2017年2月5日 『人生で最も大切な質問』(ルカ9章18~27) | 説教      

2017年2月5日 『人生で最も大切な質問』(ルカ9章18~27)

 ルカは、9章において、この福音書を読む者に対して最も大切な質問を投げかけています。それは、「このイエスとは誰なのか」という質問です。この質問を最初に口にしたのは、ガリラヤ地方の支配者であった、ヘロデ・アンテパスという人物です。それは、主イエスが12使徒たちを訓練するために、彼らに特別な力と権威を与えて、イエスと同じ働きをするために送り出したことがきっかけでした。12使徒たちは、村から村へと回りながら、あらゆる所で神の国について教え、また人々の病気を癒しました。その噂がヘロデにも伝わり、「イエスとはいったい誰なのだろう。」と考えるようになったのです。このヘロデの質問の直後に記されているのは5つのパンと2匹の魚だけで5000人の大人の空腹を満たすという主イエスの大きな奇跡です。これは、ヘロデの質問に対する答えとして記されていると考えることができます。ルカがヘロデに伝えたかったのは、このイエスが、何もないところからこの世界とその中にあるすべてのものを創り出した創造主なる神だということでした。
 この大きな奇跡の後、他の福音書には7つの出来事が記されています。これらの出来事も主イエスの生涯において大切なものですが、ルカはそれを全部省いて、もう一度「イエスとは誰なのか」という質問を取り上げています。なぜ、ルカはマタイやマルコやヨハネ以上にこの質問をっ重要なものとして取り扱っているのでしょうか。それは、主イエスが、ガリラヤ地方を中心に行って来た働きを終えて、いよいよ十字架に向かって歩み始められたからです。そのことをはっきり教えているのが9章51節の言葉です。「さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられた。」主が十字架にかけられる日が近づいている時に、すでに3年近く主イエスとともに生きてきた弟子たちが、イエスが誰であるかをはっきりと知っておくことはどうしても必要なことだったのです。そして、この質問は、すべての人にとっても、人生で最も大切な質問です。イエスを誰だと見るか、これによって、私たちの永遠の運命が決まるからです。今日は、「イエスは誰か」という質問について考えましょう。

(1)イエスの第一の質問
 主イエスは、洗礼を受ける時や12使徒を選ぶ時など、大事な出来事や大事な決断をする時には必ず一人退いて父なる神と祈りの時を持っておられました。この時もイエスは一人で祈っていたと書かれていますが、そのそばには弟子たちも一緒にいました。他の福音書を見ると、この時、イエスと12使徒たちはガリラヤ地方のさらに北にあるピリポ・カイザリヤという場所にいました。ここは、イスラエルの北の端で、ヘルモン山という山のふもとです。その場所にはギリシャ人が神殿を築いており、パニオンと呼ばれていました。ところが、ヘロデ大王がその場所をローマ皇帝アウグストに捧げ、その町を受け継いだ息子のピリポが、その場所の名前を皇帝カエサルに捧げたのでカイザリヤとしました。ただ、地中海沿岸にもカイザリアという町があったので、区別するために、ピリポは自分の名前をとって、ピリポ・カイザリヤと名付けました。山のふもとにある場所でしたが、この時、主イエスと12使徒たちは群衆から離れて、彼らだけで静かな時を過ごしていました。これまでの3年近くをイエスとともに過ごした12使徒たちをこの世に残していかなければならないことを知っておられたイエスは、12人がイエスの弟子として合格なのかどう見るための最終試験のような感じで彼らに2つの質問をされたのです。
 第一の質問は、「群衆はわたしのことをだれだと言っていますか」という質問でした。すると、使徒たちは答えました。「バプテスマのヨハネだと言っています。ある者はエリヤだと言い、またほかの人々は、昔の預言者のひとりが生き返ったのだとも言っています。」群衆は、これまで、主イエスの力と権威に満ちた教えを聞いて感動していました。また、イエスが病気を癒したり、悪霊にとりつかれた人を解放したりする様子を見ていましたので、誰もがイエスは素晴らしい方であると思っていました。彼らは、主イエスの教えや働きが旧約時代の預言者エリヤやエリシャのようだと考えていましたが、旧約聖書が初めから終わりまで預言をしていた「メシヤ」だと考える人はいなかったようです。今でも、人々はイエスについてさまざまな考えを持っています。イスラム教では、イエスは最も偉大な預言者と見なされていますが、彼らはイエスを神とは考えません。また、ある人々は、イエスは人々の願いから生まれたもので、イエスの物語は人間が作り上げたものだと考えます。しかし、世界の歴史の動きを見る時に、絶大な権力を誇ったローマ帝国が300年近くもかかってキリスト教を滅ぼそうと迫害を続けましたが、キリスト教はつぶされることなく、かえって、ローマ帝国はキリスト教の国になってしまいます。架空の物語がこれほど歴史を変える力があるでしょうか。また、多くの人は、イエスを素晴らしいモラルを持った教師だと考えています。しかし、イエスが語った言葉を見ると、もし彼が神でないとしたら、偉大な教師であることは絶対にありえません。主イエスはある時言いました。「私が道であり、真理であり、いのちなのです。」主イエスは、「私は道を見つけた。私は真理を見つけた。私はいのちを得た。」と言ったのではありません。主イエスは、私が道そのものである。私が真理そのものである。私がいのちそのものである。と言われたのです。普通の人間がこんなことを言ったら、だれもが、この人間は頭が狂っていると考えるに違いありません。もし主イエスを、神と認めないなら、イエスはとんでもない悪人か詐欺師か、あるいは気が狂っていたとしか考えられないのです。

