2017年1月29日『豊かに蒔く者と少しだけ蒔く者』(2コリ9:1-15) | 説教      

2017年1月29日『豊かに蒔く者と少しだけ蒔く者』(2コリ9:1-15)

 この手紙はパウロがギリシャのコリントという都市にあった教会に書き送った手紙です。コリントは当時のギリシャでは最大の商業都市で人々の生活は豊かでした。従ってコリント教会のメンバーも豊かな人が多かったようです。パウロがこの手紙を書いた時は、第3回目の伝道旅行中でした。パウロはローマ帝国内の地中海沿岸の街々を訪れて、イエス・キリストの十字架と復活を人々に教えていましたが、彼にはもう一つの目的がありました。それは貧しさに苦しんでいたエルサレムの教会を助けるために、これまでに自分が築いた教会を訪れて、献金の協力を求めることでした。キリスト教会は、ペンテコステの日にエルサレムで始まりました。最初のクリスチャンの大部分は元々ユダヤ教徒であったユダヤ人たちです。パウロは、全世界の教会、特に異邦人のクリスチャンたちは、救いの恵みに預かったことにおいて、ユダヤ人に借りがあると考えていました。ですから、今こそ、彼らを経済的に助けることが、彼らに対する借りを返すことになるとパウロは思ったのです。パウロが2回目の伝道旅行を始める前に、いくつかの問題を解決するためにエルサレム教会を訪れました。そこで、エルサレム教会のリーダーたちと話し合った結果、パウロの異邦人伝道の働きが正式に認められたのですが、その時に、パウロはエルサレム教会のリーダーたちから、「貧しい人たちをいつも顧みるように。」と頼まれていました。(ガラテヤ2:10) 彼は、その時に頼まれたことを忘れていなかったので、彼の頭には常にエルサレム教会を援助することがありました。なぜ、エルサレムの教会は貧しかったのでしょうか。一つは、この教会はペンテコステの日に生まれた教会です。ペンテコステとは、イエスが天に帰られてから10日後、大麦の収穫の終わりを祝う「7週の祭り」のことですが、実は、この祭りには海外に住む大勢のユダヤ人たちが集まっていました。ちょうどその時に、イエスの弟子たちに聖霊がくだって、彼らに新しい霊的な力が与えられました。ペテロがその日、力強くイエス・キリストの十字架について語ると一度に3000人もの人が救われて、エルサレム教会が誕生しました。そのメンバーの大部分が祭りに参加するためにたまたまエルサレムに来ていた人々でしたので、彼らは、エルサレムに残って信仰生活を続けていましたが、仕事もなかったでしょうし、持ち物を共有する生活にも限界があったと思います。また、使徒の働きの11章に記されていますが、ユダヤ地方に大きな飢饉が起こって、その影響が長く続いていたこともその原因の一つでした。パウロが異邦人伝道を行った結果、ユダヤ人クリスチャンと外国人クリスチャンが生まれたのですが、この2つのグループには何かしら壁のようなものがあって、時折教会の中でトラブルが起きていました。パウロは、ギリシャの異邦人中心の教会が、ユダヤ人中心のエルサレム教会に献金を送るという愛の働きを行うことによって、2つのグループ間にあった壁が崩れることを期待していたと思います。

