2017年3月19日 『本当に偉大な人』(ルカ9章46-50節) | 説教      

2017年3月19日 『本当に偉大な人』(ルカ9章46-50節)

 ある本に犬と猫の違いが書いてありました。人が犬をペットとして飼うと犬は主人に向かって尻尾を振りながら「この人が私の主人、私の神に違いない」と考えるのだそうです。一方、人が猫をペットとして飼うと猫は目を閉じてニャーとなきながら「私がこの人の主人、この人の神でなければならない。」と考えるとのことです。聖書は、神様が、私たちへの愛と憐れみのゆえに、低くなってこの世に来てくださったのですが、どうも、罪人である私たちは犬ではなく猫のように考えることが多いのではないかという結論が書かれていました。自分の信仰生活をちょっと振り返ってみてください。初めて福音を聞いて主イエスの十字架の意味を知って、クリスチャンになることを決心した時、私たちは主イエスの十字架によって罪が赦されて永遠のいのちが与えられたことが本当にうれしく、犬のように「イエスこそ私の神だ」と感じて、神を礼拝することが喜びでした。しかし、時間が経つにつれて、猫のような考え方が頭に忍び込んできて、少しずつ神様への感謝の気持ちが薄れていないでしょうか。聖書の教えを受けて、私たちの生活の中にいろいろな変化が起こり、以前よりも他の人に親切になったり、言葉づかいが変わったり、また、中には、悪い習慣がなくなった人もいるでしょう。しかし、それがいつの間にか自分の誇りになっていることがあります。猫のように「私が神だ」などとは思わないにしても、まじめに教会生活をしているし、聖書の教えについても分かって来たし、奉仕も熱心にしているし「自分はけっこういい人間なのではないか。」「自分は信仰深い人間だ。」などと考えるようになっているかもしれません。自分のことはなかなか自分では分かりませんが、周囲の人はすぐ気が付きます。私たちは、いつも自分の心を点検しておくことが必要です。実は、今日読んだルカ9章の46-50節では、イエスの12弟子たちの中にそのような問題が表れていたのです。

 46節にはこう書かれています。「さて、弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。」この弟子たちは、主イエスがご自分で選ばれた12人です。彼らは個人的にイエスに声を掛けられて、イエスの弟子として生きることを決心しました。この12人はイエスと一緒に生活をしながら、主イエスから直接、神について色々な教えを受け、イエスともに働き、また、主に用いられて働いていました。特に9章の1節に記されているように、主イエスから「悪霊を追い出し病気を癒すための力と権威」を授かった時から、彼らは人々が驚くような奇跡の働きをするようになりました。これは、彼らのうちに神様の力と権威が働いたから起きた出来事であったのですが、彼らは、人々の驚きや彼らをほめる言葉によって、いつの間にか自分のうちに特別な力があるような気持ちが芽生えていました。そんな時に、主イエスが12人の弟子の中からペテロ、ヨハネ、ヤコブの3人だけを連れて山に登りましたが、そこで、3人は主イエスが旧約聖書の偉大な人物であるモーセとエリヤと話しているところを目撃しました。彼らは素晴らしい場面を目撃したことで、自分たちが他の9人よりも偉いと感じたかもしれません。しかも、山から下りて見ると、ひとりの若者が悪霊にとりつかれていたのに、9人の弟子たちは悪霊を追い出すことができなかったことが分かりました。主イエスは弟子たちの不信仰を嘆いて、その若者を連れて来させて、悪霊をしかりつけると、悪霊が若者から出て行き、彼は癒されました。人々も弟子たちもイエスの力と権威に驚きましたが、その時、主は弟子たちに言われました。「このことばをしっかりと耳に入れておきなさい。人の子は、いまに人々の手に渡されます。」ここで、主イエスはまもなく十字架にかかることを再び弟子たちに話しておられるのですが、弟子たちはイエスの言葉を理解しようとせず、また信じたくなかったので、あえてイエスにその言葉の意味を尋ねようともしませんでした。というのは、主イエスの言葉が真実であるとすると、自分たちの人生のプランが崩れると思ったからです。彼らは、自分の仕事や家族を離れて主イエスに従って来たのですが、心のどこかで、主イエスの弟子であれば世の中で成功して大きな権力を持つことができると考えていたのだと思います。人は、誰でもそうだと思いますが、自分が他の人よりも何かの点で優れていたいと思うのです。それは、学校の勉強や、運動の能力や、社会の地位や、仕事の能力、あらゆる点で私たちは他の人に負けたくない、はっきり言えば、他の人に勝ちたいという心です。12人のイエスの弟子たちの間にも競争意識があったのです。

