2016年11月20日 『死に勝利する主イエス』(ルカ8章40~42、49~56) | 説教      

2016年11月20日 『死に勝利する主イエス』(ルカ8章40~42、49~56)

 主イエスと弟子たちは、活動の中心がイスラエルの北にあるガリラヤ湖という湖の西側の地域でした。主イエスと弟子たちは、毎日、大勢の人々に囲まれて、あわただしい日々を過ごしていましたが、ある日、主イエスは12人の弟子たちだけを連れて、湖の東側に出かけて行きました。残された群衆は、主イエスと弟子たちが戻ってくることを心待ちにしていました。すると、彼らの耳に、主イエスが湖の嵐をしかりつけると、嵐がピタッと止まったという話が届きました。また、湖の向こう側では、悪霊に取りつかれた人が主イエスによって解放されて、正気に戻ったといううわさも届きました。イエスの帰りを待っていた人々の期待感がますます強くなっていました。そのような時に、主イエスと12人の弟子たちがまた、湖の西側に戻って来たので、大勢の人々が大喜びで彼らを迎えました。その中に、ヤイロという名前の男がいました。彼は会堂管理者でした。ユダヤ教では礼拝の場所を会堂(シナゴーグ)と呼びますが、その管理者ですから、ユダヤ人の間では地位の高い、また人々から尊敬されたいた人でした。彼は、人々に尊敬される立場にあり、生活も豊かで、普通に考えれば何の問題もない幸福な人でしたが、彼には、自分にはどうすることもできない問題がありました。それは、自分の一人娘が死にそうになっていたからです。当時のイエスは、すでにユダヤ教の指導者たちからは神を冒涜する危険な人間とみられていました。イエスを殺そうとする動きもありました。ユダヤ教の会堂管理者であるヤイロが、そんなイエスのところに行けば、仕事を失うことになるはずです。しかし、ヤイロにとっては、自分の地位や仕事のことよりも娘のいのちのほうが大切でしたので、イエスの前に出てひれ伏して、娘を助けるために自分の家に来てほしいとお願いしました。彼は、どこかでイエスの教えを聞き、また、イエスがおこなった様々な奇跡や癒しの働きのことを聞いていたのだと思います。彼は、主イエスであれば、主イエスに問題を持っていけば、この方が何とかしてくださるという確信を持っていました。主イエスは、彼の願いをすぐに聞き入れて、ヤイロと一緒に彼の家に向かいました。
 その時、12年もの間病気で苦しんでいた女性が主イエスに近づいて来て、主イエスなら自分の病気をいやしてくださるという信仰を持って自分の手を伸ばしてイエスの衣の裾を触ったので、彼女の病気がたちまちいやされるという出来事が起こりました。そのために、主イエスは、この女性の体だけではなく、心もいやし、これから安心して生活ができるように、隠れていた女性を、大勢の人々の前に呼び出しました。主イエスに怒られると思っていた女性は、自分が主イエスの着物を触った理由と、これまで12年間どれほど自分が苦しんできたのか、今まで誰にも言えずに胸の中にしまっていたことを群衆とイエスの前で吐き出しました。すると、イエスは、大勢の人の前でこの女性に向かって言いました。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。」このようにして、12年間病気に苦しんできた女性の体も心もいやすという素晴らしい出来事が起こりました。この女性にとっては素晴らしい出来事でしたが、一人娘が死にそうなヤイロにとっては、時間との闘いでした。彼の心はハラハラドキドキしていたことでしょう。

 そんな時に、彼の希望を打ち砕くような知らせが届きました。49節を読みましょう。「イエスがまだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人が来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。もう先生を煩わせることはありません。」この知らせを聞いたヤイロはどう思ったことでしょう。私であれば、きっと心の中で、「あの病気の女性が割り込んで来なかったら、娘は死ななかったのに。大切な時間が奪われたしまった。」と、病気が癒された女性を恨んだと思います。ヤイロはどうだったでしょうか。知らせを聞いて大声をあげて泣いたかも知れません。こどもを失う親の悲しみはそれほど大きいのです。しかも、一人娘でしたから。主イエスは、ヤイロの気持ちを理解しておられましたので、50節に書かれているように、ヤイロの家から来た人が話終えると、すぐにヤイロに向かって言われました。「恐れないで。ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。」この言葉を聞いたヤイロがどのように感じたのか、聖書には書かれていませんが、主イエスの力強い言葉に励まされ、一縷の希望を持ったことでしょう。「この方なら何とかしてくださるに違いない。」私たちも、自分の考えでは、あるいは、人間的に考えるなら、どうすることもできない状況になると、恐れてしまいます。信仰がなえてしまいそうになります。祈っても仕方がないというような気持にさえなるでしょう。しかし、主イエスは、どんな時も、私たちに語り掛けておられます。「恐れないで、ただ信じなさい。」私たちは、恐れを感じる時こそ、主イエスに頼らなければなりません。主イエスに頼るときに、恐れが平安に変えられるのです。 
 