 そういう訳で、パウロはコリントの教会にもエルサレム教会への献金に協力するように頼んでいました。第1コリントの16章1~3節にそのことが記されています。それで、コリント教会の人々はパウロの要請に対して、喜んでエルサレム教会に献金すると約束をしていました。パウロはコリント教会の協力を非常に喜び、その献金を受け取るためにまっすぐコリントに行こうと計画したのですが、何かの理由で計画が変更になり、コリントに行く前にマケドニアの諸教会を訪問することになりました。ギリシャ北部のマケドニアには、ピリピ教会やテサロニケ教会がありましたが、この地方の教会も貧しい教会でした。第2コリントの8章1~3節には次のように書かれています。「さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。」パウロがピリピやテサロニケの教会を訪れた時に、エルサレム教会への献金の協力を頼んだのですが、その時、彼らに、コリントの教会がエルサレム教会のために熱心に献金を集めていることをパウロは知らせたようです。すると、マケドニアの教会の人々も、自分たちが非常に貧しかったにもかからわず、熱心に献金を集めました。パウロの言葉によると、彼ら極度の貧しさにもかかわらず、自ら進んで自分の力以上に捧げたのです。そして、パウロは、いよいよコリント教会に行って献金を受け取ろうと考えたのですが、マケドニア滞在中に、コリント教会がエルサレム教会のために献金をすると約束していたにも関わらず、まったく献金を集めていないことが明らかになったようです。それで、コリント教会が約束した献金がどうなっているのかを確かめるために、パウロは一緒に働いていたテトスという人とその他2人のマケドニアの教会の信徒をコリント教会に送ることを決めました。それらのことは8章の16節から9章の3節に書かれています。極度の貧しさを経験していたマケドニア教会の人々は、コリント教会の献金の姿勢を聞いて感動し、それで、彼らも自分たちの力以上の献金を捧げたのです。ところが、彼らがコリント教会に行った時に、裕福なコリント教会では献金の準備さえなされていないことを見たならば、パウロは非常に大きな恥をかくことになります。パウロがマケドニアの教会で、コリント教会のことをほめていたことがまったく嘘だったことになるからです。それで、パウロは、3人の人物をコリント教会に派遣すると同時に、コリント教会の人々に、「献金を、惜しみながらするのでなく、好意に満ちた贈り物として用意しておいてください。」と頼んでいるのです。
 5節でパウロは「贈り物」という言葉を2回使っていますが、ギリシャ語では「ユーロギア」という言葉が使われています。この言葉は、元々「神の祝福」とか「神への賛美」を意味していましたが、そこから「惜しみない贈り物」という意味を持つようになりました。神様が私たちに与えてくださる祝福はケチケチした祝福ではありません。神様は祝福においても恵みにおいても憐れみにおいても豊かな神です。また、私たちが神様をほめたたえる時、本当に神様を信じ、神様を愛し、神様を礼拝する人なら、大きな心、感謝と喜びをもって神様を賛美します。ユーロギアという言葉には豊かさというものが伴っています。ですから、私たちが神様にささげるものは、豊かな心でささげることが大切なのです。

 コリント教会の人々は、豊かな献金を捧げることを決心していましたが、いつの間にか、時間が経つにつれて、エルサレム教会の人々に対する熱い思いが冷めてしまっていました。そこでパウロはコリント教会の人々に、献金を捧げることは、種まきと収穫の関係と同じであることを教えています。その原則は、私たちが捧げものによって他の人々に祝福を与えるのに比例して、神様は私たちを祝福してくださるということです。少しだけ種を蒔いたら、収穫も少しです。しかし、豊かに種を蒔けば、その人は豊か収穫を得ることができます。パウロがコリント教会のクリスチャンに教えようとしている点は、与えることとは種を蒔くことと同じであるということです。言い換えれば、与えたものは失うのではないということです。私たちが捧げるものは、農夫が蒔いた種のように、やがてそれが祝福という実を実らせるのです。他の人が神の祝福を受けることを願って、神を信頼して信仰の捧げものをする人には、神様は豊かな祝福を注いでくださるという約束は聖書に繰り返し記されています。箴言11章24-25節には次のように記されています。
「ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある。 おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤される。」
 
