2017年3月12日 『信仰を持つこととは』(ルカ9章37~45節) | 説教      

2017年3月12日 『信仰を持つこととは』(ルカ9章37~45節)

 先週は、主イエスがペテロ、ヨハネ、ヤコブの3人を連れて山に登ってお祈りをしていた時に主イエスの姿が突然変貌して、光り輝いたという出来事について読みました。そして主イエスは旧約聖書の代表的な人物であるモーセとエリヤとともにご自分が十字架にかかることについて話し合っていました。3人の弟子たちは主イエスが祈っている間うつらうつら眠っていたのですが、イエスの姿が変貌したことで目を覚まし、そして、3人が話し合っている光景を目撃しました。彼らは、その光景に非常に驚いたのと同時に、その瞬間がとても素晴らしい時だと感じました。ペテロは、いつまでもこの時間が続くようにと、主イエスに、「先生。ここにいることは、すばらしいことです。私たちが三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」と言いました。ペテロは、旧約聖書の偉大な人物であるモーセやエリヤ、そして主イエスといつまでも一緒にいたかったのです。また、主イエスが栄光に輝く姿をはじめて見て、いつまでも主イエスが栄光に輝いていることを彼は願ったのだと思います。それは、言い換えれば、主イエスが十字架の苦しみを受けなければならないことを彼がまだ理解していないことを表しています。ペテロがその言葉を言い終わらないうちに、父なる神様がペテロの言葉を遮りました。雲が3人を覆い隠して、天から父なる神の声が聞こえました。「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい。」神様の言葉は、弟子たちの心の思いに対する答えでもありました。彼らが主イエスの弟子となって3年が過ぎていましたが、いまだに、彼らは主イエスが誰であるのかまだ完全に理解していませんでした。父なる神は弟子たちに、主イエスこそ約束の救い主メシヤであり、彼らがなすべきことは主イエスの言葉に聞くことであると教えられました。雲が消えた時には、モーセの姿もエリヤの姿ももはや見えませんでした。このできごとは私たちに何を教えているのでしょうか。私たちは、聖霊の強い働きを感じる時、それは素晴らしい体験として記憶に残ります。その素晴らしい体験は神様の恵みとして与えられたものですが、素晴らしい霊的な体験が私たちの信仰生活の土台ではありません。天から父なる神が語られたように、信仰生活の土台は、神の言葉を聞き、それに従って生きることなのです。恐らく、3人の弟子たちはもう少し長く山の上に主イエスとともにとどまっていたかったと思いますが、彼らは山を下って、現実の世界に戻らなければなりませんでした。私たちも、大部分の人が神を信じていない現実の社会の中で信仰生活を送らなければなりません。だからこそ、私たちは常に信仰をしっかりと持っておかなければならないのです。

 次の日、イエスと3人の弟子たちが山から下りてくると、そこには大変な状況が待っていました。私たちが住む世界には様々な問題があります。ケズィックのような集会に参加して素晴らしいメッセージを聞いて私たちは大いに励まされたり慰められたりします。英国ケズィックでは必ず最後の集会のテーマは「派遣」です。参加者は集会で受けた恵みに満足することでとどまっていてはだめで、参加した一人ひとりが神様から、罪や問題に満ちた現実の世界に送り出されることを忘れてはならないからです。この時も、3人の弟子たちは、山を下りた場所の厳しい現実に直面しなければなりませんでした。その現実とは、ある人のひとり息子が悪霊に取りつかれていて、突然叫び声をあげたり、ひきつけを起こしたり、口から泡を吹いたりしているという現実でした。恐らくこの父親は息子のために、いろいろな医者の所へ行ったはずです。しかしどの医者も彼を癒すことはできませんでした。そこで、彼は、主イエスに助けを求めてやって来たのですが、あいにく、この時、主イエスは3人の弟子を連れて高い山に登っていたために、主イエスはおらず、9人の弟子たちだけが残っていました。それで、父親は9人の弟子たちに息子を癒してくれるようにとお願いしましたが、この時、弟子たちは息子を癒すことができませんでした。9章の冒頭に書かれているのですが、主イエスは、弟子たちを訓練するために、それまでは主イエスだけが神の国について宣べ伝え、癒しの働きをしておられたのですが、自分がいなくなった時のことを考えて、弟子たちに特別な力と権威を与えて送り出されたのです。弟子たちは二人ずつ組みになって近くの村へ出かけて行きました。すると彼らは大きな働きをすることができました。マルコの福音書6章12、13節には、「こうして12人が出て行き、悔い改めを説き広め、悪霊を多く追い出し、大勢の病人に油を塗っていやした。」と記されています。ですから、この時は、弟子たちは、イエスが一緒ではありませんでしたが、病気を癒したり悪霊を追い出したりすることができたのです。

