2016年10月2日 『あなたは愛されています』(ヨハネ3章16節) | 説教      

2016年10月2日 『あなたは愛されています』(ヨハネ3章16節)

 今日の聖書箇所は、今年の私たちの教会の聖句である。ヨハネの福音書3章16節です。この節は、聖書の中で最も有名な言葉と言われます。それは、この1つの節の中に、福音と呼ばれる神様から人間に向けて語られたメッセージのエッセンスが含まれているからです。言い換えると、この1節を理解し、それを信じるなら、誰でもクリスチャンになるのです。アメリカの若い人向けの衣料品店に「フォーエバー21」というのがありますが、この会社の社長がどうもクリスチャンのようなのです。というのは、買い物をしたものをいれる黄色い袋の底に英語で、John
3:16と印刷されているからです。これは、ヨハネの福音書3章16節という意味です。きっと、その会社の社長は人々に、この1節を読んでほしいという思いがあったのでしょう。で、この言葉が記されたきっかけは、ある日、ニコデモという名前の年配者が主イエスのところに質問をしに来たことにあります。3章1節に「さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。」と書かれています。この人はパリサイ人でした。新約聖書では、パリサイ人と言うと、いつもイエスから厳しく批判されていた腹黒い悪人というイメージが強いですが、当時のユダヤ人社会では、信仰深い人で旧約聖書の教えを実践している立派な人と見なされていました。しかも彼はその指導者であったと書かれています。これは、彼が当時のユダヤの国会議員であったことを示しています。当時、ユダヤでは政治と宗教が結びついていたので、国会議員はユダヤ教の指導者たちから選ばれていました。また、ニコデモという名前はギリシャ語の名前です。当時、世界の公用語はギリシャ語でした。裕福な人はギリシャの教育を受けることが多く、それらの人々は、自分の子どもにヘブル語の名前の他にギリシャ語の名前を付けていました。ニコは支配者、デモは人々という意味なので、彼の名前は「人々の支配者」という意味でした。ですから、彼は、当時の社会では、エリート中のエリート、地位も高く、裕福で、有名人でした。普通、人は、そのようなステータスになると、他の人にアドバイスを求めようとしません。しかし、彼は本当に謙遜な人だったと思います。年の若い、しかも、多くの人が「あれは一体誰なんだ」と思っていた正体不明のイエスのところに質問に来ているからです。私たちは、いくつになっても、どんなに出世しても、やはり、答えを求める姿勢、人の言葉を聞く姿勢を持つことは必要だと思います。2節には、「この人が、夜イエスのもとに来た」と書かれていますので、やはり、彼は他の人の目を気にして、誰にも知られないようにイエスのところに来たのでしょう。そして、3節から15節まで、二人のやりとりが記されています。ニコデモが知りたかったことは、「人はどうすれば永遠のいのちを持つことができるか」ということでした。イエスとニコデモの間でちょっと歯車が合わないやりとりが記されています。そして、16節は、ニコデモが知りたかったことの答えとして書かれているのです。

