2016年10 月9日 『良い心は良い土地である』(ルカ8:4-15) | 説教      

2016年10 月9日 『良い心は良い土地である』(ルカ8:4-15)

ルカの福音書8章1節に「その後、イエスは、神の国を説き、その福音を宣べ伝えながら、町や村を次から次に旅をしておられた。十二弟子もお供をした。」と書かれています。主イエスはユダヤの北、ガリラヤ地方の町や村を回って、多くの人々に説教を語り、またいろいろな奇跡の働きをしました。そのために、イエスの評判はユダヤの国中に広がって行きました。それで、4節に書かれているように、大勢の人の群れがイエスの周りに集まり、方々の町からも人々がやって来ました。その大勢の人の中には、いろいろな人がいました。真剣にイエスの教えを聞き、イエスの弟子として生きようと考えていた人もいましたが、同時に、イエスの教えがどんなものか興味を持っているだけの人、イエスの奇跡の働きを見たいと思っていた人、あるいは、イエスの教えや働きを妨害しようと考えていた人たちもいました。イエスの周りには大勢の群衆がいましたが、イエスは彼らの心を見抜いておられたので、彼らを皆信頼することはできないことも知っておられました。それで、主イエスは、彼らに向かって「例え」を用いて説教をされました。そのたとえ話のテーマは「神の言葉をどのように聞くのか」というものでした。
 聞くことは「耳」で行いますが、人間の耳はとてもよく出来ています。人間の耳は小さな音には敏感に反応し、大きな音には鈍くなるそうです。一番小さな音は蚊が鳴く声で、一番大きな音は大砲が打たれる時の音だそうで、それ以上の音がなると耳の鼓膜が破れてしまいます。ところが、人間の耳は小さな音に敏感で、大きな音には鈍いので、もし蚊の鳴く声の10倍の音がなった場合、人間の耳は2倍程度の音として聞くのです。そういう訳で、蚊が鳴く声と、1メートルの距離で撃たれた大砲の音は、機械で測ると10兆倍になるのだそうです。また、人間の耳は自分の聞きたい音だけを聞くことができます。誰かと話しをしている時に、別の人が小さな声で自分の悪口を言った場合、人間の耳は話し相手の声ではなく、後ろで悪口を言っている人のひそひそ話しをキャッチできるのです。補聴器には、そんな機能はありません。私は、以前、補聴器を付けている人と賑やかな喫茶店に行ったことがあります。店内は満席で皆、大声で話していました。補聴器はすべての音を同じレベルで拾うので、その人は私と話しをすることができませんでした。人間の耳は、人の心と連動して働くのですから、本当に素晴らしいと思います。そのため、逆に相手の話を聞いているようで聞いていないこともあります。私は、妻から、「あなた、ちゃんと聞いているの?」と尋ねられることがあります。相手は一所懸命に話しているのですが、自分は上の空だと、相手が何かを話していることはぼんやり覚えていても、何を話したのかまったく覚えていません。ところで、私たちは神の言葉をどのように聞いているのでしょうか。

 今日のたとえ話は、よく「種まきのたとえ」と呼ばれます。主イエスの時代の種まきは、フランスの画家ミレーが描いた「種を蒔く人」の絵のように、肩からさげた袋に種をいっぱい入れて、畑を歩きながら、手で種をまき散らすという方法で、行われていました。そのため、風が強く吹いていると、種はいろいろな場所に落ちました。このたとえ話には4つの土地について語られています。1)道ばた、2)岩がごろごろした土地、3)いばらが茂っている土地、そして4)良く耕された土地、です。ですから、イエスの話しは正しく言えば、「種が蒔かれた土地のたとえ話」なのです。イエスの周りに集まっていた人々の多くは農夫たちでしたから、イエスの話すたとえ話の、表面的な意味はよく分かったことでしょう。道ばたに落ちた種は、根を伸すことができません。道ばたの地面は多くの人に踏まれて固くなっているからです。すると、道ばたにころがったままの種は人に踏まれ、鳥に食べられてしまいます。2番目の岩がごろごろした土地はどうでしょう。イスラエルには地面のすぐ下に固い岩の層があって表面に薄い10センチくらいの砂の層があるだけという場所が数多くありました。そこに種が落ちると、砂の層が薄いので日が当たるとすぐに暖まり、種も暖かくなります。それで、種からすぐに根が出てくるのですが、すぐに固い岩の層にぶつかってそれ以上伸びることができません。しかも、太陽が照り続けると、砂の中の水分がなくなり、種は死んでしまいます。3番目は茨が茂った土地です。そこには茨だけでなく雑草も茂っています。そのような土地に落ちた種から、根が出て芽が生えたとしても、周囲の茨や雑草も一斉に芽を出すので、その種は周りの木や草に圧倒されて、弱くなり、種から出る芽も弱々しく十分に成長ができません。最後は、良く耕された土地です。そこに落ちた種は、十分な水分と栄養をもらって、根を出し芽を出して、最終的に、一粒の種から、何十倍もの多くの実を結びます。種まきが蒔く種は同じ種ですが、種が落ちた場所によって、結果が大きく異なります。このイエスの話は、人々に何を伝えようとするものだったのでしょうか。また、私たちには何を教えているのでしょうか。