では、私たちはどのように捧げものをするべきなのでしょうか。パウロは7節で次のように述べています。「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」この言葉の中に献げものについて4つのことが述べられています。1)「心で決めたとおりにしなさい」「心で決めたとおりに」と訳されていますが「心で決める」という言葉は、新約聖書ではここだけに使われている言葉で「前もって準備して選んでおく」という意味を持っています。捧げものは、その時の気分で捧げるものでもないし、行き当たりばったりで捧げるものでもありません。私たちは、神様に捧げる時は、そのことを神に祈り、神の御心にかなう捧げものだと確信して捧げなければなりません。2)「いやいやながら捧げるのではない」いやいやながら捧げるとはどういうことでしょう。捧げものをすることが悲しいことであり、もったいないと思い、捧げたくないという気持ちを持つことです。捧げものをすることが喜びではなく、ハッピーな気持になれないことです。そのような捧げものを神様は受け取られません。もし、誰かがあなたにプレゼントをする時に、その人が、「これあなたにあげたくはないし、あげるのはもったいないと思うけれど、あなたにあげろと言われたからあげます。」と言ったら、あなたはそのプレゼントを喜んで受け取りますか。そんなプレゼントをもらったら、後で、その人に会うたびに気まずい思いをすることになります。その人がプレゼントをしたことで悔しい思いをしていることが分かっているからです。神様は、私たちの心の中を見ておられます。アダムとエバの子どもであるカインとアベルが神様に捧げものをしました。神様はアベルの捧げものを受け取られましたが、カインの捧げものは受け取られませんでした。聖書にはその理由ははっきりとは書かれていませんが、カインの捧げものが喜びと感謝の思いにあふれた捧げものでなかったことは明らかです。いやいやながら捧げるぐらいなら、ささげないほうがましです。3)「強いられて捧げるのではない」捧げなければならないから捧げる贈り物も、受け取る人を喜ばせることはありません。その贈り物に心がこもっていないことが分かるからです。そのような贈り物は相手のために捧げたものではなく、贈り物をする人が、自分の気持ちを満足させるために捧げるものなのです。あるいは、贈り物をすることで、自分がよい評判を得ようとして捧げる場合もあるでしょう。その場合はプライドによって捧げられたものです。その人は、もし誰も見ていなかったり、贈り物をしても誰も評価してくれないとなれば、その贈り物をささげることはないでしょう。4)「喜んで与える」私たちが捧げるものはどのようなものであっても、究極的には神様に捧げています。私たちは、自分が好きな人にはプレゼントをすることは苦痛でなく喜びです。好きな人にバレンタインデーのチョコレートをプレゼントするために、自分で手作りのチョコレートを作っている時、義理チョコでなければ、その作業は面倒くさいことではなく、喜びです。愛する人のためのプレゼントは悲しいことでもなく、強制されてするものでもなく、贈ることが喜びです。取税人のザアカイは、主イエスに出会うまでは、人にプレゼントをすることなんかありませんでした。お金を貯めることだけが人生の楽しみでした。ところが主イエスと出会って、彼の価値観がすっかり変わってしまい、自分がこれまで一生懸命に蓄えてきた財産を、惜しげなく貧しい人に捧げました。ザアカイは、なぜ、そんなことができたのでしょうか。主イエスに出会って、主イエスに愛されていること、自分の罪を赦してもらったことを経験したことで、主イエスを心から愛する人に変えられたからです。パウロは第二コリント8章9節で次のように述べています。「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」主イエスは、私たちが心も体も魂も豊かな生活をするようにと、自分から貧しい者になってくださり、私たちの身代わりとなって十字架の死さえも引き受けてくださいました。私たちは、主イエスのそのような絶大な愛によって愛され、守られ、希望に満ちた将来を約束されているのです。主イエスの愛を知れば知るほど、私たちは主イエスに贈り物をすることは、喜びとなります。主イエスを信頼して、主に守られ導かれていることに感謝しつつ、私たちは、神様に喜んで捧げるものでありたいと思います。

 100年以上前のことですが、アメリカのマサチューセッツ州にウィリアム・ダグラスという男がいました。長い間仕事がなく、とうとう持ち金が1ドルだけになりました。しかし、日曜日の礼拝の時に、彼は50セントを献金しました。彼にとっては財産の半分を捧げる大胆な献金でした。翌日、彼は、隣の町に仕事口があることを聞いたのですが、その町までの電車代が1ドルでした。彼には50セントしかありません。それで仕方なく50セントの切符を買って、途中の町まで行き、そこから歩いて目的の町まで行くことにしました。ところが、神様は彼にもっとよい仕事を備えておられました。彼が途中の町で列車を下りて駅を出て歩き始めたとたん、働き人を募集している工場がありました。そこで、彼は週給5ドルの仕事に就くことができました。その給料はもともと行こうとしていた工場の給料よりも良かったのです。彼は懸命に仕事をし、後にマサチューセッツ州で有名な靴工場を建て上げ、やがて、彼の会社はアメリカでもトップの企業になりました。さらに、1905年から1906年にかけて彼はマサチューセッツ州の州知事にもなりました。神様は、このように喜んで捧げる者には、豊かな祝福を与えてくださいます。私たちも、主イエスの愛に感謝しつつ喜びと信頼をもって神に捧げたいものです。

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