2017年6月4日『よき隣人として生きる』(ルカ10:25-37) | 説教      

2017年6月4日『よき隣人として生きる』(ルカ10:25-37)

(1)律法の専門家の質問
 今日の箇所は、イエスの教えを聞いていた人が立ち上がってイエスに質問をしたことから始まります。25節「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」質問をしたのは律法の専門家です。これは旧約聖書の学者という意味です。ここに「イエスをためそうとして」と書かれているので、この人が質問したのは、本当にイエスからの答えを求めているのではなく、自分の質問にイエスがどう答えるのかを見て、イエスを批判しようとしていたようです。主イエスのところに質問をしに来る人は大勢いましたが、真剣に答えを求めている人と、イエスを批判するきっかけをつかむために質問する人がいました。彼が尋ねたのは、「人は何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるのか」ということでした。この内容から、この人は、自分が永遠のいのちを持っていることに確信がなかったことが分かります。旧約聖書のヨブという人が「人は死んだら生き返るのでしょうか」という質問をしていますが、これは、歴史の始まりからすべての人間が考えてきた問題です。5000年前にエジプトでミイラが作られたのも、いろいろな宗教も、人が死んだ後の世界を考えていたことを示しています。伝道者の書の中に「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。」(3:11)という言葉がありますが、神様が人間を神のかたちに似せて作られた時に、永遠の世界について考える能力を与えてくださいました。だから、神を信じていない人でも、家族が死んだら「天国」に行くと考えていますが、その「天国」を保証してくれるのは誰なのでしょうか。聖書を離れては、人間は永遠のいのち、天国でのいのちについて持つことができるのは希望的観測でしかありえません。しかし、主イエスははっきりと言われました。「私を信じる者は死んでも生きる。」この律法の専門家がイエスに「永遠のいのち」について尋ねたことは間違っていなかったのですが、彼は、自分の考えに縛られていたために、彼が望んでいた答えを得ることはできませんでした。
 この人の質問に対して、主イエスは、彼の心の思いを知っていたので、逆に彼に尋ねられました。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」主イエスは、彼に、あなたは律法の専門家なのだから、答えを知っているはずでしょうと、問いかけられたのです。すると彼は、旧約聖書をいつも読んでいますから、すらすらと答えました。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」イエスは、「旧約聖書の中で最も大切な戒めは何か」という質問に対して、この律法学者が答えたのと同じことを答えておられます。つまり、第一に全力を尽くして神を愛すること、第二に隣人を自分自身のように愛することがもっとも大切な神の命令なのです。律法学者が正しい答えをしたので、主イエスは彼に「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」と答えれられました。この律法学者は、自分の質問に対して自分で答えさせられて、それを実行しなさいと言われたので、自分の愚かさを指摘され、馬鹿にされたように感じたかもしれません。でも、ここでイエスが本当に言おうとされたことは、そもそもの質問が間違っているということでした。この人は、「何をしたら永遠のいのちを得られるか」というものでしたが、主イエスの教えは、人は何かをすることによって永遠のいのちを得ることはできないということです。罪が赦されて永遠のいのちを得るために必要なのは、律法を完全に守ることではなく、私たちが律法を完全に守ることは不可能だということを認めることなのです。それが罪の悔い改めです。しかし、この律法学者は、自分は律法を完全には守れないけれども、一生懸命ある程度までは律法を守っているとことを自慢する思いがありました。それで、29節にあるように、彼は「自分の正しさを示そうとして」主イエスに尋ねたのです。「私の隣人とは、だれのことですか。」彼は、自分がすべての人間を自分と同じように愛することなどできないということを知っていました。しかし、彼は、自分が律法を守れないことを認めたくないので、隣人とはどの程度の関係の人を意味するのか、「隣人」を定義してほしいとイエスに言ったのです。これに対して、主イエスが離されたのが、有名な「良きサマリヤ人」の例え話でした。

