2016年8月28日 『洗礼者ヨハネとは』(ルカ7章18-35節) | 説教      

2016年8月28日 『洗礼者ヨハネとは』(ルカ7章18-35節)

(1)バプテスマのヨハネの苦しみ 
 先週は、主イエスがナインという小さな村で名前も分からない一人の女性の一人息子が死んだ時に、その女性のために一人息子を死から生き返らせて、その女性に返したという出来事を読みました。2000年前の人々にとっても、死んだ人が生き返ることは信じられないことでしたので、イエスの噂はさらに大きく広がって行きました。主イエスのために道を備えるという大切な任務を与えられた旧約聖書時代最後の預言者バプテスマのヨハネの耳にも、イエスの噂が届きました。このころ、バプテスマのヨハネ(洗礼者ヨハネ)は何をしていたのでしょうか。彼は、そのころ、牢屋に入れられていました。なぜ、彼が牢屋に入れられたのか、それはマタイの福音書14章を読むと分かります。バプテスマのヨハネは、当時ガリラヤ地方の支配者であったヘロデ・アンテパスという人物が行っていた悪を強く非難しました。ヘロデ・アンテパスは、自分の兄弟のピリポの妻ヘロデヤと不倫をし、最後には彼女と結婚していたからでした。ヘロデ・アンテパスは彼を殺したかったのですが、バプテスマのヨハネは人々から預言者だと認められていたので、殺すことができず、牢屋に閉じ込めました。ユダヤ人の歴史家でヨセフスという人がいるのですが、彼によると、バプテスマのヨハネは、死海の東にあったマケルスという名前の城に閉じ込められていました。このヨハネにも大勢の弟子がいましたが、多くの者はイエスの弟子になりました。しかし、忠実にヨハネに仕える弟子たちもいて、彼らはマケルスの城でヨハネに仕えることが許されていました。バプテスマのヨハネは、これらの弟子たちを通して、主イエスがどんなことをしているのか、どんなことを教えているのか、報告を受けていました。牢屋に閉じ込められて毎日を過ごすことは肉体的にも精神的にも非常に厳しいものであったと思います。
 バプテスマのハネは、もともと、荒野を自由に動き回っていましたので、城の中の牢屋に閉じ込められている生活は、精神的にも肉体的にも大きな苦痛であった思います。ヨハネは、主イエスがこの世に来られる為の道を準備するという働きをしました。主イエスこそ、旧約聖書が預言していたメシヤであることを確信していました。主イエスご自身も、自分が救い主であることは旧約聖書のイザヤ書に預言されていることを人々に知らせるために、ある日、会堂に入られた時に、イザヤ書の61章を開いて朗読されました。そして、「きょう、聖書のこのみ言葉が実現しました。」と言われました。イザヤ書61章には、「救い主は、捕われ人には赦しを与え、しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を知らせる。」と書かれています。イエスを救い主と確信していたバプテスマのヨハネは、自分が牢屋に入れられた時から、いつか、主イエスが自分を助け出してくださると思っていたのではないでしょうか。しかし、主イエスがそのような働きをする様子がないのを知って、バプテスマのヨハネの心の中にイエスに対する疑いを感じ始めていたのかも知れません。ヨハネは弟子の中から二人を呼んで言いました。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも私たちはほかの方を待つべきでしょうか。」聖書に出てくる偉大な人物、モーセ、預言者エリヤ、エレミヤなども、神のために働いているのに激しい反対を受けた時に、心がくじけそうになっています。民数記11章14,15節では、モーセは神に向かって「私だけでは、この民全体を負うことはできません。私には重すぎます。私にこんなしうちをなさるのなら、お願いです。どうか私を殺してください。これ以上、私を苦しみに会わせないでください。」と叫んでいます。
 バプテスマのヨハネもモーセも、神様の御心が分からなくなって、どうなっているのだろうかと疑いの気持ちが出てきたと思います。全知全能であり、すべてのものをお造りになった創造主なる神はあまりにもスケールが大きい方なので、私たちは、神や神の御心を完全に理解することができません。そのために、神様は何をしているのだろうか、神様はなぜそんなことをするのかが分からず、心が迷ってしまう時があります。でも、疑うことと不信仰はまったく違います。不信仰とは、自分の意志で、神様の言葉を受け入れようとしない、神様がしなさいということを拒否する頑なな心のことです。疑うことは、必ずしも悪いことではなく、むしろ、神様についてよく考えている証拠とも言えます。バプテスマのヨハネの場合も、主イエスを受け入れていないのではなく、牢屋に閉じ込められた苦しみの中で、救い主とはどういう方なのか、真剣に考えていたのです。

