2016年12月4日 『インマヌエルの主』(マタイ1:18-25) | 説教      

2016年12月4日 『インマヌエルの主』(マタイ1:18-25)

 マタイの福音書の1章と2章に、主イエスの誕生のことが記されていますが、ルカの福音書がマリヤに関する出来事を記しているの対して、マタイはヨセフに関する出来事を中心に書かいています。1章18節-19節には次のように書かれています。「母マリアはヨセフの妻と決まっていたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身重になったことが分かった。夫ヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。」ここで当時のユダヤ人社会の結婚について少し説明をする必要があります。ユダヤ人の結婚には3つの段階がありました。まず婚約です。たいてい結婚する本人たちが結婚を決めるのではなく、それぞれの親同士が話し合って決めます。まだ本人が15,16ぐらいの時です。時には、本人同士が一度も会ったこともないままに婚約が決まります。そして二人の婚約生活が始まります。二人が正式に結婚を決めたことが発表されて、花嫁の持参金の額が決められます。この正式発表の前にどちらかが婚約をやめることを決めることができますが、十分な理由がないと、その人は、その後結婚することは非常に難しくなります。この正式婚約の期間二人は夫婦と同じ関係と見なされますので、この関係を解消することは「離婚」と見なされました。19節で、ヨセフがマリヤをさらし者にしないために、内密に去らせようと決めたと書かれていますが、「去らせる」とは「離婚する」という意味で使われています。それほどに正式の婚約関係には重みがありました。それから1年後に、花嫁の家で結婚式が一週間にわたって行われて、それから花嫁が花婿の家にいって二人の本当の夫婦としての生活が始まりました。マリヤが聖霊によって救い主を身ごもったのは、二人が正式婚約をした後でした。

 ヨセフとマリヤがまだ正式に結婚していない時に、マリヤは救い主を身ごもりました。18節に彼女は聖霊によって身ごもったと記されています。つまり主イエスがこの世に誕生するのに、人間の父親はいません。そのことは系図を見ても分かります。1節から15節まで、ずっと、父親の子どもとして誰誰が生まれたと書かれていますが、16節では、「キリストと呼ばれるイエスは、このマリヤから生まれた」と母親から生まれたと記されているからです。イエスが救い主として私たちの世界に来られた時に、成人の姿では現れませんでした。マリヤの胎内でいのちが造られ、私たちとまったく同じように生まれたのです。これはよく考えると不思議です。神が人となってこの世に現れるなら、ふつうは、最初から成人の姿で現れるのではないでしょうか。主イエスは30歳になってから、神の子としての働きを始められましたが、30歳の姿で現れるほうが、神としての威厳もあるからです。しかし、主イエスは、私たちとまったく同じように生まれ、私たちと同じように死を経験されました。なぜでしょうか。それは、私たちの罪は、私たちのいのちが母親の胎内で形作られるときに、父親と母親のDNAを受け継いで、罪の性質をもった人間として形づくられるからです。主イエスは、私たちの罪が赦されるために、私たちの完全な身代わりになる必要がありました。そのために、主イエスはすべての点で私たち普通の人間と同じでならなければならなかったのです。そして、同時に主イエスは罪のない者として生まれなければならなかったので、処女降誕という極めて複雑な生まれ方をする必要がありました。父と母から作られたいのちであればどうしても罪の性質を持って生まれます。それを避けるために、神様はマリヤのおなかを借りて、神の力によっていのちが作られなければなりませんでした。私たちの頭では理解できないことですが、創世記によれば、この世界は、神のことばによって、何もないところから創造されました。聖書の神には、言葉だけでこの宇宙全体を作るほどの力があるのです。だとすれば、マリヤの胎内にひとつのいのちを作ることは実に簡単なことなのです。

 しかし、人間的には2000年前であっても、聖霊によって身ごもるということは、誰にも信じがたいことでした。ルカの福音書によると、最初、マリヤに天使が現れて、彼女が聖霊によって約束の救い主キリストを身ごもるというお告げを受けました。おそらくマリヤは自分がみ使いから聞いたことをヨセフに話したはずです。その日からヨセフの苦悩の日々が始まりました。マリヤは親戚のエリサベツを訪れるためにナザレを離れていました。彼女を知っているヨセフはマリヤが嘘をつくような人間ではないことを知っていましたが、それでも彼女の話をすぐに信じることができず、いろいろ思い悩んだにちがいありません。聖書は、わざわざ、ヨセフは正しい人であったと記しています。それは、ヨセフが他の人より少しだけ正直だというレベルではないと思います。聖書が彼を正しい人と呼んだのは、ヨセフがほかの人とはまったく違う道徳的な素晴らしい人物であったからです。彼はなによりもマリヤが傷つかないことを願って、ひそかに正式な婚約を破棄して彼女とは離婚しようと考えていました。そんな時に、天使がヨセフに現れました。20節に「彼がこのことを思い巡らしていたとき」と書かれています。彼が思い悩み、大きな葛藤で苦しんでいた、まさにその時に、主の使いが彼に現れました。人間的にはもっと早く現れてほしいと思いますが、神様は、その人にとって一番良い時に助けを与えてくださる方です。詩篇46篇1節に「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」と書かれています。「そこにある助け」と訳されていますが、「そこに」という言葉は非常に強調されている言葉で、まさにそこにあるとか、いつでもそこにあるといった意味を持っています。信仰を持っていてもこの世に生きる限り、私たちはいろいろ悩み苦しみを経験しますが、神様は、すぐそこにいて私たちを助けようと待っておられるのです。ヨセフにも、神様は、そんなときに、み使いを送ってくださいました。ヨセフはみ使いから「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているのは聖霊によるのです。マリヤは男の子を生みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」というメッセージを聞きました。彼は、この言葉を聞いてマリヤの妊娠がただ単なる妊娠ではなく、旧約聖書に長い間預言されていた救い主メシアを身ごもっていることを理解したに違いありません。旧約聖書には救い主メシアに関する預言が数多くありますが、その一つがダビデの家系から生まれるというものでした。ヨセフもマリアもユダ部族の一員で、二人とも貧しい家庭の出身ではありましたが、ダビデの家系に属する家柄でした。み使いがヨセフのことを「ダビデの子ヨセフ」と呼んだのもそのことを知らせるためだったのでしょう。そして、み使いから「名をイエスとつけなさい。」と言われましたが、これはギリシャ語の発音ではイエスですが、へブル語の名前はヨシュアです。ヨシュアとは「主は救い」とか「主は解放者」という意味があります。さらに、み使いは、「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」と言って、旧約聖書のイザヤ書の言葉を引用しました。「見よ。処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」これによって、ヨセフは確信しました。主イエスの誕生は神の御手の中ですべてのことが行われました。そして、旧約聖書の数々の預言を一つ一つ成就するものであったのです。ヨセフは敬虔なユダヤ教徒でしたから、み使いが語った預言の言葉も知っていたでしょうし、ついにその言葉が実現する時が来たことを知り、また、その偉大な出来事に自分も関わっていることに大きな恐れも感じたことと思います。