 主イエスは11節から15節で、たとえ話の意味を弟子たちに説明しておられます。イエスは、蒔かれた種は「神の言葉」だと言われました。種は、本当に不思議です。種の中にあるのは根の元になるものと芽のもとになる白い物体が入っています。それが、土の中に蒔かれると外の殻がが割れて根と芽が伸び、芽は白かったのに緑色になり、さらには、大きくなると色美しい花が咲き、実がなります。あんな小さな種がなぜ美しい花になるのか不思議です。神様が創られたものは不思議に美しいです。その種のように、「神の言葉」も良い土地に蒔かれると大きな働きをします。聖書の中には、神様の素晴らしいことばが詰まっています。私たちの心を癒やす言葉、励ます言葉、私たちの間違いを教える言葉、私たちに希望を与える言葉、これらの言葉は、良い状態の心に入ると、私たちの思いを遙かに超える働きをするのです。昔、ロシアの舞台俳優で、芝居をしている時にイエスを信じた人がいました。ロストフチェフという役者ですが、彼は「タキシードを着たイエス」という芝居でイエスの役を演じていました。劇中、彼はマタイの福音書5章の最初の二つの節を読んだ後に、ガウンを脱いで「俺に、タキシードをくれ!」という台詞を言うことになっていました。ところが彼が「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」と読み始めた時に、彼の心に、このみ言葉が強く働きました。彼は、舞台の上で体を震わせて、つぎの台詞を言わずに、マタイの福音書5章を読み続けました。他の俳優たちがいろいろ合図をしても、彼は読み続けました。そして、昔、子どもの頃に教会で聞いた言葉を思い出して、叫びました。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」芝居は大失敗でしたが、彼は舞台の上でイエスを信じたのです。このように、み言葉は小さくても、大きな働きをする力があります。

 種が「神の言葉」であるとすれば、種を蒔く人は誰でしょうか。それは、私たちクリスチャンです。私たちは、神の言葉を他の人々に伝える使命を神様から委ねられています。他の人に神の言葉を語るためには、私たちは、自分がまず神の言葉を知らなければなりません。だから、私たちにとって、聖書を読むことがどうしても必要です。神の言葉は、地面に隠された宝石に例えられることがあります。福音、聖書の言葉は、私たちを永遠のいのちを与える言葉です。私たちにとって、永遠のいのち以上に大切なものがあるでしょうか。種まきが、種を袋の中に入れたままでは、何も起こりません。しかし、その種を蒔けば、何かが起こります。聖書の話しをしてもまったく聞く耳を持たない人もいます。しかし、もしかすると良く耕された心を持っている人もいるかも知れません。また、今は固い心でも、いつか柔らかくなるかも知れませんから、私たちは、あらゆる機会を用いて、み言葉の種を蒔き続けることが大切です。

