2016年9月11日 『多く赦された者は多く愛する』(ルカ7章36~50節) | 説教      

2016年9月11日 『多く赦された者は多く愛する』(ルカ7章36~50節)

 今日の箇所の出来事はルカだけが記しているものです。これと似た出来事がマタイ、マルコ、ヨハネ福音書に記されていますが、その出来事は、イエスが十字架にかかる直前のことなので、今日のルカの箇所の出来事とは別のものです。ルカの福音書7章に記されたこの出来事では、二人の人間が比較されています。一人はパリサイ人シモン、もう一人は罪深い女です。一人はイエスに対して冷たい態度を示し、もう一人は、イエスに対して愛と感謝の心を表しています。私たちは、どちらの生き方を望むでしょうか。

 今日の出来事は、パリサイ人シモンがイエスを招いて食事会を開きたいと思ったことから始まりました。シモンは、自分たちはユダヤ教徒のエリートで聖書のことは何でも知っている、大切な戒めはみな守っていると思い込んでいました。そのため、非常に傲慢で、他の人をいつも自分よりも低く見て、さばいていました。主イエスは彼らの心の中を見抜いておられたので、いつもパリサイ人たちを厳しく批判していました。そんなパリサイ人がわざわざイエスを食事に招いたのですから、何か、彼には魂胆があったのだと思われます。イエスがパリサイ人シモンの家に入って食卓に着かれたので、食事会が始まりました。すると、ひとりの女性がそのことを知って、香油の入ったツボを持ってきて、泣きながらイエスの後ろに立ちました。どうして、この女性が食事会の場所に入ることができたのかと、私たちは思いますが、当時のイスラエルのお金持ちの家には、中庭があり、そこには噴水や花壇が作られていました。気候の良い春や秋には、よく人々は中庭で食事をしました。また、ユダヤ教には、ラビと呼ばれる教師がいましたが、ラビはよく人々から食事会に招かれました。ユダヤ教徒たちは、食事をしながらラビの話を聞くことが好きだったようです。そのような場合、招待客以外の人々も中庭に入って中庭を取り囲む建物の壁の前に立ってラビの話を聞くことが許されていました。そのような訳で、この女性もパリサイ人の家の中庭に入ることができたのです。この女性について37節には、「その町にひとりの罪深い女がいて」と書かれていますが、ギリシャ語をもう少し正確に訳すと、「その町に、以前罪深い生活をしていた女がいて」となります。つまり、この女性は、以前は罪深い生活をしていましたが、主イエスと出会って新しい人生を始めていたと思われます。しかし、街の人々は女性のそのような変化については知りませんから、以前の罪深い生活を覚えていたので、パリサイ人も、彼女を罪深い女と呼んでいます。彼女は、イエスが近所のパリサイ人の家に来ておられることを聞いて、どうしてもイエスに会いたかったのだと思います。しかし、パリサイ人の家に行くには勇気が要ります。彼らは罪人たちとは決して交わろうとしなかったからです。彼らは、罪びとたちに触れると、自分が汚れると考えていました。しかしこの女性は、主イエスに会いたい一心で、パリサイ人の家へ出かけて行きました。私たちは、彼女と比べると、あまりにも周囲の人々の目を気にしすぎではないでしょうか。こんなことをすればどう思われるだろうか。と考えているとなかなか行動に移せません。もちろん、私たちは周囲の人々の心がわかる人間、空気が読める人間でなければなりませんが、それ以上に必要なことは主イエスを見つめることです。彼女のようにただ主イエスだけを見ていれば、もっと自由な生き方ができるはずです。

 彼女が主イエスの後ろに立つと、自分を受け入れ自分の罪を赦してくださった主イエスへの愛と感謝の心があふれて目から涙がこぼれてきました。彼女の涙が主イエスの足を濡しました。当時、人々が食事をするとき、椅子に座って食べるのではありませんでした。彼らは低いテーブルを囲んで、片肘で体を支えて足を外側に伸ばして、寝そべったような姿勢で食べていました。彼らは食事をするとき、サンダルを脱いで、左ひじで体を支えながら、足を後ろに伸ばしていました。ですから、この女性はイエスの足の近くに来ることができました。彼女が涙があふれてきましたが、そのとき、主イエスの足が埃で汚れているのが分かったのでしょう。彼女は主の足をきれいにしてあげたいと思いました。しかし、彼女はイエスの足を拭くためのタオルを持っていませんでした。それで、彼女は仕方なく、髪をほどいて、自分の髪の毛でイエスの足を拭き、持ってきた香油を足に塗りました。当時の女性は髪の毛が長く、それをアップにしていましたが、人前で髪の毛をほどくことは許されないことでした。人々はこの女性のしたことを見てひどく驚いたことでしょう。しかし、主イエスは、何も言わず、ただ食事を続けておられました。