 それでは、この時、9人の弟子たちはなぜこの人の息子に取りつく悪霊を追い出すことができなかったのでしょうか。その答えは主イエスの言葉にあります。41節のイエスの言葉を読みましょう。「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまであなたがたといっしょにいて、あなたがたに我慢しなければならないのでしょう。」最後の「いつまであなたがたといっしょにいて、あなたがたに我慢しなければならないでしょう。」という主イエスの言葉から、主がすでに十字架にかかることを間近に感じておられることが分かります。主イエスは弟子たちと3年間一緒に生活して来ました。いよいよ十字架に掛けられる時が近づいていましたが、弟子たちのイエスに対する信仰はまだまったく不完全なものでした。弟子たちと別れる時が近づいていたので、イエスは、弟子たちをしっかり訓練しなければならないと考えておられたのですが、弟子たちの不信仰が、彼らを無力にしていました。マタイの福音書によれば、主イエスは弟子たちに「あなたがたの信仰が薄いからです。」と言われました。不信仰も信仰が薄いのも、結局は同じことですが、これはどういう意味でしょうか。よく、信仰は電気に例えられます。電源があって、電源から電球まできちんと電線が引かれているとします。スイッチを入れれば電球は光を放ちますが、スイッチを入れなければ電球は光りません。私たちには悪霊を追い出す力はありません。働かれるのは神様です。その神様の働きにスイッチを入れるのが私たちの信仰だと言えるのです。弟子たちに全然信仰がなかった訳ではありませんが、この時、悪霊に取りつかれた一人息子を助けることに関しては信仰がありませんでした。マルコの福音書の記事によると、弟子たちがそっとイエスに「どうして私たちには追い出せなかったのですか。」と尋ねた時に、主が「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」と答えておられますので、9人の弟子たちは、悪霊を追い出すということに関して、主イエスからの力と権威があれば必ず追い出すことができるという信仰に立った祈りを捧げていなかったことが分かります。彼らに必要だったのは、主イエスの力と権威を信じる信仰による祈りでした。彼らは主イエスから力と権威を受けていましたし、実際に出かけて行った時に、病人を癒し悪霊を追い出す経験もしていたのです。しかし、この時、彼らは信仰の祈りをしていませんでした。もしかすると、これはあくまでも想像ですが、弟子たちは、以前、悪霊を追い出し病人を癒すことができていましたので、それらの経験から、彼らは自分の中に力があると勘違いしていたのかもしれません。以前できたのだから今度もできるだろうと思い込んで、以前のように祈らなかったのではないでしょうか。あるいは、前回、主イエスに派遣されて出かけた時に、弟子たちは主イエスから与えられた力によって大きな働きを行いました。その時に、人々が彼らの働きを見て驚き、彼らをまるで神のように崇めたとも考えられます。人々がびっくりする様子を見て、弟子たちも悪い気はしません。この時、悪霊に取りつかれたひとり息子を助ける時に、主イエスに信頼するよりも、自分の力を見せびらかすような思いが彼らの心にあったとも考えれらます。いずれにせよ、彼らの姿勢は主により頼んで相手のために働くのではなく、自分の力と経験に頼り、自分をよく見せようとする心があったために、主の力が働かなかったのではないでしょうか。主イエスが奇跡の業を行われる時、100%相手に対する憐れみと相手を助けるために行われました。主イエスは決して自分の力を人々に見せびらかすことはありませんでした。私たちは、この弟子たちの失敗を教訓として、いつも主により頼み、主の言葉に聞き従い、主の御心にかなった生き方をしなければなりません。

 ひとり息子の父親はイエスに強くお願いしています。「先生、お願いです。息子を見てやってください。ひとり息子です。」(38節)父親はイエスを「先生」と呼びました。マルコの福音書の記事によると、父親はイエスに向かって言いました。「もしおできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」父親は、悪霊の激しい働きを見て来ましたので、主イエスが自分の息子を助けることができるか確信がなかったかも知れません。ただ、彼は自分自身の不信仰を正直に認めて、主により頼んでいます。この父親の言葉に対して、主イエスは「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」と言われました。主イエスは父親に自分を本気で信じるようにとチャレンジしておられます。この一人息子が悪霊から解放されるのは、主イエスにとってできるかできないかの問題ではありません。この父親がイエスにとって不可能なことはないと信じられるかどうかにかかっているのです。神様の力は、私たちの心や目が自分自身から離れて信仰を持って神に向けられる時に与えられます。父親は主イエスの言葉を信じました。主イエスはどんなことでもできると信じる信仰が大切であることを理解したのです。それで、父親は答えました。「信じます。不信仰な私をお助けください。」彼は、主イエスの前で謙遜に、自分の信仰の弱さを認め、イエスの助けを求めました。その信仰を見て、イエスは父親の願いを受け入れました。そして、主イエスが汚れた霊をしかりつけると、悪霊はイエスの権威と力に対抗できず、すぐにこの息子から離れました。

 この父親の信仰は小さな信仰であったかもしれません。しかし、大事なことは信仰が大きいか小さいかではなく、信仰があるかないかです。信仰は、電源と電球をつなぐスイッチです。つながりさえすれば、神様の力が働きます。私たちをとりまく世界は、ますます混とんとして来ています。自分たちではどうすることもできないような状況になるかも知れません。自分の力には限界があります。しかし、神にとって不可能なことはありません。私たちは、弟子たちのように自分の経験に頼ることなく、いつも神様により頼む者でなければなりません。働くのは自分ではなく神様です。そのことを覚えて、主イエスを信じる信仰をしっかり持ち続ける者であり続けましょう。

 アメリカの首都ワシントンの近くにアーリントン国立墓地があり、そこには多くの有名人の墓があります。その中に、19世後半から20世紀前半にかけて活躍したクリスチャン政治家ウィリアム・ブライアンの墓があります。彼は民主党の大統領候補に3度選ばれ、当時のアメリカ社会に大きな影響力を与えた人物です。ブライアンの墓には次のような言葉が記されています。「信じます。不信仰な私をお助けください。」(マルコ9章24節)この彼の姿勢が彼を偉大な政治家にさせたのです。

2017年3月
« 2月   4月 »
 1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031  

CATEGORIES

  • 礼拝説教