 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

 今日は、この言葉を細かく区切って学びたいと思います。まず、第一に、この言葉は、原語のギリシャ語では、「神は実に愛された」という言葉から始まっています。「実に」と訳されている言葉が文章の最初に来ていますので、この言葉には強い意味が込められていることが分かります。聖書の第一のメッセージは、「神様はあなたを愛していますよ。」というメッセージです。神様に愛されるなんてどういくことなんだと困惑する人もいるでしょう。それは、私たちが普通「愛」という言葉を聞くと、よくある男女の愛、それも何かドロドロした愛を連想しますし、ニュースでも不倫したとか性的虐待があったとか、そんな話ばっかりで、「愛」というもの自体の価値が低くなっているからです。神の愛は、そのような愛とはまったく異なるものです。ギリシャ語は非常に語彙が豊富な言語で、愛についてもいろいろな言葉があります。自然な男女間の相手に抱く愛はエロスと言います。べつに悪い意味はなく、人間が自然に感じる感情としての愛です。一つの理想や目標でつながる兄弟愛や、同志愛にはフィリアという言葉が使われます。親子や家族の間にある愛はストルゲーという言葉があります。しかし、新約聖書は、神様が人間に対して示された愛があまりにも人間の愛とは次元が違うので、これらの言葉を使わずに、特別な言葉を使いました。それがアガペーという言葉です。これは何があっても変わらない不動の愛、無条件の愛を意味します。もし、人がアガペーの愛で愛するとするなら、相手が自分に対して何をしようと、どんなにひどい扱いをしようと、どれほど相手から侮辱されようと、傷つけられようと、相手に対して憎しみを持つことを拒否して、相手のために最善を尽くすことを決意する心を持つことを意味します。この愛は、気持ちではなく、決意なのです。聖書は、神様が私たち人間にそのような愛を持っておられることを教えています。聖書では、一人一人の人間は、神によって創られた存在なので、神の目には一人一人が非常に価値のある人間だと教えています。神様が私たちを愛しておられる、これが聖書の第一のメッセージです。

 しかも、その神様の絶対的な愛は「実に」という言葉で表されているのですが、神様のアガペーの愛の具体例が「ひとり子をお与えになったほどに」という言葉で説明されています。神様の愛は、ただ感情にとどまるのではなく、具体的な行動になって現れました。「ひとり子をお与えになった」とはどんなことを意味するのでしょうか。「ひとり子」とはイエス・キリストのことですが、「ひとり子」と訳されている言葉は、ギリシャ語の「モノゲネース」という言葉です。これは、「独特な」という意味を持っていて、神ご自身をあらわす言葉です。イエス・キリストとは、神ご自身が、神としての栄光や自由を犠牲にして、私たちと同じ小さな一人の人間の姿を取ってくださった方なのです。ここで、ちょっと難しい話になりますが、聖書の神はただ一人だけの神です。ただ、同時に、父なる神、子なる神、そして聖霊という3つの姿を持っています。これを三位一体と言います。「なんでそんなにややこしいの?」と思われるかもしれません。その理由は「神が愛の神」だからです。愛というものが存在するためには、愛する者、愛される者、愛という気持ちが必要です。私は、ずっと昔、ある先生から、三位一体の説明として、父なる神は愛する者であり、御子イエスは愛される者、そして聖霊は愛そのものだと教えられました。なかなか良い説明だと思いました。神様が愛しておられると言われても、私たちにはどんな愛かよくわかりません。しかし、私たちは、父親が子供を愛する気持ちは理解できます。私が思うに、人間が神の愛を理解できるように、神様は、父と子と聖霊という姿で存在しておられるのだと思います。今は時代が変わってしまいましたが、普通、親にとって子供は最も大切な存在です。親にとって自分より子供が先に死ぬことほど悲しいことはないと言います。私には、一つ年上の兄がいるのですが、実は、その兄の4つ上に、長男芳郎というのがいました。ところが芳郎は5歳で骨肉腫を患って短い生涯を終えました。とても頭のいい子で、母の話では、芳郎が死んだ途端に、私の父の髪の毛は真っ白になったそうです。子供のころ私はそんなこと知らなかったので、父の若白髪がすごく嫌でした。小学校の時に父親参観日に私の父が来ると、みんな「あれおじいちゃん?」と聞くので、すごく恥ずかしかったことを覚えています。今思うと、父には悪いことをしたと思います。それほどに子供が死ぬことは親にとってつらいのですが、神様の私たちに対する愛は、自分の子どもさえも犠牲にすることを惜しまない、それほどの愛なのです。