 その様子を、パリサイ人シモンが見ていました。そして心の中で思いました。「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女が誰で、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」彼は、女が自分の家に入って来るのを見て、非常に不快な思いがしたはずです。彼女は、以前は、街でも有名な罪人だったからです。普段なら家から追い出すのですが、この時は、客を招いていることもあり、また、イエスがこの女にどのような反応を示すのか興味があったのか、彼女を追い出すことをしませんでした。彼は、この女性を助けようという思いは全然ありませんでした。この女性は、おそらく、売春をしていたのだと思いますが、そのような生活に落ちてしまったのには何か理由があるはずです。しかし、パリサイ人はそんなことに興味はなく、彼女を正しい生活に導こうという思いもなく、ただイエスの反応だけに関心を持っていました。
 その時、イエスがシモンに話しかけました。「シモン。あなたに言いたいことがあります。」すると彼が、「先生。お話しください。」と言ったので、イエスは続けて話しました。「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」シモンが「多くを赦してもらったほうです。」と答えたので、イエスは彼にあなたの答えは正しいと言われました。そして、ここから、イエスはパリサイ人シモンに大切なことを教えられたのです。
 イエスは、パリサイ人シモンを見て話されました。イエスは、今話した例え話の原則をシモンとイエスの足に香油を塗った女性に当てはめて、二人を比較しています。パリサイ人シモンは、自分は正しい人間だと思い込み、女性の行いを冷ややかな目で見ていましたが、イエスの判断はまったく反対でした。イエスがシモンに行った言葉を見てみましょう。44節から46節に書かれています。「この女を見ましたか。わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしがはいって来たときから足に口づけしてやめませんでした。あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。」
 イエスの時代、イスラエルの人々は客をもてなすことをとても大切にしていました。招いた客が来ると、主人はその客の肩を抱いてあいさつのキスをします。このキスは相手に対する尊敬を示すもので、特に、ユダヤ教の教師ラビを家に迎える場合は、このキスは絶対に欠かせないものでした。そして、玄関には、いつも冷たい水が用意されていました。客は埃っぽい道を歩いてやって来ます。そして、人々はサンダルを履いているため、客の足はいつもほこりまみれになっていたのです。そのため、足をきれいにするための水が用意されていました。その後で、良い香りがする線香がたかれたり、客の頭にバラやオリーブのオイルをたらすことが行われました。イエスは人々からユダヤ教の教師だと考えられていましたし、シモンはイエスを預言者かもしれないと考えていました。ですから、シモンはイエスにそのようなもてなしをしなければならかったのですが、彼は、何一つしていませんでした。彼のイエスい対するもてなしが最低であったことが分かります。一方、この女性は、イエスを招いた主人ではありませんでしたが、イエスの足にキスをし、イエスの足を自分の涙できれいにし、そして、イエスの足に高価な香油を注ぎました。パリサイ人シモンがしなかったことを全部行いました。なぜ、このような違いが生まれたのでしょうか。この女性は、かつては罪深い生活をしていましたが、主イエスと出会って、罪を悔い改め、罪の赦しを受けて新しい生活を始めていました。彼女の心は、自分に新しい人生を与えてくれたイエスに対する感謝の心がいっぱいで、自分から主イエスのために何かをしたいという思いで行動していました。彼女は、以前の自分の生活が本当に罪深いものだったと分かっていただけに、イエスに対する愛と感謝も大きかったのです。一方、パリサイ人シモンは、自分の罪がわからず、罪のゆるしを求めたこともありません。自分を正しい人間だと思い込み、周りのすべての人間を自分の基準でさばいていました。彼は、この女性を罪深い人間だとみなしていました。しかし、主イエスは、この女性の愛の深さ、感謝の心の大きさを見ていましたし、シモンは少しだけ赦された人と見ていました。パリサイ人シモンは、「少しだけ赦された人」でした。「少しだけ赦された人」とは、多くの罪を持っていながら、自分でそのように感じていない人を意味しています。そのためにイエスに対する感謝の心も愛の心も少ないのです。彼の人生は、自己満足と、他人の批判の人生でした。心の内側からあふれる感謝や喜びがなく、愛のない人生を生きたのです。周囲の人間からも、自己中心の人間、傲慢な人間だと嫌われたことでしょう。どちらの人生が幸せでしょうか。私たちも、イエスを信じる前の自分がどんなに罪深い人間であったか、本当に分かっているでしょうか。それが分からないと、信仰生活の喜びが薄れてしまいます。主イエスは、私のような人間のために自分からいのちを捨ててくださいました。私たちも、この女性のように、神を愛し、自分を愛するように隣人を愛し、死に至るまで、主イエスへの愛と忠誠を貫いて生きる者でありたいと思います。

 少し前に、NHKの歴史ヒストリアという番組で、「おたあジュリア」という一人のキリシタンが取り上げられました。彼女はもともと朝鮮の貴族の娘で、豊臣秀吉による戦争で両親を失い孤児になりました。彼女を見てかわいそうに思ったキリシタン大名の小西行長が自分の娘にして日本に連れ帰りました。彼女は小西行長夫婦に導かれクリスチャンになりジュリアという洗礼名をもらいました。その後、小西行長は関ケ原の戦いで敗れて処刑されます。再び孤児となったジュリアは、捕らえられて、敵の徳川家康のもとへ送られました。彼女の美しさと頭の良さにひかれた家康は彼女を自分の侍女として大奥に入れます。この頃も、ジュリアは時間を見つけては城を出て、貧しい人々への炊き出しをし、大奥では人々に福音を伝えていました。家康は彼女を愛して何度も自分の側室になるように求めましたが、ジュリアは断り続けました。1612年にキリスト教禁止令が出ます。ジュリアは軟禁され、なんども信仰を捨てるように説得されましたが、信仰を捨てなかったので、彼女は伊豆諸島の神津島に流されました。遠くの島ではなかったのは、家康がいつか彼女が改心して戻ってきてほしいという気持ちがあったからだと言われます。彼女は神津島でも島の人々のために献身的に働き、多くの人が信仰に導かれました。今、毎年5月第3日曜日に、神津島で、彼女を記念して、ジュリア祭というお祭りが行われています。彼女の人生は、時代の運命に流されました。しかし、彼女はイエス・キリストを信じる信仰に導かれ、その信仰を死ぬまで貫きました。それは、自分の罪を赦してくれた主イエスに対する感謝と愛によるものでした。私たちも、彼女の生き方を見習いたいと思います。

2016年9月
« 8月   10月 »
 123
45678910
11121314151617
18192021222324
252627282930  

CATEGORIES

  • 礼拝説教