしたら、ホテル側が、ホテル内に「死ぬ」という言葉を看板に出すと他の客から「不吉だ」とクレームが来るという理由で断られたそうです。そのように、日本人は、死ぬことは避けるべきことだとして、あまり考えようとしません。特に、死んだ後のことについてはっきりとした答えを持っていないので、いっそう考える気持ちにはなりません。詩篇90篇10-11節には次のように書かれています。「私たちの齢は70年、健やかであっても80年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。」死というのは私たちが乗り越えなければならない最大の問題です。パウロは私たちの最後の敵と呼びました。しかし、私たちが信じる主イエスは、死から復活された救い主です。死に勝利された救い主です。

(1)すべてを知っておられるイエス
 ルカの福音書7章11節に「それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。」と書かれています。それからとは、直前の出来事、ローマの軍隊の百人隊長の召使いがイエスの言葉によっていやされたという出来事から2,3日後という意味です。イエスは、ガリラヤ湖の南30キロにあるナインという町に行かれました。聖書には、ルカの7章にしか出てこない町ですから、小さな町だったと思います。ナインという名前そのものが「かわいい」という意味を持っています。イエスの後ろには弟子たちだけでなく、大勢の人々がついて来ていました。主イエスが行動するときには、いつも目的があります。何の意味もなくナインに行くことはありません。主イエスが、サマリヤの女と出会う時もそうでした。普段は、ユダヤ人とサマリヤ人は仲が悪かったので、ユダヤ人がサマリヤに行くことはありません。しかし、その日は、主イエスは弟子たちに「今日は、サマリヤを通らなければなりません。」と言われました。それを聞いた弟子たちはびっくりしたはずです。しかし、その時に、主イエスは一人のサマリヤの女性と出会い、彼女を信仰に導き、彼女を通してサマリヤの多くの人が主イエスを救い主だと信じました。その時と同じように、ここでは、主イエスが、ある未亡人のひとり息子が死んだことを知ったうえで、その息子を死からよみがえらせるためにナインに行かれたのです。イエスの12人の使徒たち、その他の弟子たち、また、大勢の群衆も、なぜイエスがナインに行くのか知りませんでした。
 イエスと弟子たちがナインの町に近づいてきました。その時代の町には入口を示す門が必ずありました。大きな町は町全体が城壁で囲まれていましたが、小さな町には城壁はなく、凱旋門のような門だけがありました。町の門はメインストリートの端に作られていました。イエスと大勢の人々が町の門に近づいて来たまさにその時に、葬式の行列が門から町の外へ出て来ました。12節には、「やもめとなった母親のひとり息子が、死んで担ぎ出されたところであった。」と書かれています。イエスの時代、この地域では、人が死ぬと家族は大声で泣いて、近所の人々に人が死んだことを知らせます。ヤギの毛で作った袋のようなものを身に着けて、服を引き裂き、灰をかぶり、胸を打ちたたいて悲しみをあらわしました。時には、専門の泣き女に来てもらって大きな声で泣いてもらうこともありました。また、遺体は死んだその日に埋葬するのが一般的でした。未亡人のひとり息子が亡くなった後、人々は息子を埋葬するために、町の外へ出てきたのでした。12節に「町の人たちが大勢その母親に付き添っていた。」と書かれていることから、この未亡人は町の人々に非常に愛されていた人であったことが分かります。遺体は、ストレッチャーのようなものに乗せて運ばれました。彼らが町から出てきた時に、イエスと大勢の群衆がナインの町の門に到着しました。