 やがて、彼らはヤイロの家に着きました。イエスは家の中に入られましたが、ペテロとヨハネとヤコブと子どもの両親以外は中に入れませんでした。この癒しは、見世物ではありません。悲しみの中にある両親のための愛の働きだからです。イエスと弟子たちがヤイロの家に着いたときに、すでに、お葬式のようなことが始まっていました。近所の人と、特別に雇われた泣き女たち集まって、親の悲しみを盛り上げるために、頭に灰をかぶったり、着物を引き裂いたり、体をたたいて、神様に祈りの叫び声をあげていました。彼らは、そのようにして人が死んだときの悲しみを表そうとしているのですが、ある意味で、演出です。本当にヤイロ夫妻といっしょに悲しみを分かち合っている人は何人にいたでしょうか。日本の葬儀において、時々、葬儀社の司会の人の語りが妙に演出じみていて、かえって嫌な気分を感じる時があります。イエスは、その人々に向かって、「泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです。」と言われました。これを聞いた人々は、イエスの言葉を聞いてあざ笑いました。娘が死んだことを知っていたからです。
でも、このイエスの言葉は、クリスチャンの死を意味する大切な言葉です。クリスチャンにとっては、死は眠りなのです。死は終わりでも滅びでもありません。眠りにつくことなのです。肉体は朽ち果てますが、私たちのうちにある魂は眠りにつくのです。眠りとは、朝に目覚める時までの休息です。クリスチャンにとって、死とは、新しい天国で目覚める時までの眠りの時なのです。ただ、「眠っている」というのは比喩的な表現で、睡眠状態にあるのではありません。私たちは、眠っている時は意識がないのですが、死んだ後の眠りというのは、意識がない状態ではなく、すべてが完了するのを待っている時です。第1コリント15章20節に次のような言葉があります。「しかし、今や、キリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」初穂というのは、旧約聖書の時代に、農業をしていたユダヤ人が収穫の感謝を表すために、最初にとれた麦を神様に捧げました。それを初穂と呼びました。「初穂」とは、その年に、これから取れる収穫を代表するものでした。初穂をささげることで、ユダヤ人は、その年一年の収穫に対する感謝の気持ちを神様に表していました。キリストが眠った者の初穂としてよみがえられたというのは、キリストの復活は、ただ一人のお方が死に勝利したという一つの出来事だけではありません。これは、新しい時代の始まりを表しています。主イエスが眠った者の初穂として復活されたことによって、イエス・キリストを信じる者も、主イエスと同じように復活するという約束の始まりだったからです。

 主イエスは、ヤイロの娘の手を取って叫んで言われました。「子どもよ。起きなさい。」イエスがヤイロの娘の手を取られたことに私は嬉しくなりました。私たちの目には見えませんが、神様はいつも私たちに手を差し伸べて、私たちを守っておられるのです。イザヤ書41章10節でも神様は私たちに呼びかけておられます。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手であなたを守る。」イエスにとって、ヤイロを生き返らせるのは、眠っている魂を目覚めさせることと同じです。イエスはご自分について、「私は道であり、真理であり、いのちです。」と言われました。主イエスこそいのちそのもののお方です。だから、いのちである主イエスが起きなさいと言われると娘にいのちが与えられました。イエスの言葉によって、ヤイロの娘の魂が戻って来たのです。死は、人間にとって最後の敵と言われます。しかし、聖書は、いのちの主であるイエスは、死に対する勝利と権威を持っておられると教えています。私たちは、このことを本当に信じているでしょうか。

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