2016年10月30日 「嵐をも支配する主イエス」(ルカ8章22~25節) | 説教      

2016年10月30日 「嵐をも支配する主イエス」(ルカ8章22~25節)

 今、ルカの福音書を読んでいます。今日は8章の22節から25節ですが、ルカの8章全体のテーマは、どのように神様を信じて、その信仰を実際の生活の中でどのように働かせるのかということを取り扱っています。8章の前半では、イエスは弟子たちに、神の言葉をどのように信じるか、どのように受け取るかということを種まきと4種類の土地のたとえ話で教えられました。主イエスが、たとえ話を話した後、12人の弟子たちはイエスに、そのたとえ話が何を意味しているのか尋ねました。彼らは、イエスの話しを聞いただけでは、その意味を完全に理解することができなかったのです。するとイエスは弟子たちにそのたとえ話の意味を詳しく説明しました。イエスの弟子たちは、イエスがたとえ話の意味を、大勢の群衆には説明をせず自分たちだけに説明をしたので、うれしくなり、また少し誇らしい気持ちになりました。そして、イエスの言葉を理解したと彼らは思いました。しかし、イエスの言葉を頭で理解するだけでは、本当の信仰とは言えません。神のことばは、頭で理解したことを毎日の生活の中で実際に働かせない限り、私たちに大きな力を与えません。よく言われることですが、頭と心の距離は短いのですが、神の言葉を頭から心まで届けるのは決して簡単なことではないのです。イエスの弟子たちは、イエスの言葉を理解していたと思っていましたが、まだ、それを生活で実践していませんでした。8章の後半では、主イエスは、弟子たちの頭の信仰を、生活の中で働く信仰へと深めるために、4つテストを行いました。それらのテストを経験して、彼らの信仰が本物になることを願っておられたのです。4つのテストの第一が、今日読みました22節から25節に記されている、「嵐に出くわす」という体験でした。私たちは、勉強することが楽しくても、テストを受けることはあまり楽しいことではありません。しかし、テストを受けないと、本当に自分が勉強したことをちゃんと理解しているかどうか分かりません。それと同じように、信仰のテストも、それ自体は楽しいことではないのですが、それを経験することによって、自分の信仰がどのようなものか明らかになるのです。
 この時、主イエスが弟子たちの信仰をテストしたのは、弟子たちを苦しめるためでもなく、弟子たちをいじめるためでもありません。イエスは、弟子たちの信仰が本物の信仰になり、それによって弟子たちが強く生きることを願っておられたのです。それと同じように、神様は、クリスチャンにも、試練を与える時があります。そんな時、私たちは、その試練の意味を理解できず、神様に対して腹を立てたり文句を言ったりします。「神様はどうして私にこのような苦しみを与えるのだろうか。」とか「神様は私を見捨てたのだろうか。」などと考えて、神様に対して不信感を持ってしまうのです。しかし、実際には、神様が私たちが神のこどもとして将来しっかりと歩めるように訓練を与えておられるのです。ある人が、セミの幼虫が脱皮してセミになるために苦しそうに殻を破っている様子を見てかわいそうに思い、はさみで殻を開いてあげました。すると幼虫は殻から出てきましたが、羽を伸ばすことができずに死んでしまったそうです。幼虫にとって殻を破ることは大変ですが、しかし、それはセミとして生きるために必要な力を蓄える時でもあったのです。今日の箇所では、イエスの弟子たちの信仰が試されるテストとしてガリラヤ湖という湖で嵐に出くわしたという出来事が記されています。

(1)嵐の前の平安
 8章22節に「そのころのある日のこと、イエスは弟子たちといっしょに舟に乗り、「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう。」と言われた。」と書かれています。ルカは、「ある日のこと」と書いていますが、これは、他の福音書を見ると、「種まきのたとえ話」などを群衆に向かって教えられた同じ日の夕方の出来事であることが分かります。(マルコ4:35)イエスの12人の弟子のうち4人は漁師でした。彼らは漁師の仕事を辞めてイエスの弟子になっていましたが、船はそのまま持っていたのだと思います。イエスが「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう」と言われたので、彼らは、漁師が使う小型のボートに乗り組みました。もう夜が近づいていました。この湖はガリラヤ湖という湖で、イスラエルの有名な死海という湖の200キロほど北にある丸いかたちの湖です。周囲は山に囲まれていて、すり鉢の底のような低い場所にあります。海抜マイナス200メートルです。しかも、周りを取り囲む山には多くの深く切り込んだ谷があるために、その谷を通って上から湖に向かって突然、冷たい風が吹き下ろし、湖を覆う温かい風とぶつかって強い嵐がしばしば起きる湖でした。イエスと弟子たちは、そのガリラヤ湖で、日が暮れようとする時間に、向こう岸に向かって出発しました。やがて主イエスはぐっすりと眠ってしまいました。イエスは神の御子ですが、同時にすべての点で私たちと同じ人間でもあられましたので、一日中群衆を教えていた疲れから安らかにぐっすりと眠られました。もちろんイエスはこの夜、嵐が自分たちが乗った船を襲うことも知っていましたが、それでもぐっすりと眠ることができました。ぐっすり眠れるというのは本当に幸せですが、私たちは、人生でいろいろなことを経験しますので、いつもぐっすりと眠れるわけではありません。詩篇4篇7-8節を読んでみましょう。詩篇は今から3000年前のイスラエル王ダビデが書きましたが、ダビデの生涯は戦いの連続でした。心休まる日がない生活でした。その彼がここで2種類の喜びについて語っています。7節の穀物と新しいぶどう酒が豊かにある時の喜びと、神を信頼する時の喜びです。これは言い換えると外から来る喜びと心の中から出てくる喜びです。外から来る喜びはいつ変わるか、いつなくなってしまうかわかりません。しかし心の中から出てくる喜びは周りの状況に関係なくあふれてきます。ダビデは緊張の日々の中で、神様を信頼することで、安らかに眠ることができました。私たちも、神の約束を信じ神に信頼して生きるならば、心の中からあふれる喜びを経験することができます。

