2017年4月30日『心の内を燃やすもの』(ルカ24章13-35節) | 説教      

2017年4月30日『心の内を燃やすもの』(ルカ24章13-35節)

 主イエスが十字架に掛けられたのは金曜日、そして、ユダヤの数え方で三日目になる日曜日に死から復活されました。当時、イエスの12弟子たちも、その他イエスに従っていた弟子たちも、だれも、イエスが死から復活すると考えてはいませんでした。彼らは、みな、自分が救い主と信じていたイエスが十字架にはりつけになって死んだことを知って、混乱していました。彼らが混乱した理由は、彼らがイエスがどのような救い主なのか、その理解が間違っていたからです。主イエスは、何度も繰り返して、自分が十字架の苦しみを受けて死んだ後、三日目に復活することを語っておられたのですが、弟子たちも、他の信者たちも、だれも、その言葉を理解することも信じることもありませんでした。彼らも、他のユダヤ人たちと同じように、救い主は、自分たちを苦しめているローマ帝国を滅ぼして外国の支配から救ってくれる政治的な強い救い主を期待していました。彼らは主イエスがイスラエルをローマから解放してくれると考えていたのです。そのイエスが、逮捕され、裁判を受け、殴られ鞭うたれて、みじめな姿になって十字架にかけられて死んでしまったことを見て、自分たちの希望が全部消えてしまったと思っていました。最初に主イエスの墓に出かけて行った女性たちも、イエスの復活を確かめるためではなく、イエスの遺体を丁寧に葬りたいという思いで、墓に出かけていました。その後、彼女たちは墓が空っぽになっているのを見て驚きました。さらに御使いが現れて、墓が空になっていることを弟子たちに伝えるように女たちに命じたので、彼女たちは12弟子が集まっているところに行って伝えましたが、12弟子の中で墓に行ったのはペテロとヨハネだけで、弟子たちは行こうともしませんでした。そのような状況ですから、その日曜日の午後になっても、イエスの弟子たちは、みな、深い悲しみの中で、ひどく落ち込んでいました。今日の箇所は、そのような中にいた二人の弟子に関する出来事です。
 
 それは日曜日の午後のことでした。イエスに従っていた二人の弟子が自分の家に帰るために、、エルサレムから西に11キロ離れたエマオという村に向かっていました。エルサレムは山の上に建てられた町でしたから、二人は傾きつつあったまぶしい太陽に向かって下り坂の道をとぼとぼと歩いていました。14節には、「二人はこのいっさいの出来事について話し合っていた」と書かれています。「このいっさいの出来事」とは、イエスに関する一週間の様々な出来事です。一週間前の日曜日には、主イエスはロバにのってエルサレムの町に入られましたが、その時は大勢の群衆が「祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。」と叫びながら熱狂的に主イエスを出迎えました。しかし、火曜日には多くのユダヤ教の指導者たちと様々な議論をし、水曜日と木曜日には最後まで人々に神について教えられました。しかし、木曜日の夜、弟子たちとの最後の晩餐の後、イエスは逮捕され、夜中じゅう5回も裁判を受け、最後はローマの権力者ピラトがユダヤ人たちの脅迫に屈して、イエスを十字架につけることを許可しました。イエスは激しく鞭打たれ、殴られ、あざけられて、十字架にはりつけにされて殺されました。自分たちが大きな希望を抱いていた救い主が、こんなかたちで処刑されてしまったので二人とも、すっかり動揺し、混乱していました。そのため、彼らが日曜日の朝、女の人たちがイエスの墓に行って見たら墓が空っぽであったという知らせを聞いても、その事実とイエスの言葉を結びつけることができませんでした。私たちは、気持ちが落ち込んでしまうと、何を聞いても悪いほう悪いほうに解釈してしまいます。この時の二人はそんな状態でした。だから、墓が空っぽだと聞いても、それを喜ばず、もっとひどいことが起こったとか思い込んでしまったのです。彼らは、本当は、イエスの教えをちゃんと聞いて、イエスの復活を信じなければならなかったのですが、彼らの信仰は主イエスから見ると極めて未熟な信仰だったのです。しかし、主イエスは、そんな二人の信仰を支えるために、わざわざ二人に近づいてくださいました。普通、宗教とは、人間が神に近づく行為と説明されますが、主イエスは、反対に私たちに近づいてくださる神です。復活された主イエスが二人にそっと近づきました。当時は、誰もが歩いて旅をしているので、見知らぬ者同士で話し合ったり、一緒に歩くことはよくあることでした。二人はイエスの顔を見たのですが、イエスだとは気が付きませんでした。日曜日の朝、イエスの墓で復活の主に出会ったマグダラのマリヤという女性も、最初、それが主イエスとは気が付きませんでした。このことは、主が復活されたということを信じる信仰の目を持っていないと、復活のイエスを見てもイエスだとは気が付かないということを示唆しているような気がします。主イエスは彼らに近づいて言われました。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、二人は暗い顔をして立ち止まりました。そして、クレオパという人が、びっくりしたように、「この数日エルサレムで起こったこと、知らないのですか。そんな人はあなただけですよ。」と少しイエスを責めるような口ぶりで言いました。それでも、イエスは繰り返して「どんなことですか。」と尋ねました。二人の答えが19~24節に書かれています。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行ないにもことばにも力のある預言者でした。それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」私たちから見ると、これだけの情報を聞いたのであれば、イエスが復活したと考えられるはずだと思いますが、喜ぶべき二人は暗い顔をしていました。ただ、二人はイエスのことを「行いにもことばにも力のある預言者」と言っていますので、イエスこそ旧約聖書が教える約束の救い主だという信仰には届いていなかったようです。それで、イエスは、二人の弟子を非難して、言われました。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」それから、主イエスは旧約聖書の創世記や出エジプト記やイザヤ書などを読み上げて、旧約聖書が預言したきた救い主は私たちの代わりに十字架の苦しみを受けなければならないのだということを教えられました。一か所だけ読んで見ましょう。イザヤ書53章7節「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」聖書が約束した救い主は、地上に王国を作り上げる政治的な救い主ではなく、私たち一人一人の心の中を新しく作り変える救い主です。主イエスが旧約聖書から順々に主イエスについて書かれている言葉を二人に教えて行くと、彼らの暗い心に希望の光が差し込んで来ました。私たちも、聖書を読んでいて今まで気が付かなかった聖書の言葉の素晴らしさが理解できると、不思議な勇気や喜びが沸いてきますが、この二人の暗かった心も少しずつ燃え始めていたのです。
 
