2017年1月22日 『必要を満たす主』(ルカ9章10~17節) | 説教      

2017年1月22日 『必要を満たす主』(ルカ9章10~17節)

 今日の聖書の出来事は前回の続きなので、少し前回の復習をします。先週、ルカの福音書の9章は、神の子としてのイエスの働きの転換点だと言いました。それまで、主イエスだけが人々に神の国について教え、奇跡の働きをして来ました。そしてその働きはイスラエルの北にあるガリラヤという地方でした。まもなく主イエスはガリラヤでの働きを終えて、別の場所に移動し、最後は、十字架にかかるためにイスラエルの都エルサレムに向かいます。この転換期に、主イエスは、弟子たちを将来の働きに備えるために、彼らに特別な力と権威を与えて、彼らを送り出しました。自分たちで主イエスと同じような働きをするという訓練でした。弟子たちは出かけて行き、村から村へと回りながら、いろいろなところで人々に主イエスと同じように教え、主イエスと同じように病気の人々をいやしました。イエスの弟子たちの噂は、すぐに、その地方一帯に広まりました。その噂は遂にはガリラヤ地方の支配者であるヘロデにまで届きました。弟子たちの働きが、支配者ヘロデに「イエスとはいったい誰なのだ」と考えさせることにつながりました。そして、今日の箇所は、この「イエスとは、いったい誰なのか」いう質問に対する答えとして書かれているということを頭に入れておくことが大切です。
 今日の説教題は「必要を満たす主」で、また中心のストーリーは、主イエスが行われた奇跡の中でも最も大勢の人々の前で行われたもので、主イエスの奇跡の中で4つの福音書が全部記している唯一の奇跡です。その奇跡とは、5つのパンと2匹の魚で、大人の男だけで5000人もの人々の空腹を満たしたというものです。非常に大きな奇跡ですから、私たちはその奇跡にばかり気を取られるのですが、よく読んで見ると9章の10節から17節のところで、主イエスは、人々のいろいろな必要を見ておられ、その必要を一つ一つ満たそうとしておられことが分かります。主イエスはなぜ、私たちの必要を満たしてくださるのか、それは、私たちを愛しておられるからであり、私たちを憐れんでおられるからです。言い換えれば、主イエスの私たちに対する優しさです。今日は、私たちの必要を満たしてくださる主イエスの優しさに目を留めたいと思います。

(1)休息の必要(10節)
 「さて、使徒たちは帰って来て、自分たちのして来たことを報告した。それからイエスは彼らを連れてベツサイダという町へひそかに退かれた。」主イエスは、12人の弟子たちを訓練するために、彼らをガリラヤ地方の伝道のために送り出しました。働きを終えた12人は、イエスのところに戻って来て、自分たちが行った働きについてイエスに報告をしました。主イエスは、弟子たちがこの働きによってどれほど疲れているのかを知っておられました。それで、主は彼らを連れてベツサイダという村に行かれました。ベツサイダというのは、ガリラヤ湖の東側にある非常に小さな村でした。そこに行けば大勢の群衆から離れることができ、弟子たちはゆっくり休んで食事や睡眠を取ることができるのです。マルコの福音書には、弟子たちはゆっくり食事する時間さえなかったと書かれています。主イエスは弟子たちに休息を与えるためにベツサイダに行かれたのです。主は私たちの弱さを知っておられます。それは、主ご自身が完全な人となられたので、多くの苦しみや肉体的な弱さを経験しておられたからです。主は、私たちにも、訓練のために試練や苦しみをお与えになることがあります。しかし、同時に、主は私たちの弱さもよく知っておられるので、私たちを休息を与えてくださる方です。