(2)嵐の中の平安
 静かな湖を突然激しい嵐が襲いました。23節後半に「ところが突風が湖に吹きおろして来たので、弟子たちは水をかぶって危険になった。」と書かれています。突風と訳されているギリシャ語の言葉は台風やハリケーンのような強い嵐を意味する言葉です。あきらかに、これは普通の嵐とは違って、いのちの危険をともなう激しい嵐でした。主イエスと弟子たちが乗った船には水があふれて、船は沈没しそうな状況でした。しかし、そのような激しい嵐の中でも、イエスは、安らかに眠り続けていました。それほどイエスは疲れていたのでしょう。また心は平安であったのでしょう。一方、弟子たちはパニックになっていました。彼らのうち少なくとも4人は元この湖で働いていた漁師で、何度も嵐を経験していましたが、この嵐は経験したことのない激しいものだったので、彼らは船が沈んでしまうと思いました。、彼らはパニックに陥ってしまいました。24節には「そこで、彼らは近寄って行ってイエスを起こし、「先生、先生。私たちはおぼれて死にそうです。」と言った。」と書かれています。弟子たちは、これまでにも、主イエスが病気をいやしたり、死んだ人を生き返らせたりする場面を目撃していましたが、彼らは、この嵐の中で本当にイエスが自分たちを守ってくれるのか確信がありませんでした。このことから分かることは、人生には、自分のこれまでの経験、知識、能力、そこから来る自信、勇気など、そういうものがまったく役に立たない出来事が起こりうるということです。つまり、自分自身ではどうすることもできないことが起きるのです。そんな時、私たちは、弟子たちのように、主イエスに祈ることが大切です。しかし、祈る時には、神の力と約束を信じて祈らなければなりません。弟子たちは、不安と恐れで心がいっぱいで、主イエスの全能の力を完全に信頼することができませんでした。

(3)嵐の後の平安
 弟子たちが必死に助けを求める声によって目を覚ましたイエスは、起き上がって風と波とをしかりつけました。すると風も波も治まり、なぎになり、一瞬にして嵐は消え去りました。この世界とその中にあるすべてのものを造られた天地創造の神の命令に従って、嵐は止み、すっかり静かになったのです。嵐がやむと、イエスは、この出来事を用いて、ひどく驚いて戸惑っている弟子たちに、彼らが学ばなければならない教訓を教えられました。弟子たちは、これまでにイエスの奇跡の業を何度も見ているので、本当は、今回の嵐に直面した時も、自分たちが目撃したイエスの力ある働きを思い出して、イエスを信頼しなければならかったのですが、それができませんでした。イエスは弟子たちに言われました。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」イエスは、自分に助けを求めている弟子たちを叱っています。イエスが弟子たちを叱ったのは、弟子たちが、「自分たちは死んでしまうと思い込んだことです。また、マルコの福音書によると、弟子たちはイエスに向かって、「私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」とイエスに対して怒っているのですが、その怒りは、主イエスに対する不信仰から来る怒りでした。弟子たちは、頭ではイエスが神であることを理解していたとしても、まだ、心の奥にまで信仰が届いていませんでした。だから、彼らは、イエスが嵐に向かって「黙れ」と言った時に、嵐が突然静かになるのを見て、ひどく驚き、互いに顔を見合って「この方はいったい誰だろう。」と考え込んでいるのです。
 もともと、船でガリラヤ湖の向こう岸に渡るのは、主イエスご自身が言われて始まったことでした。弟子たちは、主イエスが進む道を一緒に進んでいたのです。それならば、弟子たちが途中で滅びることなどあるはずがありません。聖書の中で、神様は、何度も繰り返して、神を信じる人々を守ることを約束しておられます。私たちの人生に、主がともにおられる時、私たちは何一つ恐れる必要はないのです。主イエスは、地上で生きておられた時は、私たちと全く同じ人間になられていたので、疲れて眠ることがありました。しかし、復活して天に戻られたイエスは、神として、まどろむことなく眠ることもなく、私たちのために祈り、私たちを守るために全力の働きをしてくださいます。私たちも、イエスから叱られることのないように、眠ってような信仰から目を覚まさなければなりません。

 今から20 0年ほど前、アドニラム・ジャドソンがミャンマーに宣教師として入りました。最初の7年間は懸命に働きましたが、一人の信者も生まれませんでした。彼は聖書をミャンマーの言葉に翻訳しようとしましたが、当時の政府から敵対行為とみなされて牢屋に入れられてしまいました。小さな牢獄に毎日妻のアンが食事を持ってきました。ある日、妻のアンが祖国アメリカから手紙が届いて何か必要なものがないかと尋ねていると彼に言いました。7年間伝道しても誰一人クリスチャンになっていませんでしたが、ジャドソンは、大きな信仰をもって、迷わずに妻に答えました。「聖餐式の道具が必要だと伝えなさい。いつか必ず必要になるから。」やがて彼は解放され、聖書のミャンマー語への翻訳を完成しました。そして彼の働きが実を結んで行きました。現在、ミャンマーのカレン族、カチン族の大部分はクリスチャンです。それは、厳しい状況でも神様を信頼して宣教の働きをつづけたジャドソンがいたからです。私たちも、人生でどんな嵐に会おうとも、私たちを守り導いてくださる神様を信じて、勇気をもって歩み続けたいと思います。

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