 このイザヤの預言は南ユダ王国の暗黒時代に語られたものでした。当時アハズという王様が偶像礼拝に走り、エルサレムのいたる所に偶像を置きました。また、シリアと北イスラエルがアハズを滅ぼそうとした時に、神様が預言者イザヤをアハズ王に送って、神のメッセージを聞くように命じたのですが、アハズは、イザヤの預言を聞くことを拒みました.。そして、神に頼ろうとせずに、アッシリア王に助けを求めたのです。そんな神の言葉を聞こうとしないアハズ王に対して、神ご自身がしるしを与えると言われました。そのしるしが、「処女がみごもって男の子を産む」というものでした。天においても地においても一切の権威を持っておられる全能の神、この世界とその中にあるすべてのものを創り出された神が、不信仰な人間の世界に来てくださること、しかも、貧しい女性のお腹の中から赤ちゃんとして生まれてくださったこと。これはどんなに考えても不思議以外の何ものでもありません。イエスの時代の人々も、またイザヤの時代の人々にとっても、信じがたいしるしです。ある人は言いました。「キリスト教の特徴は、超自然、人間以上のわざ、不思議な事実があることだ。」イエスを偉大な人物、愛に満ちた伝道者と見る人はが多いですが、そのような人たちはこの奇跡につまずきます。そしてキリストを信じることによる救いを受けようとしないために、罪の許しと永遠のいのちを得ることができません。しかしイザヤは神のメッセージを信じました。そして神が言われたままに預言しました。彼は暗黒の時代に生きた預言者ですが、遠い将来をしっかり見ていて、やがて時が来ると、救い主が来られることを確信していました。

 この救い主の別名は「インマヌエル」です。これはへブル語で、「神様が私たちとともにおられる」という意味です。栄光に満ち満ちておられる方が「インマヌエル」の救い主となるためにこの世に来てくださいました。ヨハネの黙示録を見ると、天国では、多くの天使たちが大きな声で御子イエスを賛美しています。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉と、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」この賛美の声が天国では鳴り響いています。そんな栄光に満ちたイエスが、栄光の場所を離れて、この罪に満ちた世界に来てくださいました。その目的は、私たちとともにいる神、すなわちインマヌエルの神になるためでした。主イエスが地上で働いておられた時は、イエスとともにいることのできた人はごく限られた少数の人でした。しかし、今は、聖霊の働きをとおして、すべてのクリスチャンとともに生きてくださるのです。主イエスは、マタイの福音書の最後のところで、弟子たちといよいよ別れるときに言われました。「見よ。わたしは世の終わりまでいつもあなたがたとともにいます。」目には見えませんが、主イエスを救い主と信じる者の心の中に、このイエスが目に見えない姿でともにいてくださるのです。クリスチャンは、どんな時も、ひとりぼっちということは決してありません。たとえ世の人々からは見捨てられたとしても、主イエスはいつも私たちとともにおられます。私のような自己中心の汚い心の中にも入ってくださって、私とともにいてくださいます。このイエスを信じているから、私たちは、先ほど読んだ詩篇46篇の記者のように、「神はわれらの避け所。また力。苦しむとき、そこにある助け。」と言うことができるのです。宗教改革者ルターも大きな困難を経験している中で、この聖書の約束によって困難に打ち勝つことができました。彼がドイツの皇帝やローマ法王からの厳しい弾圧を受ける中、宗教改革を進めましたが、時には落ち込むことがありました。そんな時、いつも一緒にいた仲間のメランヒトンに「さあ、詩篇の46篇を歌おう」と言って励まし合いました。そこから、有名な讃美歌267番「神はわがやぐら」が生まれました。私たちとともにいて、私たちを救い助けるために、インマヌエルの神になるために主イエスが来られたことへの感謝を忘れない者になりたいと思います。

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