 例え話で語られた4つの土地は、私たちに何を教えているのでしょうか。第一の土地は道ばたでした。道ばたに落ちた種は人に踏みつけられ、空の鳥がそれを食べてしまいました。この土地は、神の言葉に全く関心がない人の心の固さを表わしています。神の言葉を聞いても、それを信じることなく、神様を信頼する気持ちもない人です。この世での生活が忙しく、それがすべてだと考える人は、自分がなぜ生きているのか、どこに向かって進んでいるのか、死んだらどうなるのか、そのようなことを考えることなく、気にも留めずに生きています。しかし、このような人々は本当の生きがい、本当の平安、満足感を持つことができるでしょうか。何よりも、聖書は、神を信じない人の終わりは滅びであると教えています。
 2番目の土地は岩がごろごろしている砂の層が薄い土地です。アメリカには「7月4日クリスチャン」つまり「独立記念日クリスチャン」という言葉があるそうです。独立記念日で有名なのは花火です。信仰が花火のようにパッと燃え上ってパッと消えてしまうクリスチャンという意味でしょう。主イエスの言葉や聖書の言葉に喜びや平安を感じて、涙を流すほどの感動を覚えることがあります。このような感情を持つことは決して悪いことではありません。しかし、私たちが主イエスに従って行こうとする場合、時には困難や苦しいことを経験することもあります。私たちが、常に神の言葉を第一にするという姿勢がなければ、自分の感情に流されて、正しい判断ができなくなります。神の言葉に深く根差すという決意がないと、ちょっとした困難や苦しみによって、それまで感じていた喜びや感動が消えてしまいます。私たちは、自分の行動を決める時に、自分の気持ちや感情で決めてはなりません。いつも、聖書は何と言っているか、このことを第一にしなければなりません。ただ、み言葉を聞くだけでなく、それに従う意思が必要です。
 3番目の土地は茨が生い茂った土地です。茨ら雑草が生い茂った土地に種が落ちると、土地の栄養分を他の植物に取られてしまうために、十分な栄養を得ることができません。また、茨などが大きく茂ると太陽の光を受けることも難しくなります。種の中には十分に成長する力が含まれているとしても、周りの状況に妨げられて十分に成長できなくなり、実を実らせることができなくなります。この土地は、この世の多くのことを心配するクリスチャンを表しています。毎日の出来事が忙しくなって、神の言葉を読み、神に祈りをささげるという神様との交わりの時間がなくなってしまいます。私たちは、神様と一緒の時間を多く持てば持つほど、神様のことを深く知るようになり、神様との関係が深くなります。私たちの周りにはあまりにも多くのものがあって、私たちの心はそちらに向かいがちです。人生の思い煩い、お金のこと、他人の目、誘惑などに心が向いてしまって、最も大切な神様との関係が妨げられるのです。英語の表現に、The enemy of the Best is the Second Bestというのがあります。最善のものを妨げる最大の敵は第二の最善であるという意味です。この世において、どんなに素晴らしいものであっても、主イエスによる罪からの救いと永遠のいのちに勝るものはありません。私たちは、決して、この人生においてBestのものを見失ってはいけないのです。
 最後の土地は良い土地です。良く耕された土地に蒔かれた一粒の種は、美しい花を咲かせ、何倍も多くの実を結びます。良い土地は、神の言葉に開かれた心を表します。神の言葉に心を開いている人は、神の言葉をそのままに受け取り、神の命令には喜んで従います。神の命令に従うことは苦痛にはなりません。そのような人は、多くの実を結ぶクリスチャンになります。私たちの心に蒔かれる種は、いつも同じ種です。その種には、大きな力を働かせる可能性を持っています。その種が多くの実を結ぶかどうかは、種によって決まるのではなく、種が落ちる土地によって決まります。同じように、神の言葉には、大きな働きをする力がありますが、どんな心にみ言葉が入るかによって、大きく働くこともありますし、まったく働かないこともあります。あなたの心は柔らかく耕されていますか?耕すとは、土地にスキを入れて固くなったところを掘り返さなければなりません。同じように、固い心も、いろいろな経験を通して耕されることが必要です。パウロは言いました。「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す。」実は、私たちの心は、患難や忍耐を必要とする出来事によって耕されて行くのです。私たちは、人生の一つ一つの出来事を通して、自分の感情に支配されて生きるのではなく、いつも神のみ言葉に従って決断する者でありたいと思います。また、私たちは、他の人が神の言葉に対して心を開くように祈らなければなりません。人が神の言葉に心を開かせるのは聖霊の働きです。その時に、思いがけない大きな働きが起きるのです。

 4世紀の最大のキリスト教の思想家アウグスチヌスは、クリスチャンになるまでは、母親にとっては頭痛の種でした。10代で女性と同棲を始め子供が生まれました。母親モニカは熱心なクリスチャンでしたが、彼はマニ教という宗教にのめりこんで行きます。母親の目には絶望的な状況でしたが、彼女は涙の祈りを続けました。神様はモニカの祈りを聞いておられました。そして、アウグスチヌスに働いてくださいました。彼は、やがてマニ教に失望し、女性とも別れました。その後、ミラノに移り住みますが、ミラノの司教アンプロシウスと母親モニカの影響を受けて心が開かれました。ある日、彼が自宅にいると隣で遊んでいる子供の声が聞こえました。「手に取って読みなさい。手に取って読みなさい。」という声が聞こえました。彼は、そばにあった聖書を手に取って開くとローマ13章12節の言葉が目に留まりました。「夜は更けて、昼が近づきました。ですから、私たちは闇のわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。」子のみ言葉が彼の心に突き刺さり、彼はそれまでの生活を悔い改めて、クリスチャンになりました。心が開かれる時、神の言葉は私たちに大きな働きをし、大きな祝福をもたらします。

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