 神様は誰を愛されたのでしょうか。16節には「世を愛された」と書かれています。「世」とはこの世にすむ人々、私たち一人ひとりを指しています。ヨハネの福音書の中では、「世」という言葉は、良い意味では使われていません。神様の目には、この世の人々は自己中心で、神をおそれることがない人々だと見られています。これを罪と言います。罪とは、盗むとか人を殺すとか、具体的な行いを意味するのではなく、人間の心の基本姿勢を指します。それは、自分が第一、自分自身を神として生きようとする心です。すべての人にこの心があるので、人間関係でぶつかり、それが大きくなると国と国との戦争になります。この世に平和がないのは、いろいろな原因がありますが、その根本を突き詰めると、自己中心という人間の罪にあるのです。ですから、神様の目には、私たちには愛すべきところは何もないのです。私たちの周りには、いろいろな人がいます。心優しくて一緒にいることが楽しい人もいますが、気難しく自己中心で一緒にいると嫌な気分になる人もいます。自分が嫌うことをしゃべったり行ったりする人と一緒にいることは耐え難いことです。実は、私たちは、皆、神様の目には、愛すべきところが何一つない人間なのです。しかし、そのような世の人々を神様は、自分にとって一番大切なものを犠牲にするほどの愛で愛しておられるのです。神様は、なぜ、それほどに私たちを愛されるのでしょうか。それは、私たちを救いたいと願っておられるからです。

 主イエスは、救い主と呼ばれますが、私たちを何から救うのでしょうか。16節の後半に、「それは、御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」と書かれています。第一に、神様が私たちを愛されたのは、私たちが滅びないためです。滅びるとは、なくなってしまうという意味ではありません。この言葉には「裁く」という意味があります。滅びないとは、神の裁きを受けないという意味です。人は一度死ぬことと、死んだ後に、神の裁きを受けることが決まっていると聖書に書かれています。神様は愛の神であるのに、なぜ、人を裁くのかと疑問に思う方もおられるでしょう。神様は、愛の神であると同時に、聖なる神でもあります。つまり100%正しい方であり、100%の正しさを要求する神でもあるのです。このように神は正しい方であるから、この世界の秩序が保たれているのです。愛の神だからと言って、人がルール違反しても気にしないで、すべて目をつぶっていたら、この世界は混乱してしまいます。
愛と正しさの二つがそろわなければなりません。最近、高畑淳子さんの息子が逮捕されましたが、その原因の一つが親の溺愛だったと言われています。溺愛は人を正しく育てることができません。神は愛の神ですが、同時に聖なる神です。このバランスが必要なのです。神様の愛は、私たちが罪の裁きから免れるためです。また、罪の重荷からも救います。私たちは、罪の性質を持っているために、人を愛せない時があります。人を赦せない時があります。そのような時は、私たちの心に大きなストレスがかかります。自分が嫌いな人を見るだけで、血圧が上がったり、楽しい気分が吹き飛んでしまいます。でも、人は自分の心を自分の努力ではコントロールできません。人の罪は人の心から多くのエネルギーを奪います。体のエネルギーは、動くのをやめれば、奪われることはありませんが、心のエネルギーはいつまでも奪われてしまいます。罪を持ったままで生きることは精神的にダメージが大きいのです。人は自分の心を変えることはできませんが、神様から愛されていることを知ることによって、神様の愛が私たちの心を覆って、不思議に、私たちの心を変える力があるのです。人間の心は修行や努力では変えられないのですが、誰かの大きな愛を受けることによって変えられます。人は罪を持ったままでは、すごく不自由です。また、周囲の人間や出来事に支配されて生きていかなくてはなりません。そこから救い出すために、神様は私たちを愛されました。この約束は一部の人に与えられているのではありません。「イエスキリストを信じる人は一人も例外なく、救われます。人間社会には不平等な面がたくさんありますが、神様によって救われるという点においてはまったく平等です。新約聖書の中に、キリストの前には、ユダヤ人もギリシャ人もなく、男も女もなく、奴隷も自由人もなく、みな一つである。」という言葉があります。当時の社会では、外国人、女性、奴隷は、ひどい差別を受けて、苦しい生活を強いられていました。しかし、キリストの前には、人間社会の区別や差別は存在しません。どんなに高い地位についている人でも、イエス・キリストを信じなければ、罪の裁きと罪の力から解放されることはありません。今年の夏イギリスに行く機会があったのですが、最近、エリザベス女王が本を出されて、タイトルは忘れましたが、女王が神を信じる信仰について書いています。エリザベス女王でも、女王だから救われることはなく、個人的にキリストを信じる信仰を持っているから救われるのです。

