2017年5月21日 『よい知らせを告げ知らせる』(ルカ10章1-16節) | 説教      

2017年5月21日 『よい知らせを告げ知らせる』(ルカ10章1-16節)

 ルカ9章51節には「天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられた。」と書かれていますが、この時から、主は十字架に向かって進み始めました。十字架にかかるまでの時間には限りがあることを知っておられた主イエスは、それまでにできるだけ多くの人に福音を宣べ伝えなければなりませんでした。しかし、それは、人間の姿を取られた主イエス一人でできることではありませんし、12人の弟子たちだけで行うのも不十分でした。それで、主は、自分に従っていた大勢の弟子たちの中から70人を選んで、近くの町や村で福音を伝えるために送り出されたのです。この70人の名前は分かりません。当時の社会では、特別に有名な人たちではなかったでしょう。特別な才能や、特別な知識もなかったと思います。ただ、彼らは、9章の終わりで、主イエスに近づいた3人とは違って、自分の人生のすべてをイエスのために捧げる覚悟ができていました。イエスの弟子として生きる準備ができていた人たちでした

(1)遣わされる者の準備
 主イエスは、12人の使徒たちと70人の弟子たちを2人ずつペアにして送り出されるのですが、遣わされる者はどんな心構えでいるべきかを教えられました。2節では、主は「実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」と言われました。「収穫の働きをする人を求めて祈りなさい」というイエスの命令には、主イエスの心が現れています。主イエスは、一人の人も滅びることを望まず、すべての人が主を信じて永遠のいのちの約束を受け取ることを願っておられます。しかし、実際には、大部分の人は神を求めることなく、自分の望むままに生活しています。そのような人々を見てイエスは胸を痛めておられました。マタイの14章14節には、「イエスは舟から上がると、多くの群衆を見て、彼らを深くあわれんだ。」と書かれています。このように、主イエスは、福音を宣べ伝えるために働いておられる間、つねに、神を知らずに悩みや苦しみの中で生活している人々を見て、心を痛めておられました。マタイの箇所で「あわれんだ」と訳されている言葉は非常に強い言葉です。内臓を揺り動かすという意味の言葉です。聖書は、イエスを信じるクリスチャンは、一人一人がイエスの弟子であると教えています。私たちも、まだ救われていない人々に対して主が感じておられたのと同じ熱い思いを持たなければなりません。主イエスは、ご自分がこの世に来た目的について、「失われた人を捜して救うため」だと言われました。聖書は、主イエスを救い主だと信じない人の魂は滅びると、はっきりと教えています。クリスチャンである私たちも、主イエスを信じる前は滅びに向かっていましたが、誰かから導かれて主イエス・キリストの十字架の意味を知り、自分の罪を悔い改めて、イエスを信じたことによって永遠のいのちが与えられました。私たちは、自分が救われたことで満足してはいけません。自分の愛する人が滅びに向かっているのを知っているのに、その人に何も伝えないなら、私たちは、本当にその人を愛していると言えるのでしょうか。主イエスは、自分と同じ心で、周囲の人を救いに導こうとする人を求めておられるのです。2000年前も、今も、この働きをする人が少ないのです。この働きは牧師一人でできることではありません。神様の恵みによって他の人よりも先に救いに入れられたクリスチャン一人一人に与えられた使命です。
 主イエスは3節でこう言われました。「さあ、行きなさい。わたしがあなたがたを遣わすのは、オオカミの中に小羊を送り出すようなものです。」イエスは、送り出す弟子たちに警告の言葉を言われました。彼らの働きは決して簡単なものではなく、むしろ大きな危険をともなうことだからです。今日でも、毎年世界中で10万人以上のクリスチャンがイスラム圏や共産圏の国々で信仰のために殺されていると言われています。日本では、今では、殉教することはありませんが、福音を伝えることや讃美歌を歌うことが嫌がられたり、禁止されたりすることがあります。イエスの弟子ペテロは、信仰のために苦難を経験しても驚くことはないと言っています。そしてクリスチャンとして正しく生きていながら苦しみを受けるのなら、恥じる必要はない、むしろ神をあがめなさいとも言っています。しかし、主は私たちの羊飼いですから、羊のいのちを守ってくださる方です。私たちも、いつも主イエスに危険から守られるようにと祈っていなければなりません。
 また、4節では「財布も旅行袋も持たず、くつもはかずに行きなさい。だれにも、道であいさつしてはいけません。」言われています。弟子たちは、毎日の必要について主に信頼することが求められました。福音を伝える旅行に出かけるのに、必要以上のものを持って行ってはならないと教えられています。十字架にかかる時が迫っていたので、弟子たちの働きは緊急のものでした。働きの妨げになるものはすべて取り除かなければなりません。必要以上のものを持って行くと移動するのがより困難になります。「道であいさつすること」もいけないと言われていますが、これは、誰かとすれ違った時にする簡単な挨拶のことではありません。中東では、道で誰かと出会うと、簡単な挨拶だけでは終わらず、長い立ち話になります。出会う人にそのような挨拶をしているとイエスから命じられた宣教の働きができなくなるので、主は、そのような長い挨拶はやめるように言われました。非常に厳しい命令のように思えますが、これは、イエスによる訓練だったのです。このような経験が12弟子も70人の弟子たちにも必要でした。しかし、主イエスは弟子たちにいつもそのような生活を求めているわけではありません。後になって、主が12人の弟子たちに、この訓練の経験について尋ねたことがありました。22章35-36節に書かれています。「わたしがあなたがたを、財布も旅行袋もくつも持たせずに旅に出したとき、何か足りない物がありましたか。」彼らは言った。「いいえ。何もありませんでした。」そこで言われた。「しかし、今は、財布のある者は財布を持ち、同じく袋を持ち、剣のない者は着物を売って剣を買いなさい。」主イエスは、私たちのあらゆる状況を知っておられます。12弟子が訓練を受けていた時も、彼らの生活に足りないものがないように、主イエスが背後で働いておられたことが分かります。そして22章では、イエスが十字架に掛けられる直前でしたので、今後厳しい試練を経験する弟子たちには持ち物を十分に準備しておくことが必要でした。主は、全知全能の神ですから、私たちが直面する状況がどうであっても、その状況い応じて働いてくださることを信じることが大切です。