(2)神の言葉を求める心(11節a)
 このようにして、主イエスと弟子たちはベツサイダに退かれたのですが、11節には次のように書かれています。「ところが、多くの群衆がこれを知って、ついて来た。それで、イエスは喜んで彼らを迎え、神の国のことを話した。」主イエスの近くには、いつも群衆がいました。ガリラヤの人々はイエスの教えの力強さに驚いていましたし、イエスによって病気を癒してもらった人も大勢いたからです。主イエスが弟子たちとベツサイダに向かって出発した時に、群衆はそれを目撃しました。それで、彼らもイエスと弟子たちについて行きました。マルコの福音書を見ると、イエスと弟子たちは船でベツサイダに向かったのですが、人々は徒歩で駆け付けたので、弟子たちよりも先にその村に着いてしまったと書かれています。また、ヨハネの福音書の記事を見ると分かるのですが、彼らの多くは、ただ主イエスから何か得になるものをもらいたいと考えて主イエスを追いかけるような人々でした。彼らの多くは、この出来事の次の日にはイエスに対して腹を立てて去って行きました。もちろん、主イエスは全知全能の神ですから、彼らの心の思いは知っておられたはずです。しかし、それでも、主イエスは彼らを追い返すことをせず、11節を見ると、主イエスは喜んで彼らを変え、神の国のことを話したと記されています。主イエスも疲れていたでしょう。また、主イエスが弟子たちのために休息を与えようとしたことは妨げられてしまいました。それでも、主イエスは彼らを喜んで迎えられたのです。主イエスがまず神の国のことを話されたのは、人々にとって最も大きな必要は、しるしを見ることや主イエスの奇跡によって何かを得ることではなく、神の国の教えを聞き、それを信じることだと彼らに伝えたかったからです。私たちが主イエスを信じる時、確かにいろいろな恵みや祝福を経験します。特に、病気になった時、大きな問題に直面する時に、主イエスを信じていることが大きな力となり助けとなります。しかし、クリスチャンの信仰はただ神から何かを受けることだけを求めることではなく、神の教えに従い、自分自身を神様のためにささげて行くことが大切です。主イエスは、忍耐をもって人々に神の真理を教え続けられました。 

(3)人々を癒された(11b)
 主イエスは、人々に神の国について教えただけではありません。11節の後半に「いやしの必要な人たちをおいやしになった。」と記されています。主イエスの心は、いつも、苦しんでいる人、特に病気で苦しんでいる人々に注がれます。マタイの福音書には、「多くの群衆を見られ、彼らを深くあわれんで、彼らの病気を直された。」ここで「深く憐れむ」と訳されている言葉は非常に強い言葉で、内臓を揺り動かされたという意味を持っています。主イエスは、私たちが苦しんでいる姿を見ることが耐えられず、私たちのために働いてくださる方であることが分かります。