 そして、イエスキリストを信じる者には、罪の裁きと罪の重荷から救われるだけでなくもう一つの約束があります。それは永遠のいのちを持つことです。これは、いつまでも死なないで寿命が続くいのちという意味ではありません。今の時代を生きるとき、もし私たちが死ねなかったらかえってつらいのではないでしょうか。それほど、自然も、社会も、人間関係も、つらいことが多いからです。永遠のいのちとは、これまでのひとりで生きてきたいのちとはまったく異なる、永遠に神様の守りと祝福の中で生きる人生のいのちを意味します。今、この瞬間も、神様は肉眼では見えませんが、確かに、私たちとともにおられます。聖書の神が素晴らしいのは、この世界のすべてのものを創りだしたほどに無限の力を持つ偉大な神であるのに、私という一人の人間と関係を持ってくださるという二面性です。神様に愛され神様に守られていることを知って生きる人生は、不必要な心配から私たちを解放し、いつも、不思議な平安を与えます。主イエスは言われました。「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎがきます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」主イエスが招いておられます。私といっしょにこの人生を歩んでいこう。そうすればあなたの重荷は軽くなり、心に平安が来ると約束しておられます。人生のゴール地点は二つしかありません。永遠のいのちか永遠の滅びです。あなたはどちらに向かって歩んでおられるでしょうか。

 第二次大戦後すぐに、アメリカからデシェイザーという名前の宣教師が日本に来ました。彼は、もと日本軍の捕虜でした。彼は日本軍が真珠湾を攻撃したことを知った時から日本が憎くて、自ら志願して東京の爆撃隊の加わりました。爆撃後、燃料切れで中国に不時着して、日本軍につかまり、4年近く日本軍の捕虜として苦しい日々を過ごしました。やがて仲間の一人が栄養失調で死にました。彼の日本人に対する憎しみは一層強まりました。しかし同時に、なぜ人はこんなに憎しみを持つのかと独房の中で思いめぐらすようになります。なぜ日本人はアメリカを憎むのか、なぜ自分は日本人を憎んでいるのか。すると、子供のころクリスチャンの親から教えられていたことを思い出しました。イエス・キリストが人の憎しみを愛に変えるのだということを。彼は、急に、聖書が読みたくなり、看守に頼みましたが、日本の捕虜収容所に聖書などなく、聖書は与えられませんでした。彼は、それ以来、看守の顔を見るたびに「聖書をくれ」と言い続けました。すると、何か月かしてようやく、看守のひとりが聖書を差し入れてくれました。彼は、むさぼるように聖書を読み続けました。聖書の多くの言葉が彼の心をとらえました。特に、主イエスが十字架にかけられて最初に語った「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは自分で何をしているのかわからないのです。」という言葉に心打たれ、自分が赦されることを願い、イエス・キリストを信じました。その日から彼はすっかり変わりました。以前は、つねに反抗的、暴力的であった彼が、相変わらず、鞭うたれ、貧しい食事に苦しんでいましたが、以前と違って、新しい目で日本の看守たちを見ていました。不思議に彼らへの憎しみが消え、不思議な慈愛の心が生まれていました。看守たちにも彼の変化は明らかでした。そして、彼は神様に祈っていました。「この戦争が終わったとき、もし私が生きていたら、もう一度日本に送ってください。日本の人々にイエス・キリストの愛を伝えたいのです。」彼は戦後、収容所から救出され、アメリカに戻ると、除隊して、神学校に学び、卒業するとすぐに宣教師として日本に来ました。そして、彼は「私は日本の捕虜だった」という小冊子を人々に配って、宣教師の働きを始めたのです。彼も、主イエスの愛を知り、その愛によって心が変えられた一人です。

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