2017年3月5日 『将来への備えはできていますか』(ルカ9章28~36節) | 説教      

2017年3月5日 『将来への備えはできていますか』(ルカ9章28~36節)

 主イエスが弟子たちに弟子としての生き方を教えた次の週、8日後の出来事が、今日読んでいただいた聖書の記事です。主イエスが12弟子の中のペテロとヨハネとヤコブの3人を連れてお祈りをするために山に登りました。マタイの福音書には「高い山」と記されているので、たぶん、イスラエルで最も高いヘルモン山に登られたと思います。ヘルモン山はガリラヤ湖の北50キロにあり、頂上は3000メートルに達します。主イエスは、その山に祈るために登られました。後何か月かすると主イエスは十字架にかけられます。罪や悪をまったく知らない、言い換えると、罪や悪をもっとも嫌う聖なる神である主イエスが、私たちの心の中にある様々な悪いものをすべて自分が背負って、その罰として十字架刑を受けるのです。このことが主イエスにどれほどの心の重荷であったのか、私たちには理解できません。また、主イエスの十字架は、旧約聖書の最初、アダムとエバがエデンの園にいた時からすでに、私たちのために計画されていたことで、それが実現する日がいよいよやって来たという、主イエスにとってはきわめて重要な時が近づいていたのです。しかし、この時主イエスが山に登られたのは、それだけではなく、自分の弟子たちのために祈るためでもありました。

 おそらく彼らは朝早く出発して、ヘルモン山には夕方ごろ到着したでしょう。そこで主イエスが祈っておられたのですが、その時、イエスの顔の様子が変わりました。そして、主イエスの衣がまばゆいほどに白く輝きました。主イエスが父なる神に向かって祈っている時に、イエスの神としての栄光の姿が一瞬現れたのです。本来、イエス様は、栄光に満ち満ちておられたのに、私たちと同じ姿、同じ弱さをまとってこの世に来てくださいました。山の上で、3人の弟子たちは、主イエスが本当に神であることを再確認し、神の栄光を見ました。さらに、彼らは、主イエスがモーセとヨシュアの二人と話し合っているのを見ます。弟子たちは、モーセとエリヤには実際にあったことがありませんから、なぜ彼らがモーセとエリヤだと分かったのか、その理由は分かりません。でも、これは私にとってはうれしいことです。というのは、クリスチャンは死ぬと、その魂はパラダイスに行き、そこで、先に天に召された家族や信仰の仲間と会うのですが、大勢の魂がいるので自分の親しい人の魂に会えるのかなと考えてしますのですが、心配することはありません。この世とパラダイスはまったく違う世界ですが、そこへ行けば必ず親しい人に会えるし、また、会ったことのない信仰の大先輩、例えば、マルチン・ルターとか、ペテロとかも、すぐに誰であるか分かるのです。だから、パラダイスに行くことは本当に楽しみです。私は出身高校の24期生なんですが、とても仲良く、全学年10クラスの同窓会を5年ごとに大阪で行っています。同窓会に行くと、高校時代には話したこともない人でも、長年の友達のように楽しく話ができます。パラダイスは、全世界の、全歴史を通してのクリスチャンの同窓会みたいなものですから、それはそれは楽しい所だろうと私は今から楽しみにしています。主イエスは、これから十字架の苦しみをお受けになりますが、自分の弟子たちがこの世で大きな苦しみを受けることを知っておられたので、彼らに天国の希望を見せることで励まそうとされたのだと思います。

 モーセは、エジプトで苦しんでいたイスラエル民族を助け出し、神様が約束された土地まで人々を導いて行った人物ですので、ユダヤ人の間では、イスラエルの国を作り上げた父親のような存在です。一方、エリヤは旧約聖書で最も大きな働きをした預言者であり、また、世の終わりが来る時に、エリヤが現れるという預言があります。モーセ、エリヤ、イエス、この3人は、神様の計画を実行するうえで最も重要な3人だったと言えます。また、31節には「イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していた。」と記されていますが、実は、新改訳で「最期」と訳されているのはギリシャ語では、「エクソダス」という言葉、すなわちかつてイスラエルの民が経験した、エジプトでの奴隷状態から脱出して神様が与えてくださる約束の国での新しい生活を意味する言葉が使われているのです。それは、主イエスが十字架にかかることが、すべての人にとって、古い生活、いろいろなものに縛られた生活から、新しい生活へと移って行くために必要だということを示しています。エクソダスとは、自由に向かって出発することなのです。主イエスは、全世界の人々が自己中心という生き方から解放されて、本当の意味での自由を持って生きることができるようになるために十字架に掛られるのです。弟子たちは、毎日の訓練で疲れていたでしょうし、この時は朝早く起きて山に登ってきたため、、特に疲れていたのでしょう。彼らは、主イエスがモーセとエリヤと話している間、意識がもうろうとなっていましたが、まばゆい光を感じて眠りから覚めると主イエスがモーセとエリヤと光の中で話し合っていたのが見えたのでびっくりしました。ところがモーセとエリヤがどこかに立ち去るような雰囲気だったので、ペテロは慌てて「先生、小屋を三つ建てましょう」と言いました。その時の雰囲気が本当に素晴らしかったので、ペテロはいつまでもその雰囲気に浸っていたかったのだと思います。ペテロは今経験している素晴らしさを失いたくなかったのです。しかし、信仰の本質は、素晴らしい経験をすることではありません。神様はそれをペテロやヨハネ、ヤコブに教えるために、輝ていた3人を突然雲でおおいました。弟子たちにはもう3人の姿は見えませんでした。そして、天から声が聞こえて来ました。「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい。」この父なる神の言葉は、クリスチャンの信仰の土台が、何か特別なことを経験することにあるのではなく、いつも神様の言葉、すなわち聖書の言葉に耳を傾けて、そしてその言葉に生きることであると教えています。