 そうこうしているうちに、イエスと二人に弟子はエマオの村に到着しました。すると二人は、イエスに「もう日も暮れてきたので、ぜひ、私たちの家に泊まってください。」と頼みました。それでイエスは二人の家に入り、一緒の食事をすることになりました。3人が食卓につくと、普通はその家の主人が食事の祝福の祈りをするのですが、この時は、主が祈りを捧げて、パンをちぎって彼らに配りました。その時、二人の目が開かれて、ずっと一緒にいたのが主イエスだと分かったのです。彼らは、以前、イエスが祝福の祈りをささげてパンを裂くのを見ていたのでしょう。また、パンを裂いたイエスの手には釘の跡がありました。とにかく二人の目が開かれてイエスだと分かったのです、二人は「イエス様!」と叫んだことでしょう。すると、その瞬間、イエスの姿が見えなくなりました。復活の後のイエスの体は以前の私たちとまったく同じ体ではなく、栄光の体に変わっていたので、復活後は、主イエスは突然姿を現したり、姿を消したり、以前とは異なる行動をするようになっていました。二人がイエスだと気が付いた瞬間イエスの姿が消えました。しかし、二人は、イエスが消えてしまったことを嘆いてはいません。寂しさを感じているのでもありません。二人の心は変えられていたのです。32節で、二人は「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」言っています。主イエスが復活されたことを本当に理解して、それを受け入れた時に、主イエスが目に見えるか目に見えないかは二人にとって関係ありませんでした。目には見えなくても、主イエスが自分たちと共にいることをはっきりと感じていたからです。彼らの心から失望も疑いも消えて、彼らの心は喜びで満ち溢れました。もう夜も更けていましたが、二人は明日まで待つことができませんでした。当時、エルサレムの近くには、旅人を襲う強盗がたくさんいたので、普通の人は夜道を歩くことはしませんでした。しかし、二人はそんなことまったく気にも留めず、いそいでエルサレムに向かって行きました。エルサレムへは上り坂ですが、そんなことも二人には妨げになりませんでした。このように復活の主に出会うと、人々の内側が変わるのです。

主イエスが復活されたことは私たちにとってどんな意味があるのでしょうか。主イエスが十字架にかかる前日、漠然と不安を感じていた弟子たちに次のように言われました「 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。」主イエスは復活された後、40日間彼らに現れてから彼らから去って行かれました。それがなぜ弟子たちにとって益なのでしょうか。もし、主が地上にずっとおられたとすれば、それも素晴らしいことですが、主イエスに会うためには主イエスのもとへ行かなければなりません。日本からイスラエルまで飛行機で行っても15,6時間かかります。主が地上で人間として存在する限り、時間や空間の制限を受けるので、イエスからいつでも助けや慰めを受けることはできません。しかし、主イエスは弟子たちのもとを去って、天の父なる神のそばへ行かれました。そして弟子たちに約束されたように、主イエスを信じる者一人一人の心に助け主を送られました。それが聖霊です。聖霊は、目に見えない霊的な存在として、私たととともにいてくださるのです。私たちがどこにいても、何をしていても、ふっと自分の思いを聖霊としての主イエスに向けるならば、いつでも、主イエスと交わることができるのです。どんな時でも心の中で「イエス様」と呼びかける時、不思議な平安を感じます。

18世紀のイギリスで最も大きな影響を与えたキリスト者はジョン・ウェスレーです。当時、教会の外で説教することは禁じられていましたが、彼は、生活に苦しむ炭鉱労働者や農夫の人々がいる場所へ出かけて生涯、何万キロもの旅をしながら主イエスの教えを人々に語り続けました。彼が臨終の床で死を前にして語った言葉は「The best of all is God is with us」「私の生涯で最高だったことは、神が私たちと一緒にいてくださることだった。」でした。主イエスは、今も生きておられ、私たちに近づいてくださいます。人生でどんなことが起ころうとも、主がともにおられるなら乗り越えることができるのです。 

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