2016年10月16日 『聞き方に注意しなさい』(ルカ8章16~21節) | 説教      

2016年10月16日 『聞き方に注意しなさい』(ルカ8章16~21節)

 今日の説教の中心となる聖句は18節の「だから、聞き方に注意しなさい」という言葉です。聞くということはとても大切な技術です。一般の世界でも、良い人間関係を作るためには上手な聞き方が必要だと言われます。「初対面で好かれる人の7つの秘訣」という斎藤茂太さんの本では、、第一の秘訣が相手を上機嫌にする聞き上手になることと書かれていました。私たちは、相手の話を聞かずに自分の話をしてしまうことが多くなりがちです。人間関係において上手に相手の話を聞くことも大切ですが、神様の言葉をよく聞くか聞かないかは、永遠のいのちに関わるので、遥かに重要な問題です。今日の聖書の箇所からは、神様が聖書を通して私たちに語っておられるメッセージを私たちがどのように聞いているのかという点について考えたいと思います。
 旧約聖書の中に、「主の言葉を聞きなさい」という言葉が繰り返し書かれています。しかし、イスラエルの民は、いつも、神の言葉を聞くことに失敗しました。詩篇81篇10~11節で神様は次のように言っています。「わたしが、あなたの神、主である。わたしはあなたをエジプトの地から連れ上った。あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。しかしわが民は、わたしの声を聞かず、イスラエルは、わたしに従わなかった。」私たちが誰かに向かって一生懸命に話しても相手が耳を貸さなかったら、悲しくなります。神様は私たちに熱心に語っておられるのですが、私たちは、どのような心で神の言葉を聞いているのでしょうか。聖書には、神様の警告の言葉を真剣に聞かなかったために滅んでしまった人が数多くいます。主イエスは、種と土地のたとえ話を話した後で、私たちに、神の言葉を聞く聞き方に注意しなさいと言われました。キリストの弟子として生きるためにどのような聞き方が必要なのかを考えましょう。

(1)世の光として生きるために聞く(16節)
 16節で、主イエスは言われました。「 あかりをつけてから、それを器で隠したり、寝台の下に置いたりする者はありません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです。」この教えは、マタイの福音書でも語られていますが、「種まきのたとえ」のすぐ後に、この教えが置かれている意味は何でしょうか。それは、私たちは世の光として生きるために、神の言葉を聞かなければならないということだと思います。イスラエルの家は窓が小さいため、中は昼間でも暗かったので、どの家にもランプがありました。ランプに火をともしてから、ランプを隠すことはナンセンスです。そのように、私たちが神の言葉を聞いたなら、それを隠してだまっていてはいけないのです。私たちは、自分たちが聞いた神の言葉を語らなければなりません。ペテロの手紙2章9節でペテロはこう言っています。「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」すべてのクリスチャンは、神様によって選ばれた民であり、祭司としての働きを委ねられた聖なる国民です。素晴らしい肩書です。でも、そこには責任も伴います。私たちは、自分が体験した素晴らしい神の働き、自分が聞いた大切な神の教えを人々に伝える責任が与えられていることを忘れてはなりません。人々に伝えるのは言葉によるものだけではありません。私たちの生活全体がキリストを表すものでなければなりません。光は人に見られるものです。世の中の人々は聖書は読みませんが、クリスチャンを見ています。私たちが、毎日の生活の中で、いろいろな人々にどのような態度をとり、どのような言葉を語るのか、それによって、人々は、クリスチャンとは誰なのか、キリストの教えは何なのかを知ることになります。その意味で、クリスチャンの責任は大きいのです。

(2)誠実に聞く(17節)
 17節では、イエスはこう言われました。「隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現われないものはありません。」東京都の職員がこのイエスの言葉を聞いたらどう思うでしょうか。私たちの心の中にあるものは、必ず、外側に現れます。また、私たちは、神様に対して、秘密にできることは何一つありません。旧約聖書の伝道者の書は、「 神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。」(12章14節)という言葉で終わっています。17節の主イエスの言葉は、神の言葉を謙遜な心で自分自身に語られた言葉として受け取るということを教えているように思います。み言葉は、あくまでも自分自身に対する言葉として受け取るべきであって、他人を裁くための基準として用いるものではありません。また、他人に自分の信仰の深さを見せるために用いるものでもありません。主イエスに反対していたパリサイ人たちは、自分たちは旧約聖書の教えを守っていると思い、周囲の人々が十分に聖書の教えを守っていないと厳しくさばいていました。ところが、実際には、彼らは自分の守りやすい教えだけを守り、難しい教えには言い訳をして逃れていました。また、彼らは旧約聖書の教えをしっかり守っていることを人に見せるために、わざと人通りの多い交差点で大きな声で祈ったり、貧しい人々を助ける時にも、人に見られるような場所や方法で行っていました。彼らは表面的には非常に信仰に熱心な人のように見えましたが、心の中では自分を自慢し、人々から褒められることを求めていたのです。彼らは、主イエスの言葉や行動にひどく腹を立て、イエスを殺すことを考える者もいました。彼らは、極端な例かもしれませんが、私たちも聞き方に注意していないと、パリサイ人のような偽善者になってしまいます。そして、私たちの心の中はすべて神様に見られていることを忘れてはなりません。