(2)良きサマリヤ人の例え
 そこで主イエスは例え話を話されました。その目的は、律法の専門家に「隣人とは誰のことか」を教えることでした。というのは、この点を理解することが、この人にとって永遠のいのちを得る道であったからです。30節で、主イエスは言われました。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。」エルサレムからエリコまでは30キロくらいの距離ですが、その道を旅することには大きな危険がありました。エルサレムは海抜800メートルの山の上にあり、エリコは死海のほとりにある町で海抜マイナス400メートルです。つまり30キロの間に、高度が1200メートルも下る急な坂道で、がけや谷があり、道はくねくねと曲がっているために、多くの盗賊がものかげに隠れていて、旅人を襲っていたのでした。盗賊は、旅人の持ち物を奪うだけでなく、殺すこともよくありました。この人も、そのような盗賊に襲われ、持ち物を全部盗まれて、激しく殴られたために意識を失って道に倒れていました。この旅人は、早く助けないと死んでしまうかもしれないほどの危険な状態でした。
 そこに3人の人が通りかかります。最初に通りかかったのは祭司でした。祭司はユダヤ教の聖職者で、人々の罪の赦しのためにいけにえを捧げて祈りするという働きをしていました。当時エルサレムの神殿で働く祭司たちの多くはエリコに住んでいました。おそらくこの祭司はエルサレムの神殿での聖職者としてのお勤めを終えて家に帰るところであったと思います。彼らは旧約聖書の教えをよく知っていましたから、レビ記19章34節の「あなたは彼をあなた自身のように愛しなさい。」という教えも当然知っていたはずです。この祭司は、倒れている人を見ると、道路の反対側を通って通り過ぎて行きました。もし、倒れている人が死んでいたら、その人に触ると祭司は宗教的な意味で汚れてしまいます。宗教的に汚れるとしばらく仕事ができなくなります。それで、彼は道の反対側を通って通り過ぎて行きました。宗教的に汚れないために、彼は主イエスが旧約聖書の中で2番目に大切な戒めを無視したのです。
 2番目に通りかかったのはレビ人でした。レビ人は、祭司のアシスタントとして神殿の中で様々な仕事をしていました。また、旧約聖書の時代には契約の箱というのがあって、それを運ぶのも彼らの仕事でした。31節には「彼を見ると」と書かれているので、このレビ人は、倒れている男に近寄って、その男の状態を見ましたが、彼も男を助けずに道の反対側を通って通り過ぎて行きました。おそらく、彼も祭司と同じように、死人に触って宗教的に汚れることを恐れて、彼は通り過ぎて行ったのでしょう。
 3番目にその男の近くを通りかかったのはサマリヤ人でした。例え話を聞いていた人々は、ここでサマリヤ人が登場したことにひどく驚きました。ユダヤ人はサマリヤ人を嫌っていました。この二つの民族の間の憎しみはすでに何百年もの間続いていたのものでした。イエスの時代にサマリヤ地方を通っていたユダヤ人が殺害されることがよくあり、その憎しみはますます強くなっていたのです。そんな状況の中で、イエスは、3番目にサマリヤ人を登場させました。34,35節を見ると、このサマリヤ人は強盗に襲われているユダヤ人に対して最大級の助けを与えています。応急手当をして、ユダヤ人をロバに乗せて自分は道を歩きました。宿屋まで行くと宿屋の主人に一泊の宿泊代に十分なお金を渡して、彼の世話を頼んで、もっとお金が必要な場合には、戻って来た時に、不足分を払うと約束したのです。そこに倒れていたのはサマリヤ人が嫌っていたユダヤ人でした。憎しみを抱いている民族の男でした。しかし、このサマリヤ人は、道に倒れているユダヤ人を見て、かわいそうに思いました。この言葉は、非常に強い感情を表す言葉で、元々の意味は「内臓がかき回されるような思いがする」という意味です。
 