(4)空腹を満たす主(12~17節a)
 主イエスが人々に神の国について教え、人々の病気を癒している間に時間が過ぎ、夕方になりました。イエスの弟子たちは心配になりました。夜が近づいていましたし、ベツサイダは人里離れた寂しい村だったので、人々がどこで食事をし、どこに宿を取るのか分からず心配でした。それで、主イエスの所に来て「この群衆を解散させてください。そして回りの村や部落にやって、宿をとらせ、何か食べることができるようにさせてください。私たちは、こんな人里離れた所にいるのですから。」と言ったのです。ここに弟子たちの不信仰が現れています。弟子たちは、これまで主イエスの力ある業を何度も見てきているのに、主イエスの力はどんな状況をも解決できるという信仰がなかったのです。私たちも、この弟子たちのように考えることはありませんか。以前、神様の大きな力を経験しているのに、今自分が直面している問題があまりにも大きな問題に見えて、主イエスの力を信じることができないというようなことはないでしょうか。私たちは、イエスの母マリヤのように、「神にとって不可能なことは一つもありません。」という神からの言葉を信じる信仰を持たなければなりません。
 弟子たちの訴えに対して、主は「あなたがたで、何か食べる物を上げなさい。」と言われました。これも彼らの信仰を試す言葉です。イエスの言葉を聞いて、弟子たちはびっくりしました。何しろ大人の男性だけで5000人もいるのですから。それで、彼らはイエスに抗議するように答えました。「私たちには五つのパンと二匹の魚のほか何もありません。私たちが出かけて行って、この民全体のために食物を買うのでしょうか。」彼らの答えは、自分たちのうちにはほんの小さなものしかなく、絶対に彼らが満足するような食べ物を与えることはできません。という答えでした。ヨハネの福音書によれば、弟子のひとりピリポは、「一人ひとりが少しずつ食べたとしても200万円以上のお金が必要です。」と答えています。弟子の一人アンデレは、問題を解決するために人々の所へ行って、弁当や食べ物を持っている人はいないか尋ねて回ったのでしょう。すると一人の少年が自分の弁当を差し出したのです。それが、5つの大麦のパンと2匹の魚でした。でも、弟子たちの目には、そんな小さな弁当は何の役にも立たないと思っていました。
 するとイエスは弟子たちに言われました。「人々を、五十人ぐらいずつ組にしてすわらせなさい。」またもや弟子たちはびっくりです。自分たちの手元には何もないのに、主が食事の準備をするように命じられたからです。ただ、弟子たちはイエスの命令に従って、人々を50人ぐらいずつに分けて、座らせました。これは過ぎ越しの祭りが近い時の出来事ですから、季節は春です。イスラエルは春がベストシーズンで、きれいな草花が生えています。この時も、湖のそばには草が十分に生えていたので、人々が座るのにも心地よかったと思います。人々が座ると、主イエスは5つのパンと二匹の魚を手に取って、天を見上げてそれらを祝福して裂いて、人々に配るようにと弟子たちに渡されました。主イエスが天を見上げてパンと魚を祝福されたのは、食べるものを与えてくださるのは神様であることを人々に示すためでした。この時、どのようなことが起こったのか、詳しいことはわかりませんが、主イエスは弟子たちに裂いたパンと魚を与え続けたのです。神の大いなる力が現れました。私たちの頭では理解できないことです。しかし、主イエスは全知全能の神です。何もないところからこの世界とその中にあるすべてのものを作り出した創造主なる神ですから、主イエスにとっては簡単なことです。私たち人間も神様から多くの能力を与えられていますので、技術が進歩していろいろなことができるようになりました。人間が働いている姿を、もし、アリが見たらどう思うでしょう。人間が何かもの投げる姿を見たとします。アリには何が起こったか分かりません。自分たちは毎日重いものを担いで地面の上を一生懸命歩いています。10メートル物を運ぶのにアリはどれだけ歩かなければならないでしょうか。しかし、人間は運んで歩かなくても、それを投げることができます。この動きはアリには理解できません。神様は、人間よりもはるかにスケールの大きい方です。不可能なことは何一つない方ですから、この奇跡は神にとっては簡単なことです。しかし、主イエスがこの奇跡を行われたのは、自分の偉大な力を見せるためではありません。空腹で人々が苦しむ姿を想像して、人々を憐れまれたからです。彼らを助けたいと思われたのです。主イエスは、人間にとって最も大切なことは神の国の教えであり神の言葉であることを知っておられますが、私たちの肉体的な必要を軽く見ておられるのではありません。主は私たちの肉体の必要さえも喜んで満たしてくださる方なのです。

(5)弟子たちの必要を満たす主(17節b)
 主イエスは、このようにして群衆の空腹を満たされましたが、主は弟子たちのことを忘れてはいませんでした。弟子たちは、主イエスの命令に従って食べものを配る働きをしていましたので、自分たちは食べることができませんでした。それで、主は余ったパン切れを集めさせました。すると12のかごがいっぱいになりました。12のかごがいっぱいになったのは、12人の弟子たちが食べるのに十分なものが集められたことを意味します。このように、主イエスの心配りは完璧でした。この主イエスは今も生きておられます。私たちの弱さや足りないところを見て、いつでも私たちを助けてくださるお方です。私たちは、どんな時も、主を見上げて、主に信頼して歩むとき、私たちの必要を知っておられる主は、私たちの思いを超えて必要を満たしてくださいます。あなたは、主の満たしを信じますか?最後にイザヤ書30章18節を読みましょう。「主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。」

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