(3)実を結ぶ者になるように聞く(18節)
 18節にはこう書かれています。「だから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです。」主イエスは「神の言葉の聞き方に注意しなさい。」と言いました。ここで「聞く」と訳されているギリシャ語は「アコウオー」という言葉ですが、これは単に人の話を聞くという以上に、いわれたとおりに行動する意思を持って聞くという意味があります。ですから、ここで「聞き方に注意する」とは、聞いて、それに従うかどうか、そこに注意しなさいという意味なのです。それは、神の言葉を聞いてそれを生活で実践しようとするかしないかによって、結果が大きく違ってしまうからです。私たちが、神の言葉を注意深く聞き、その教えを生活の中で実践して行く時に、私たちの信仰は成長します。しかし、イエスを信じていると思っていても、神の言葉を聞いてもその言葉と真剣に取り組もうとしないならば、やがて、その人が持っていた信仰は弱くなり、場合によってはまったくなくなってしまうことにもなりかねません。18節に記された成長に関する原則は、霊的な面でも肉体的な面でも同じです。例えば、体の筋肉はトレーニングをすることによって成長します。しかし、トレーニングをせず筋肉を使わないでいると、やがて、筋肉は衰えて行き、もともとあった筋肉も失われてしまいます。信仰においても、筋肉においても、働かせれば成長しますが、働かせないと衰えていきます。同じレベルにとどまっていることはできません。私たちは前進するか後退するかのどちらかで、止まっていることはできないのです。求める人には、必ず与えられます。しかし、求めようとしない人は、今持っているものも失います。信仰を持ったクリスチャンが教会の礼拝に来なくなる人が少なからずいます。とても残念なことですが、なぜ、人は、イエス・キリストの十字架という大きな犠牲の結果として永遠のいのちをいただいたのに、信仰から離れて行くのでしょうか。この世のことに忙しくなりすぎてしまった人、他の人からどう思われているのか心配になった人、この世の人たちと違う生き方をすることに恐れを感じた人、迫害や反対を受けて心がくじけてしまった人、様々な理由があると思います。しかし、主イエスは言われました。「人はたとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。」私たちは、永遠のいのちの価値を本当に理解しているでしょうか。この価値は地上で生活をしている間はよく分かりません。私たちは目に見えるもので心を奪われていますから。しかし、目に見えるものはすべていつかは消えていくものであり、死ぬときには手放さなければなりません。その時に、あなたには何が残っているでしょうか。

(4)神に従順な者として聞く(19-21節)
 主イエスは群衆に向かってこのように話していましたが、19節を見ると、そこにイエスの母マリヤとイエスの兄弟たちがやって来ました。彼らはなぜイエスのもとへ来たのでしょうか。マルコの福音書を見ると、イエスについて「あれは気が狂っている」という人々がいたので、イエスを家に連れ戻そうとしてやって来たと書かれています。(3:21)母マリヤはイエスを身ごもった時に、み使いからイエスが救い主であることを知っていましたが、マリヤの他の息子たちは、イエスを救い主だとは信じていませんでした。彼らは、ユダヤ教の指導者たちがイエスに反対していることも知っていましたので、イエスの身の安全を心配してやって来たのだと思います。彼らはあまりに大勢の人がいたためにイエスに近づくことができなかったので、イエスを呼んでもらいました。その知らせを聞いたイエスの言葉が21節に記されています。「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行なう人たちです。」イエスの言葉を聞くと、イエスは母マリヤやマリヤの子供たちに対して態度が冷たいように思えるかもしれませんが、そうではありません。イエスは母マリヤのことを心配していましたので、十字架の上から弟子ヨハネにマリヤの世話をするように頼んでいます。イエスは、すべての人のために十字架にかかったのですから、そこにはマリヤの息子たちも含まれています。聖書には書かれていませんが、きっとイエスは彼らの救いのために祈っていたはずです。ですから、彼らも、イエスが復活した後、イエスを救い主として信じました。使徒の働きの1章14節を見ると、イエスの指示に従ってエルサレムに集まって祈りに専念していた120人の信者の中に、イエスの兄弟もいたことがわかります。
 では、イエスが言われた言葉の意味は何でしょうか。神様との関係は、この世の家族関係、民族、国籍は関係がなく、神の言葉を聞いてそれを行う人々が神の家族であるということです。ある時、主イエスが群衆に向かって教えておられた時に、群衆の一人がイエスの教えに感動して叫びました。「あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。」つまり、イエスの母マリヤは幸いな人だと叫んだのですが、イエスはこう答えられました。「いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」(ルカ11:27-28)神のことばを聞いてそれを行う人、これが、神の言葉を本当に聞いている人ということです。世の光として生きる者として聞く、誠実な心で聞く、実を結ぶ者として聞く、そして、聞いて行う者として聞く、これが、真実の神の言葉を聞く人なのです。私たちは、神の言葉をそのように聞いているでしょうか?

 アフリカを最初に横断したことで有名なリビングストンは探検家として有名ですが、本来は宣教師でした。厳しい自然環境の中、妻は宣教活動を始めて間もなく死にます。現地の人々の反発やイギリスの団体からも反対を受けました。彼の体は病気のためにボロボロになっていて、彼を久しぶりに見た人はすぐには彼とは分からないほどでした。彼の人生は困難と忍耐の連続でした。しかし、彼は日記に次のような言葉を残しています。「どこにでも私を遣わしてください。ただ、私と一緒に来てください。どのような試練にも合わせてください。ただ、私を支えてください。あなたに従うこと、あなたを愛することを妨げる一切のものから私を遠ざけてください。」リビングストンこそ、真実に神の言葉を聞いたクリスチャンでした。

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