2017年1月8日 『福音を伝える人』(ルカ9章1-9節) | 説教      

2017年1月8日 『福音を伝える人』(ルカ9章1-9節)

 ルカの福音書9章に入りますが、ここは、主イエスの3年あまりの神の子としての働きの大きな転換期と言える箇所です。8章までは、主イエスだけが奇跡の働きをし、福音を伝え、人々の質問に答え、そして、反対する人々と関わって来ました。主の大きな働きも、主の教えも、主がおられる所に行かなければ受けることはできませんでした。その結果、主イエスが行く所には、どこにでも大勢の群衆がついて行きました。その数は増えるばかりでした。この時まで、主イエスの働きは、主にイスラエル北部のガリラヤ地方で行われていました。しかし、いよいよ、主イエスがガリラヤを去って、十字架にかかるためにエルサレムに向かって出発する時が近づいていました。9章の51節に「さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられた。」と記されています。主イエスは、自分がいなくなった時に、12人の使徒たちが委ねられた働きを自分たちだけでしっかり行うことができるように、彼らに訓練の時を与えられました。主イエスが選ばれた12人の使徒たちは、特別のエリートではありませんでした。漁師をしていた者や取税人であった者など、むしろユダヤの社会では、低く見られていた人たちが中心で、私たちと同じような弱さを持っている普通の人間でした。彼らは主イエスと3年余り生活を共にして、主イエスから直接にいろいろな教えを聞き、また、主の大きな働きを自分の目で見てきましたが、彼らは主イエスが十字架にかかる前にローマの兵士によって捕まえられた時に、みな、自分のいのちを守るために、主イエスを見捨てて逃げてしまいました。彼らが本当にイエスの弟子として力を持つのは、ペンテコステという聖霊が下る時まで待たなければなりませんが、イエスは十字架にかかる前に、12人の弟子たちに「すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威とをお授けになって、神の国を宣べ伝え、病気を直すために、彼らを遣わされました。ところで、主イエスは復活の後40日間弟子たちに現れてから天に帰られましたが、主イエスが弟子たちに最後に言われた言葉がマタイの福音書の終わりの所に記されています。それは、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」という命令でした。言い換えると、主イエスを救い主として信じるクリスチャンは、みな、キリストの弟子なのです。ですから、主イエスが、この時に12人の使徒たちに命じたことは、実は、私たちにも言われていることでもあるのと言えます。私たち、クリスチャンはキリストの弟子としてどのように生きるべきなのか、今日の箇所から学びたいと思います。

(1)イエスの弟子が語るべきこと
 2節を見ると、主イエスは12人を「神の国を宣べ伝えるために」遣わされたと記されています。主イエス自身も、働きを始めた時に言われたことは、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」というメッセージでした。教会が、そして、一人一人のクリスチャンが他の人々に語るべきことは、神の国についてです。この世の人々は、この世界、人間の世界がすべてだと思っています。そして、自分たちがこの世界を支配しているように考えます。しかし、聖書は、この世界は神によって造られたものであり、その世界は、目に見える世界だけでなく、目に見えない世界があり、本当の支配者は神であることを教えています。主イエスが、ある時、「愚かな金持ち」の話をされました。ある農夫が豊作に恵まれ、収穫した穀物を入れる倉庫が足りないほどで、死ぬまで遊んで暮らせるほど金持ちになりました。彼は、安心して、死ぬまで、食べて飲んで楽しもうと思いました。ところが、その時神からのメッセージが届きました。「愚かな者よ。今夜お前のいのちは取り去られる。お前が蓄えたものは誰のものになるのだ。」この金持ちのように、自分の人生をこの世界だけのものだと信じるならば、死ぬ時にすべてのものを失ってしまいます。しかし、聖書には、肉体の死ですべてが終わるのではなく、その後に神の国の生活があることを教えています。私たちは、このことをこの世の人々に伝えて行かなければなりません。

(2)イエスの弟子は主と同じ心を持たなければならない。
 主イエスは、12人の使徒たちに「彼らに、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威とをお授けになりました。」そして、彼らを、人々の病気を治すために遣わされました。12人の使徒たちの第一の使命は神の国の福音を宣べ伝えることでしたが、彼らが人々にそのメッセージを語る時に、そのメッセージが本当に神から与えられたのものであることを示す証拠が必要でした。今の私たちには新約聖書がありますから、メッセージの内容が本物かどうかは、新約聖書に書かれている内容と比べればすぐに明らかになります。しかし、当時は、まだ新約聖書はありませんから、主イエスは、12人に、主ご自身が行われたのと同じ力ある働きを行う力を与えられました。主イエスが病気を癒したり、悪霊を追い出したりする姿を見た時に、人々はイエスには神の権威と力があることを認めていました。ですから、使徒たちが主イエスと同じような力ある働きをすることによって、彼らが語るメッセージがイエスの教えと同じ、神からのものであることを人々は確認することができたのです。この神の力は、新約聖書が完成した後は、それほど必要ではなくなりました。使徒の働きの時代、つまり、イエスの弟子たちによって各地に福音が広められつつあった時代でさえ、そのような奇跡の働きは少しずつ消えて行きました。パウロは、福音宣教の働きを始めたころは、神の力を受けて人々が驚くような奇跡の業を行っていました。使徒の働き19章12節には「パウロの身に着けている手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てると、その病気は去り、悪霊は出て行った。」と書かれています。しかし、彼の生涯の終わりの頃は、そのような働きをしていなかったようです。パウロの愛弟子のテモテは胃腸が弱かったようですが、彼に癒しをする人を捜せとは言わずに、「水ばかり飲まないで、時にはブドウ酒を飲みなさい。」とアドバイスしています。
 イエスが弟子たちにこの力を与えたもう一つの目的は、苦しむ人々を覚えて、その人々を助けるためでした。主イエスの奇跡のほとんどが人々の病気を癒すことと悪霊から解放することでした。主イエスが奇跡の働きを行うのは、自分の特別な力を人々に見せびらかすためではありません。苦しんでいる人を見て、かわいそうに思って、その人々を助けられました。教会や私たちクリスチャンは、そのイエスの心を自分の心をとして生きることが求められています。自分のことだけを考えるのではなく、主イエスのように周囲の人々に目を留めること、自分にできることでその人々を助ける者になる、これが、主イエスの命令「隣人を自分を愛するように愛しなさい。」の意味であると思います。私たちだけが周囲の人々にできることは何か。それは、人々を救いに導くことです。病気や貧しさから人々を救うには、私たちには限界があります。また、聖書の教えでは、人間にとって最も大きな問題は罪からの解放、救いです。私たちは、主イエスと十字架の意味を知って、自分の罪を悔い改めて、罪が赦されました。そして、神のこどもとなる特権が与えられて、永遠のいのちの約束を得ました。人々をこの永遠の救いに導くこと、これが私たちにできる最も大きな働きです。