(3)イエスのチャレンジ
 そこまで話をして、主は律法の専門家に尋ねました。「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」するとその人は、「その人にあわれみをかけてやった人です。」と答えました。彼は「サマリヤ人」という言葉を使いたくなかったので、このように答えました。そこで主イエスは彼に言いました。「あなたも行って同じようにしなさい。」律法の専門家はイエスに「私の隣人は誰ですか」と尋ねました。言い換えると、どの関係の人までが自分の隣人なのかと、隣人と隣人でない人との間に線を引きたいと思ったのです。彼はすべての人を愛することは不可能だということをが分かっていたからです。しかし、イエスは彼に尋ねました。「この3人のうち、だれがこの人の隣人になったのですか。」隣人とは自分との関係の近さで決まるものではありません。隣人とは、自分から近づいていくすべての人間を意味するのです。そして、イエスは、律法の専門家に、「あなたもいろいろな人のところへ行ってその人の隣人になりなさい。」と言われました。律法の専門家は、自分は聖書の命令を守って正しい人間であることを証明するために、隣人の枠を自分が自然な心で愛せる人だけに限定してほしかったのですが、主イエスは、隣人とは、自分が線を引いて決めるものではなく、自分がすべての人、たとえ自分にとって敵と思える人にさえも自分から近づいて、自分から隣人にならなければいけないと教えておられます。
 イエスの言葉を聞いてその律法の専門家がどうしたのか聖書には書かれていませんが、おそらく、自分にはそんなことはできないと思って、永遠のいのちを得る答えを持たずに、立ち去って行ったと思います。イエスがこの例え話を通して彼に教えたかったことは、人間は自分の決断や努力だけでは律法全体を守ることはできないことを認めることでした。私たちが神の前に自分が不完全であることを認めて、自分のような人間を愛し罪を赦すために御子イエス・キリストを十字架につけるほどに神が自分を愛してくださるということを知ることによって、私たちは自分の罪を赦されて、新しい人生を始めることができるのです。クリスチャンになるとは、神の前に自分の罪を認めること、そして自分の罪が赦されるために神ご自身が命を捨てるという大きな犠牲を払ってくださったことを感謝して受け取ることです。主イエスは言われました。聖書の中で最も大切な二つの戒めは、全力を尽くして神を愛することと、隣人を自分自身のように愛することだと。しかし、ここに順番があります。まず、私たちが神に愛されていることを知って神の愛を受け入れる時に、私たちは神を愛する者になります。そして、神から愛されていることを知る時に、人間ははじめて自分の隣人を自分自身のように愛することができるのです。神様の愛は、私たちの心のいろいろな束縛から解放してくれます。でも、それだけではありません。神を信じる者だけが永遠のいのちを持つことができます。神を信じない者は、この世でどんなに成功しても、死んだ後は永遠の滅びに落ちてしまいます。私たちは何かをして永遠のいのちを得ることはできません。ただ、神の赦しの愛を受け取る時に永遠のいのちを得ることができるのです。クリスチャンになって神に祈り神からの愛や助けを受ける時に、自分の限界を超えて、私たちも良きサマリヤ人になることができます。
 
 オランダ人女性コリー・テン・ブームの家族は、第二次大戦中にユダヤ人をかくまったことが見つかって強制収容所に送られました。厳しい収容所での生活で、姉も父親も死にました。彼女は奇跡的に生き残りましたが、収容所で経験した苦しみを忘れることはできません。戦後、ドイツの教会は壊滅的な状況でした。彼女はクリスチャンとしてドイツの教会を訪れて、クリスチャンとしてドイツ人を赦すというメッセージ語るようになりました。ある教会での集会が終わった時、会衆の中から一人の男性が笑顔で近づいて来て握手を求めて手を差し出しました。ところが、その男は自分たちを苦しめた収容所の看守の男でした。彼女には忘れられない顔でした。相手は自分のことを覚えていません。その男は戦後自分の罪を悔い改めてクリスチャンになっていたのです。コリーは、自分が赦しのメッセージを語ったのだから、彼と握手をしなければならないことは分かっていたのですが、手が差し出すことができませんでした。彼女は、その時、必死で心の中で祈りました。神様助けてください。この人を赦す心を与えてください。すると、不思議に神の力が働いて、彼女は彼と握手をすることができました。このようにして、彼女は神様によって、彼女の心を縛っていたものから解放されました。神様が働く時、私たちはすべての人の隣人になることができるのです。

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