(2)主イエスの答えとバプテスマのヨハネの評価
 ふたりのヨハネの弟子はヨハネから言われたように、主イエスのところへ来てバプテスマのヨハネの質問を伝えました。すると、主イエスは、ふたりに難しい信仰の奥義について語るのではなく、自分がしていることをよく見るようにと二人に言いました。その時、主イエスは、病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人をいやしておられました。この時、主イエスが行っておられたことは、旧約聖書に書かれている救い主の預言そのものでした。そして、二人に、「あなたがたは行って、自分たちの見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい。盲人が見えるようになり、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者に福音が宣べ伝えられています。」と言われました。ヨハネの二人の弟子は、自分たちの目でイエスの力ある働きを見ましたし、また、イエスが行っていたことは、二人もよく知っているイザヤ書の中に書かれた救い主の預言の言葉と完全に一致していることを確認しました。イザヤ書の35章5-6節には、「そのとき、盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。そのとき、足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。」と書かれています。
 ヨハネの二人の弟子たちが立ち去った後、主イエスは、群衆に向かってバプテスマのヨハネについて話し始めました。「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。でなかったら、何を見に行ったのですか。柔らかい着物を着た人ですか。きらびやかな着物を着て、ぜいたくに暮らしている人たちなら宮殿にいます。でなかったら、何を見に行ったのですか。預言者ですか。そのとおり。だが、わたしが言いましょう。預言者よりもすぐれた者をです。」風に揺れる葦とは、周りの人の言葉に左右されて自分の信仰を貫くことができない人,流されるままに気楽に生きている人を表わしています。バプテスマのヨハネは決して妥協する人ではありませんでした。だからこそ、彼は支配者のヘロデ・アンテパスにまで「悪いことは悪い」と言ったために牢屋に入れられていたのです。柔らかい着物を人、きらびやかな着物を着てぜいたくに暮している人、これもヨハネの生き方とは正反対です。彼は預言者にふさわしい服として、らくだの毛皮を着て腰に皮の帯を締めていました。そして、いなごと野密を食べ物としていました。彼は宮殿には住まず、いつも荒野で生活をしていました。彼は、預言者としてふさわしい生活をしていました。しかし、主イエスはバプテスマのヨハネを預言者よりもすぐれた者と呼んでおられます。それは、ヨハネが、救い主イエスがこの世に来る直前に、その準備をするために選ばれた特別な預言者だったからです。マラキ書3章1節に「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。」と書かれています。バプテスマのヨハネの母親はエリサベツと言いますが、父親はザカリヤという名前の祭司でした。二人の間には子どもができず、ふたりとも年を取っていましたが、ある時、神殿でお勤めをしていたザカリヤにみつかいガブリエルが現れて、「あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。」と告げられました。その時に、ガブリエルは「彼は主の前にすぐれた者となります。」と言われました。
ですから、イエスは、「バプテスマのヨハネは女から生まれた者の中でもっともすぐれた人だと宣言しています。
 しかし、主イエスは、それに続いてびっくりするようなことを言われました。「しかし、神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれています。」女から生まれた者の中でもっともすぐれていると言われたバプテスマのヨハネですが、彼と比べて、神の国で一番小さい者がどうしてヨハネよりもすぐれているのでしょうか。今の時代のクリスチャンである私たちもバプテスマのヨハネよりもすぐれていると言われています。それは、私たちの人格がヨハネよりもすぐれているとか、私たちの働きがヨハネの働きよりもすぐれているという意味ではありません。バプテスマのヨハネと私たちは、キリストとの関係において立場が違うのです。バプテスマのヨハネはキリスト前の時代に属しています。ヨハネは十字架で示された神の愛を知りませんでした。しかし、私たちは、キリストの十字架と復活を知っています。主イエスを信じることによって、神のこどもとされ、永遠のいのちが与えられています。私たちは、どんなに小さな信仰者であっても、旧約時代の偉大な預言者たちよりも神について知らされており、神の愛がそそがれていることは何と素晴らしいことでしょう。私たちに対する神の御心はすべて十字架に表わされています。私たちの罪が赦され、神の子どもとして受け入れられ、永遠のいのちが与えられていることは、この世の何にも変えられない、それほど素晴らしい特権であることを私たちはいつもはっきりと覚えておかなければなりません。

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