(3)神を信頼して生きる
 主イエスは12人の使徒たちに人々を病気や悪霊の苦しみから解放する力をお与えになりましたが、ここに一つの心配がありました。それは、使徒たちがその力を使って、自分の利益を得ることです。今でもそうですが、人々は苦しみから解放されるためには惜しみなくお金を使います。主イエスはその危険を知っていましたので、マタイの福音書の記事によれば、イエスは使徒たちに「病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」と言われました。そして、自分の生活の必要については、神に信頼して信仰によって生きることを教えられました。それで、主イエスは弟子たちに「旅のために何も持って行かないようにしなさい。杖も、袋も、パンも、金も。また下着も、二枚は、いりません。」と言われたのです。彼らが送り出されると、街々を訪れるために旅をしなければなりません。杖は、状態の悪い道を歩くときには必要ですし、悪者に襲われた時には自分を守るために必要なものです。マルコの福音書では、主は「杖一本のほかには何も持って行ってはならない」と言われていますので、杖は1本以上持って行ってはいけないということだと思います。袋とは、当時、説法をして町を回るユダヤ教の教師たちは、お布施としてもらったお金を入れる袋を持っていました。彼らは、金を儲けるために出かけていくのではないので、袋やパンやお金や服なども、持って行ってはならないと言われました。そして、主がすべての必要を満たしてくださるという信仰を持って生きることを教えられました。非常に厳しい命令ですが、これは、12人を将来の働きのために準備する訓練の期間だったので、ある意味、特別な命令でした。私たちも、主を信頼することをもっと学ぶ必要があるでしょう。主イエスは「何を食べるか、何を飲むか、何を着るかなどと心配するのはやめなさい。天の父なる神は、私たちに何が必要であるかをよく知っておられる。」と言われました。そして「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」と言われました。神の国とは、神様が支配する世界のことであり、神の義とは、神の国に属する人々にとって正しい生き方という意味です。心の中でいつも神様に従うことを最も大切なことと考えて生きる人には、神様は私たちの生活に必要なものを備えてくださるとの約束です。そして、明日のことを心配するのは無用だとも言われました。明日という時間を与えてくださるのは神様であって、私たちが明日を支配しているのではありません。もしかすると私たちの明日はないかも知れないのです。まだ自分のものになっていない明日を心配することは時間の無駄です。むしろ今日一日を神様に信頼して生きることが大切なのです。
 この時、主は12人に対して厳しい訓練をお与えになりましたが、いつも使徒たちにそのような生活を要求されたのではありません。主が12使徒たちと最後の食事をされたときに、主は彼らに次のように言われました。「「わたしがあなたがたを、財布も旅行袋もくつも持たせずに旅に出したとき、何か足りない物がありましたか。」彼らは言った。「いいえ。何もありませんでした。」そこで言われた。「しかし、今は、財布のある者は財布を持ち、同じく袋を持ち、剣のない者は着物を売って剣を買いなさい。」この時の言葉は、9章の命令とは正反対です。この時、主イエスは使徒たちがこれから大きな敵や反対者と対決しなければならないことを知っておられたからです。主イエスは私たちがおかれている状況を常に知っておられます。そして主イエスの命令はその時の状況にかなった命令であることを私たちは忘れてはなりません。

 12人はイエスに送り出されて街々を訪れて神の国の福音を宣べ伝えました。彼らの働きの噂が広がった時、ガリラヤの支配者であったヘロデ・アンテパスに大きなインパクトを与えました。彼は、バプテスマのヨハネの首をはねた男です。彼は、そのことで後悔の気持ちに絶えず襲われていました。彼は、バプテスマのヨハネを正しい預言者だとみなしていたのですが、彼の妻ヘロデヤのたくらみで殺さざるを得ない状況に陥ったのでした。ガリラヤの人々はイエスのことを旧約聖書の預言者エリヤのよみがえりとか、他の預言者のよみがえりなどと噂したので、ヘロデはますます当惑していました。そして彼はつぶやきました。「そうしたことがうわさされているこの人は、いったいだれなのだろう。」イエスとは誰なのだろうか。このヘロデの質問は、実は私たち人間にとって最も大切な質問であり、また私たちは正しい答えを持っておかなければなりません。なぜなら、その質問の答え次第で、私たちの永遠の運命が決まると聖書が教えているからです。弟子たちが忠実にイエスの命令に従ったときにこのような影響を人々に与えました。私たちも、周囲の人々に「イエスとはいったい誰なのか」と考えさせるような生き方をしなければなりません。

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