(2)主のメッセージを忠実に伝える
5節以降、主は12弟子と70人の弟子たちに、彼らが村に入った後、どのような働きをするか、具体的な指示を与えておられます。5-6節を読みましょう。「どんな家にはいっても、まず、『この家に平安があるように。』と言いなさい。もしそこに平安の子がいたら、あなたがたの祈った平安は、その人の上にとどまります。だが、もしいないなら、その平安はあなたがたに返って来ます。」ここで平安と訳されている言葉は英語のpeaceと同じで「平和」とも訳すことができます。新共同訳ではすべて平和と訳されています。ここでは「平和」のほうが良いように思います。「神様との平和の関係がこの家にありますように。」というメッセージです。言い換えれば、弟子たちは、神様との平和を求めている人、神との平和について関心がある人を捜すように言われています。簡単に言えば、福音を求めている人を捜しなさいということです。6節で、もしそこに平和の子がいたら、あなたがたの祈った平和が、その人の上にとどまります。と言われていいます。ヘブル語で「平和の子」という言い回しは、その人が「平和」にふさわしい性質や人格を持っていることを意味します。ここでは、神との平和の関係を持って永遠のいのちを受けるというメッセージに心が開かれている人を意味します。そして、イエスが言われたのは、もしその家の人が平和のメッセージを受け入れたら、その人に神との平和がとどまるということです。一方、その家の人がメッセージを受け入れなかった場合は、その平和は語った人に戻って来るのだと言われました。私たちは、神様や信仰の話をして拒否されると、がっかりして落ち込みますが、神様との平和の祝福が戻ってくると約束されているので、がっかりする必要はありません。また、家に泊まるように招かれた場合は、その家に寝泊まりして食事もごちそうになり、家から家へと渡り歩いてはいけないと言われました。家から家へと渡り歩くことが禁じられていますが、当時、ユダヤ教の教師で、人々の家を訪れてユダヤ教の教えを説く巡回教師と呼ばれる人がいて、その教師の中に人々から手厚いもてなしを求める欲の強い者がいたそうです。彼らは、より良い部屋やより良いもてなしやご馳走を求めて、家から家へと渡り歩いていたのです。福音を述べ伝える人は、すべての点において誠実であることが求められています。そして、最後に「病気の人をいやしなさい。」と言われました。当時は、まだ新約聖書がない時ですから、このような特別な働きが、彼らが宣べ伝えているメッセージが本当に神からのものであることを証明していたのです。9章の初めでも、主イエスは12弟子を伝道の訓練に送り出しておられますが、その時に、主は彼らに病気をいやし悪霊を追い出す特別な力と権威をお与えになりました。この時も、彼らには同じ力と権威が与えられていたのだと思います。