(2)イエスの第二の質問
 弟子たちが、あれこれと答えていましたが、主は人々の評判や考えには無関心のようでした。弟子たちの答えに対して、何もコメントをせずに彼らに言われました。「では、あなたがたは、わたしを誰だと言いますか。」ギリシャ語では、ここでイエスが言われた「あなたがたは」という言葉に非常に強い意味が込められています。「人々は、私のことについてあれこれ、いろんなことを言うでしょう。それは気にする必要はありません。ただ、あなたたちは私を誰だと言うのですか。」そんな感じの表現です。主イエスは、3年近く教え養って来た12人が自分の言葉で主イエスを信じる信仰告白を聞くことを強く願っておられたことが分かります。主イエスは、弟子たちが、この世の人々の考えではなく、自分が信じていることを自分の責任で答えることを求められました。このことは今でも同じです。主イエスは、一人一人が自分の責任でイエスを信じる信仰告白をすることを私たちにも求めておられます。教会の小西牧師がこう言っていたとか、教会の先輩がこう言っていたとか、親がこう言っていたとか、他人まかせの信仰告白ではなく、自分自身の個人的な告白でなければならないのです。
 沈黙を破って、最初に口を開いたのは、やはりペテロでした。ルカでは「神のキリストです。」と書いてありますが、マタイでは、ペテロは「あなたは、生ける神の子キリストです。」と答えています。「キリスト」という言葉について、多くの人は「イエス・キリスト」という名前から、イエスが名前でキリストが苗字だと考えています。しかし、実際には、「キリスト」は名前の一部ではなく、役職を表す言葉で、ヘブル語の「メシヤ」という言葉をギリシャ語に翻訳して作られたもので、もともとは「神によって油を注がれた者、救い主」という意味を持っています。これがギリシャ語に翻訳されて「キリスト」となりました。旧約聖書は、最初の本である創世記から最後の書であるマラキ書に至るまで、一貫して、いつの日か必ず神によって油を注がれた救い主が来られることを預言しています。ですから、ここでペテロが「生ける神の子キリストです。」と答えたのは、もう少し詳しく説明すると、「旧約聖書がずっと預言してきた、そして、イスラエルの人々がずっと待ち望んでいた、メシヤと呼ばれる救い主、あなたこそその救い主です。」そのような告白なのです。私たちは、主イエスを誰だと言うでしょうか。私たちは、この世の人々の考え、キリストを唯一の神と認めない人々からプレッシャーなどの影響を受けて、自分の信仰告白が少しずれてしまっていないでしょうか。周囲の人々が何と言おうと、私たちも、ペテロのように、「あなたこそ、生ける神の子キリストです。」と自分の口と心で告白しなければ、本当のクリスチャンとは言えません。

 ペテロが弟子たちを代表してこのように信仰告白をした時に、弟子たちに「このことを誰にも話さないようにと彼らを戒めて命じられました。イエスはなぜ、このようなことを言われたのでしょうか。それはマタイの福音書に記されたイエスの言葉にヒントがあります。主イエスはペテロの信仰告白について、「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」と言われました。ペテロが素晴らしい信仰告白ができたのは、ぺテロの人間的な力や才能から告白できたのではなく、神様から示された結果の告白だったのです。別の言い方をすると、ペテロの信仰告白は、あまりにもこの世の人々が期待していた救い主を待つ信仰とは異なっていることを示しています。この世の人々は、イスラエルにローマ帝国からの独立をもたらす政治的な権力を持ったメシヤを待ち望んでいました。しかし、神の御心はまったく異なっていました。自己中心という罪の中に魂が死んでしまっている私たちが救われるためには、「生ける神の子キリスト」が私たちの身代わりになって、十字架で死ぬことと、三日目に復活することこそ必要なことだったのです。

 私たちの救い主は、私たち罪びとを救うために自分の命を十字架に捨ててくださった方です。クリスチャンは、そのイエスを主と仰いで生きることが求められています。しかし、今の時代のクリスチャンは、本当に主イエスの弟子として生きているのだろうか、疑問を抱いている人もいます。私は昨年「ラディカル」という本を翻訳しましたが、この本の著者のデビッド・プラットという牧師は、アメリカで最も若くしてメガチャーチと呼ばれる巨大な教会の牧師になりました。礼拝の内容も豊かで、集まっているクリスチャンたちも才能にあふれている人が多かったのですが、彼は疑問を感じるようになりました。それは、多くのクリスチャンが、自分の夢、アメリカンドリームを実現するために信仰を利用しているように見えたからです。自分の生活、夫婦関係、経済状態が良くなるために信仰をしているように見えたのです。教会のメンバーの大部分の人は、キリストを知らない人に福音を語ることにはまったく無関心でした。キリストのために犠牲を払うことは全く考えていなかったのです。しかし、主イエスは言われました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。」1930年代のイギリス最高の作家サマセット・モームは最高の栄誉と財産を手に入れていました。1965年91歳になって、本を何年も書いていないのに、毎週300通ものファンレターが届いていました。地中海を望む豪邸に、11人の召使を抱えて暮らしていた彼も、年を取り、すでに死が近づいていました。もはや豪華な家具も銀の食器も何の意味もありません。彼にはロビンというクリスチャンの甥がいて、彼から聖書をもらっていたので、モームは聖書を読んでいました。そして、「たとい全世界を手に入れても自分自身を損じたら何の得があるのか」という箇所に来たのです。彼は甥のロビンに言いました。「子供のころからこの言葉を知ってたが、くだらない言葉だよ。」ロビンが書いた記事によると、モームは、何度も死を恐れて叫んでいました。「まだ死んでいないんだ。死神よ近寄るな。まだ死んでいない。」彼は全世界を手に入れましたが、自分のいのちを失った人間でした。

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