 46節の言葉を読みましょう。「さて、弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。」マルコの福音書によると、主イエスと弟子たちは、ヘルモン山のふもとからガリラヤ湖畔のカペナウムに戻ったのですが、その道々、弟子たちの間に言い争いがあったようです。マルコ9章33節によると、イエスが家に入った後、弟子たちに「道で何を論じ合っていたのですか。」と質問しておられます。弟子たちは何も言えずに黙っていました。それは、彼らが、道々、だれが一番偉いかと論じ合っていたからです。もちろん、主イエスは、弟子たちの考えをちゃんと知っておられました。主イエスはどれほどがっかりしたことでしょうか。ご自身は世の人々の罪が赦されるために、人々の罪をすべて自分で背負って十字架の刑罰を受けようとしておられるのに、弟子たちは、自分のプライドが一番大切なことであるかのように、議論しているからです。そこで、主イエスは、彼らがはっきりと理解できるように、ひとりの子どもの手を取り自分のそばに立たせて言われました。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です。あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。」イエスの時代のユダヤの文化においては、子どもは最も力がなく、価値のない者と考えられていました。ユダヤには旧約聖書の解説書であるタルムードという本がありますが、そこには「子供と一緒に過ごすことは時間の無駄である。」と書かれています。弟子たちは、だれと一緒にいるかによって、人の価値が決まると考えていたのではないでしょうか。彼らはイエスと一緒にいれば、将来、イエスがイスラエルの支配者となった時に、自分たちは大臣になることができると考えていたようです。特にヨハネとヤコブ、あるいは二人の母親が出世欲が強かったのかも知れません。マタイ20章20節以下を見ると、二人は母親と一緒に主イエスのところへ行き、イエスに頼んでいます。「私のふたりの息子があなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりはあなたの左に座れるようにお言葉をください。」つまり、主イエスが王様になった時は二人をナンバー2とナンバー3にするという約束の言葉をくれるようにと頼んでいるのです。そのような彼らの間違った考えを正すために、主イエスは子どもをそばに立たせました。弟子たちの前に、主イエスと子どもが立っています。イエスは彼らにとって最も重要な方です。子どもは彼らにとって最も意味のない存在です。つまり、弟子たちにとって全く正反対の存在である、主イエスご自身と子どもを彼らの前に立たせて、主イエスは言われました。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。」「受け入れる」と訳されている言葉は英語の聖書では、「welcome」という言葉が使われています。「歓迎する」「喜んでお迎えする」という意味の言葉です。主イエスの言葉の意味は何でしょうか。クリスチャンは子どもには親切するべきだという意味ではありません。子どもとは、この世の中で弱い者、低く見られている者の代表です。私たちがそのような人々とどのようにかかわるか、その姿勢がその人の神との関係を表すということです。言い換えれば、クリスチャンは、子どものような弱い、力のない人々を喜んで受け入れることが、本当に主イエスを信じることのしるしなのです。神様の目には、人の偉大さは、その人が弱い人や低く見られている人を受け入れ、その人々に仕える時に現れるのです。イエスの結論は、48節の言葉です。「あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。」また、別の箇所では、主イエスは、自分を低くする者を神は高く上げられ、自分を高くする者を神は低くされると言われました。これが神様の目にある偉大さなのです。

主イエスは、幼子のような心を持つことが神に喜ばれると言われましたが、それはどのような心でしょうか。それは子どものように謙遜で、従順な心であると思います。幼い子どもは、大人と比べると、出世したいとか、他人を蹴落としてでも自分が一番になりたいというような心を持っていません。また、幼い子どもは神様の言葉に対して純真で、神様の言葉に対して、疑わないで従おうとします。もちろん、幼子は、大人と比べれば知恵も足りないでしょうし、知識も経験も乏しいです。私たちは、子供よりもずっと多くの知識も経験も持っていますが、私たちはそれを正しく用いているのでしょうか。私たちは誰もが自己中心の性質を持っているため、かえって自分の知識や経験が、私たちを傲慢にしたり、人との争いの種になったり、他の人をねたんだりすることになったりします。私たちは、つねに自分が罪人であることを忘れず、主イエスの十字架によって、罪を赦されていることを感謝し、神を愛し、隣人を自分自身のように愛する生き方を実践することが、神様に喜ばれる道であることを忘れてはなりません。幼子の心を失わない者でありましょう。

20世紀最大の歌姫と言われたマリアン・アンダーソンという黒人のソプラノ歌手がいます。敬虔なクリスチャンの家庭に生まれましたが、非常に貧しくまともな教育も受けられませんでした。黒人ということである音楽学校から入学を拒否されましたが、個人レッスンを続けて、持ち前の歌声で徐々に名声を獲得します。有名な指揮者トスカニーニは彼女の声は100年に一度の最高の歌声と言いました。ホワイトハウスでは、ルーズベルト大統領夫妻とエリザベス女王夫妻のためにコンサートを開きました。また、1939年のイースターの日曜日にはワシントンDCのリンカーンメモリアルで75000人の大観衆の前で歌いました。そんな彼女がある時インタビューを受け、「あなたにとって、これまでの人生で一番幸せな時はいつでしたか?ヨーロッパで大成功したときですか。ホワイトハウスでのコンサートですか、それともリンカーンメモリアルの時ですか。」と質問されました。彼女の答えは「いいえ、みな、違います。私にとって人生で一番素晴らしいと思う時は、ある時、家に帰って、母親に、『お母さん、もうこれからは内職しなくてもいいわよ。』と言えた時です。」それが彼女の姿勢でした。

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