 最後に、主イエスは、福音のメッセージには「神のさばき」があることをはっきりと示されました。12節で主イエスは「言っておくが」と言われましたが、これは大切な教えを語る時に主が使われる表現です。そして、このメッセージはユダヤ人にとっては大変ショッキングなメッセージでした。異教徒が住んでいる町よりも、ユダヤ人が住んでいる町のほうがより厳しいさばきを受けるというメッセージが3回繰り返されているからです。第一に、12節では、神のメッセージを拒む町は、ソドムが受けた罰よりも厳しいさばきを受けると言われています。ソドムは死海の近くにあった町で、アブラハムの甥、ロトが住んでいた町です。ソドムとゴモラは非常に不道徳な街でしたので、神様はアブラハムに「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、かれらの罪は極めて重い。」と言われました。アブラハムは甥ロトのためにソドムの町が赦されることを願って祈りましたが、町の人は誰も神の警告に耳を貸さなったので、天から硫黄の火が降って来て二つの町は滅んでしまいました。そんな悪に満ちた町でしたが、彼らは神のメッセ―ジを知らなかったのです。ユダヤ人たちは何度もイエスのメッセージを聞いていながら受け入れなかったので、彼らよりも罪が重いと主は宣告されました。第二に、13章でコラジンとベツサイダという町が挙げられています。この町はどちらもガリラヤ湖の近くにあり、主イエスの活動の中心地であったカペナウムからとても近い場所にありました。特にベツサイダは、弟子のペテロ、アンデレ、ピリポの出身地です。その町の住民はイエスの教えを何度も聞いていたでしょうし、イエスの奇跡の働きも見ていたはずです。しかし、彼らはイエスを受け入れませんでした。ツロとシドンは地中海沿岸のイスラエルより北のフェニキアという国にある外国人の町で、この町の人々も旧約聖書の時代大きな罪を犯していました。ただ、彼らは主イエスの教えも奇跡の働きについても知りませんでした。神様は言われました。もし、その町で主イエスが人々に教え、奇跡の働きをしたいたら、きっと彼らは自分たちの罪を悔い改めてイエスを信じていたに違いないと、主は言われました。最後は、カペナウムに対するさばきの宣告です。カペナウムは主イエスが滞在しておられた町です。そこにペテロの家があって、イエスと弟子たちはそこを寝起きする場所にしていました。ですから、カペナウムの人々はいつもイエスの言葉を聞き、いろいろな奇跡も見ていたはずです。福音書にはカペナウムの町の人々がイエスに対して敵意を抱いていたというようなことは書かれていません。イエスがカペナウムで迫害を受けたとか、町から追い出されそうになったとか、そのようなことはありませんでした。ただ、彼らはイエスの教え、イエスの警告の言葉にまったく無関心であったのでしょう。しかし、イエスを拒否することも、イエスに無関心であることも、それは神にとって同じことです。イエスはマタイ12章30節で「わたしの味方でない者はわたしに逆らう者です。」と言われました。カペナウムの人々にも神の厳しい裁きが下りました。私たちは、福音に対して受け入れるか拒否するかどちらかの応答をしています。無関心の人々も、受け入れない限り福音を拒否する側に入ります。聖書の救いを受けるために必要なものは、聖書の知識でもなく、礼拝に出席することでもなく、奉仕や献金をすることでもありません。自分の罪を認め、イエスの十字架は自分の罪が赦されるためのものだったことを信じて、受け入れることです。その時、私たちは、神の子どもとなる特権が与えられ、永遠のいのちが約束されるのです。あなたは福音を受けますか、それとも拒否するのですか。今こそ決断の時ではないでしょうか。

2017年5月
« 4月   6月 »
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031  

CATEGORIES

  • 礼拝説教