(2)イエスの憐み
 この女性は本当にかわいそうな人でした。当時の社会では女性が働いてお金を稼ぐことはありませんから、未亡人として生きることは経済的に大変でした。旧約聖書を見ると、神様は、未亡人に対して特別な憐みを示しておられます。詩篇146篇9節に「主は在留異国人を守り、みなしごとやもめを支えられる」と書かれてるとおりです。この未亡人にとって、唯一の希望は一人息子でした。その一人息子が死んでしまったのです。彼女はどれほど悲しかったでしょう。どれほどつらかったでしょう。親にとって、自分の子供が自分より先に死ぬことほど悲しいことはないと言います。私の父も長男を5歳で失ったとき、あっと言う間に髪の毛が真っ白になったそうです。町の人々は、この女性の悲しみが分かっていますから、何とかして彼女を支え、彼女を助けようとして、大勢集まっていました。
 13節に「主は、その母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい」と言われた。」と書かれています。主イエスはこの女性を見ました。イエスは、いつも人の顔をじっと見られました。イエスが、その人のために何かをしようとしておられるからです。そして、イエスはその女性がかわいそうだと思われました。「かわいそうに思われた」と訳されている言葉は、「内臓が引き裂かれる」という意味を持つ大変強い言葉です。人は、あまりにも悲しみが大きいと、体を壊してしまいます。主イエスは、この女性を見たときに、そのような強い悲しみ、強い憐みを心に感じられたのです。聖書の神の素晴らしさは、天と地とその中にあるすべてのものを創られたほどスケールの大きい全能の力を持つ神様であると同時に、一人の名前もわからない女性を見て、これほど強い悲しみや憐みを感じて下さる方であるという点です。偉大な神ですが、私たちのすぐそばにいて、私という一人の人間と深く交わってくださる神です。そして、彼女に「泣かなくてもよい」と言われました。普通の人が言えば、悲しみの中にある彼女の心を傷つけるかもしれない言葉です。しかし、主イエスは、これから彼女のために何をするのか知っておられたので、「泣かなくてもよい」と言われたのです。
 聖書の神は、私たちをいつも見ておられます。そして、この女性に対して感じられたように、私たちに対しても、同じ憐み、同じ悲しみを感じてくださいます。私たちが信じている神様はそのような神です。主イエス自身、十字架にかけられる時に、人々からあざけられ、ののしられました。預言者イザヤは、そのことを預言して、「この方は悲しみの人で、日本語の聖書では「病を知っていた」と訳されていますが、英語の聖書では、「悲しみをよく知っておられた」と訳されています。主イエスは、ご自身が苦しまれたので、私たちの気持ちを理解することができるのです。ですから、私たちは困難や悲しみを経験する時には、パウロがピリピ人への手紙に書いているように「何も思い煩ないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、願い事を神に知ってもらう」ことが大切なのです。

(3)復活の主の力
14節に「イエスは、近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まった。」と書かれています。旧約聖書の教えによれば、死者の体や棺桶に触った人は、宗教的に穢れます。祭司であれば、祭司としての働きができなくなります。しかし、イエスは、神の御子です。棺桶に触っても穢れることはありません。これは、死んだ一人息子を生き返らせるために行動するという、イエスの強い意志が現れでもありました。イザヤ書55章11節に「わたしの口から出るわたしのことばも、むなしくわたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望むことを成し遂げる」という神様の言葉が記されていますが、主イエスが行うと決められたことを妨げるものは何一つありません。しかも、この時は、誰もイエスにこの息子を生かしてくださいと頼んでもいません。主イエスがこの女性の悲しみをいやすために、自分の時間と力を用いることを自ら決められたのです。また、この場面には、神の力と権威が現れています。普通、葬式の行列が進んでいる時に、棺桶に触ったら、葬式の邪魔をしているとみなされ、行列に加わっていた人々はひどく怒るはずです。しかし、主イエスの権威を感じた人々は、何にも言わずに、静かに立ち止まりました。そして、主イエスは「青年よ。あなたに言う。起きなさい。」聖書の神は天地創造の神です。「光あれ」という言葉によって、この世界が生まれました。神の言葉によって、何もないところからこの世界が生まれたように、主イエスの命令によって、この死んだ息子の中にもう一度命が入ったのです。若者は、主イエスから見れば死んだのではなく眠っていたのです。それで、主イエスは、若者の魂に向かって「目をさませ」と命令されたのです。若者はすぐに目を覚まし、起き上がって何かしゃべりました。何と言ったのかは書かれていませんからわかりませんが、彼自身も、最初は訳が分からなかったと思います。そして、15節に「イエスは彼を母親に返された。」と書かれています。主イエスは、一人息子を失って大きな悲しみの中にいた母親に、その息子のいのちを返してくださったのです。母親は、どれほどの喜びを感じたことでしょう。主イエスは、今も、私たちのために働いてくださいます。イエスは、私たちが失ったものを返してくださる方です。どんな時も、私たちが主イエスを信頼するならば、私たちは何も恐れる必要はありません。
 また、主イエスは、死んだ若者に「起きなさい」と命令されましたが、主は、将来、私たちにも同じように語ってくださいます。ヨハネの福音書5章28、29節で主イエスはこんなことを言われました。「このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出てくる時が来ます。善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえって裁きを受けるのです。」私たちは、誰もが一度死にます。しかし、この箇所のイエスの言葉によれば、主イエスを信じている者も、信じていない者も、どちらも、将来、イエスの声を聞いてよみがえるのです。クリスチャンは、イエスの声を聴いて目をさますと、永遠のいのちの世界に入れられて、主イエスと同じ家族の一員として永遠に生きる者にされます。しかし、イエスを信じないで死んだ人は、イエスの声を聴いて同じように目を覚ましますが、その時に見るイエスは、裁き主としてのイエスです。この世界で、どのような知恵を持ち、富を持ち、権力を持ったとしても、死に直面するときに、すべては失われてしまいます。しかし、キリストの権威と力は死を超えて永遠に続いていきます。私たちは、この厳粛な事実をしっかりととらえて、日々の生活を過ごしたいと思います。

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