 ここで、なぜイエスの姿が変わったのでしょうか。これは、主イエスにとっても、またイエスの弟子たちにとっても、まじかに迫っていた十字架の苦しみの後に素晴らしい栄光と勝利があることを知らせるためであったと思われます。主イエスは大事な出来事の前によく祈られましたが、今回も、十字架にかかる時が近づいていたので、そのために祈っておられました。するとその祈りに答えるように主イエスが栄光の姿に変えられました。主イエスの体は、復活の後、見た目には同じでしたが全く異なる栄光の体に変わっていました。十字架の苦しみの先に栄光の時が来ることを知っていることは、主イエスにとっても、また、私たちにとっても大きな力になります。私たちの人生にも、辛いことや苦しいことが起きる時もあります。年を取れば、自分が地上で生きる時間が残り少ないことを感じます。また、もしかすると突然重い病気に襲われることもありうることです。私たちは将来のことを考えると、心配なことがたくさんあります。まるで十字架を前にした主イエスのようです。しかし、主イエスが十字架で死んだ後、復活して、栄光の体に変えられたように、私たちもまた、主イエスと同じように復活する約束がここで改めて弟子たちに示されたのだと思います。誰もが、いつかは肉体の死を経験します。それは避けられないことですし、聖書は人間にとって死ぬことが最も大きな敵だと教えています。誰もが不安や恐れを感じます。しかし、主イエスが十字架で死んで、墓に埋葬されて、三日目に新しい体で復活して、ご自身が神であることを証明し、人間の罪と死とを滅ぼしてくださいました。私たちも主イエスと同じように姿が変わるのです。ルカ9章の29節に「祈っておられると、御顔の様子が変わった」と書かれていますが、「変わった」と訳されている言葉は、まったく姿かたちが変わることを意味する強い言葉です。それは、ちょっと気持ちの悪い青虫が、もっと気持ちの悪いさなぎになって、しかしその後美しいチョウチョウに変わる時に使う言葉なのです。私たちも、主イエスと同じようにそのように変身できるのです。死ぬときの体と復活する時の体は違うのです。ですから、年を取って来てからだが曲がったり、しわが増えてきても、心配する必要はありません。今の体はいつか朽ち果てますが、新しい体は朽ちることのない栄光に満ちた体なのです。これは私の想像ですが、私たちが復活する時、何歳ぐらいの体で復活するのか、聖書には書いていませんが、私たちの体が一番美しい時の姿で復活するのではないかと思っています。そうでないと、ほとんどの人は70から80歳で死にますから、その時の体で復活すると天国は老人ホームみたいになってしまいます。地上であまり生きることのできなかった人も、早死にした人も、幸いに長生きした人も、誰もが一番良い時の姿で復活するのです。

 復活を信じるのが難しい人がいるかもしれません。ある神を信じない人が「私は自分が理解できることしか信じません。奇跡とか不思議な働きなど、私は信じません。」と言いました。それを聞いた牧師が彼に次のことをどのように説明するか質問しました。「黒い牛が緑の草を食べているのに、どうしてミルクは白い色でチーズは黄色なのか?」「毛虫は、さなぎの殻の中にこもっている間に、変身して美しいチョウチョウになるのをどのように説明するのか?毛虫にあったたくさんの足がチョウチョウでは6本の足になっているし、いろいろなものの上を這っていたのが空を飛ぶものに変わったことをそのように説明するのだ?」神様は、自然界の中でも、すでに多くの素晴らしい奇跡を行っておられるのです。神様は、私たちの体を変えるだけでなく、私たちの思いや心の中もすっかり変えることができるお方です。しかも、無理矢理変えるのではなく、私たちを愛する愛をもって私たちに慰めや平安や喜びを与えることによって私たちを自然に変えてくださるのです。私が友人のグレアムに誘われてキリスト教の集会に行き聖書を読むようになって、本当にうれしかったのは、聖書は私を神様が作った作品で尊い一人の人間であることを知ったことと、主イエスが自分のことをいのちを捨てるくらいに愛してくれているということでした。それも、私の自分勝手な心が赦されるために死んでくださったのです。主イエスの十字架と復活があるので、私たちは死んでも、自分の罪の裁きを受けなくてもよいですし、永遠の希望が与えられます。あなたは、自分がこれからどこに向かって行くのか知っていますか。どこに行くかを知らずに前に進むのは怖くないですか。

 アメリカの有名な伝道師ビリー・グラハムは、現在98歳ですが、かつて、イギリスで最後の集会を行った時に次のように言いました。「今日私が着ているスーツは、今日着るのが最後です。次に私がこのスーツを着るのは、私が埋葬される時です。私はもう年老いており、地上の生活で残されている日々は残り少ないことを知っています。」そう言ってから次のような話をかたりました。「相対性理論で有名なアインシュタイン博士が列車に乗っていました。車掌が切符の検査に来たので、博士は切符を見せようとしましたが、切符が見つかりません。ポケットやかばんを捜しても見つからないので、博士は床に這いつくばって切符を捜し始めました。車掌が言いました。「あなたがアインシュタイン博士であることは知っていますから、探さなくても大丈夫ですよ。」するとアインシュタインが答えて言いました。「いや、私は、自分がどこに向かっているのか分からなくなったので、きっぶを捜しているんです。」この話を終えて、ビリー・グラハム博士は言いました。「私に残された日々は限られていますが、わたしは自分がどこに向かっているのか、それははっきり分かっています。」あなたは自分の将来のために備えができていますか。 

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