2017年6月11日『どうしても必要なこと』(ルカ10:38-42) | 説教      

2017年6月11日『どうしても必要なこと』(ルカ10:38-42)

 ルカの福音書では、9章の51節から19章の27節までにわたって、主イエスがガリラヤ地方での働きを終えて、十字架にかかるためにエルサレムに向かう途中、ユダヤ地方で働かれたこと出来事が記されています。この間、主イエスが病気の癒しとか大きな奇跡の働きをすることは少なく、むしろ弟子たちを教えることに重点を置いておられました。そのような中で、今日は、主イエスと弟子たちがマルタとマリヤという二人の女性の家を訪れた時の出来事が記されています。非常に短いストリーでルカの福音書にしか記されていませんが、この出来事はルカの福音書において非常に重要な位置をしめています。前回は、良きサマリヤ人のたとえ話から学びました。主イエスがもっとも大切な戒めとして「すべてを尽くして神を愛する」ことと「隣人を自分自身のように愛すること」を教えられました。主イエスに質問した律法の専門家が、これらの戒めを正しく守っていることを証明しようとして「隣人とは誰ですか」という質問をしましたが、それに対して、隣人とは、線を引いて範囲を決めるものではなく、自分がすべての人に近づいて隣人にならなければいけないことを、そのたとえ話をとおして教えられました。それに続く今日の箇所は、もっとも大切な戒めである「全力を尽くして神を愛する」ということに関わる出来事です。今日良く使われる言葉で、「プライオリティ」というのがありますが、私たちの人生のプライオリティ、人生で何が最も必要なことなのか、何が最も重要なことなのかということを問うている出来事です。

 マルタとマリヤのストーリーはとても有名で、マルタは活動的だがあんまり信仰的ではなくマリヤは信仰深い女性だという感じで受け取られることが多いですが、この見方はちょっと短絡的で、マルタにとっては不公平な見方だと思います。二人とも主イエスと親しい素晴らしい女性でした。ただ、この時、マルタは正しいプライオリティを持っていませんでした。ヨハネの福音書11章5節には、「イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。」と書かれていますし、イエスがユダヤ教の祭りに参加するためにガリラヤからエルサレムに出かける時は、よく彼らの家を訪れていました。マルタとマリヤと弟のラザロは、主イエスを救い主と信じて、イエスの弟子になっていました。主イエスを客に迎えると12人の弟子たちも一緒ですから、最低13人です。13人のために食事を出し一晩泊まらせることは、決して簡単なことではありません。しかし、この3人の兄弟はいつも喜んで彼らを家に招いていました。マルタは、主イエスと弟子たちが家にやって来るのを見た時に、とても喜びました。誰でも、自分が大好きな人を家に招くことは大きな喜びです。そして、彼女はすぐに考えました。「ご馳走を食べてもらいましょう。」
すぐにマルタとマリヤは部屋を片付けて、マルタは近くの市場に食材を買いに行って、マリヤに台所の準備を頼んだことでしょう。突然13人分の食事を準備することになったので、二人ともちょっと慌てていたと思います。マルタは市場から戻ってくると早速食事の準備を始めました。最初は、マリヤも手伝っていたでしょうが、途中で、マリヤはイエスが座っておられる所に行き、主の真ん前に腰を下ろして主イエスの話をじっと耳を傾けて聞き始めました。マリヤは何よりもイエスの教えを聞くことを楽しみにしていたからです。ユダヤ教の教師ラビの目の前に女性が座ることは普通ないことでしたので、目の前に座ったということは、マリヤがそれほどイエスの教えに対する渇きを持っていたことを表しています。彼女にとって最も大切なことは、イエスの口からイエスの教えを聞くことでした。彼女にとっての人生のプライオリティは神の言葉を聞くことだったのです。主イエスはルカの6章47節で真の弟子とはどういう人かという定義をしておられます。「わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。」み言葉を聞いて主の教えを吸収することは、キリストの弟子として生きるための基本なのです。特に、この時、主イエスは十字架の時が近づいていることを知っておられたので、弟子たちにできるだけ多くのことを教えたいと思っておられたはずです。主イエスは、目の前で熱心に自分の言葉を聞いているマリヤを見て、非常に喜んでおられたと思います。

 一方、マルタは、自分にできる限りの力をもって主が喜ぶようなおもてなしをすることに集中していました。主イエスと弟子たちにご馳走をもてなすことは彼女にとって大きな喜びでしたが、13人分の食事を準備することは料理が得意な彼女でも決して簡単なことではありません。時間が過ぎて行くうちに、次第に彼女の心が焦ってきました。彼女は、み言葉を聞くことが嫌いなので料理をしているのではありません。彼女もイエスの言葉を聞きたいという思いがあったはずです。マリヤが自分だけ働かせてイエスの足元に座るのを見て、心の中で(わたしだってイエス様のお話を聞きたいのに。)というつぶやきが生まれました。私たちは、やることが多すぎて疲れてくると、自分がかわいそうに思えて他の人を裁きたくなります。この時のマルタがまさにそんな状況でした。40節に「マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かなかった」と書かれています。「気が落ち着かない」と訳されている言葉は、「心があちこちから引っ張られる」という意味を持っています。主イエスの教えを聞きたいし、イエスと弟子たちにおいしいご馳走をたべさせてあげたいし、また彼らが泊まれるように部屋の準備もしなければならないしと、やることが多すぎて心があっちからもこっちからも引っ張られて身動きができなくなっていました。この時の主イエスの思いは、マルタにも座って自分が話す言葉をゆっくりと聞いてもらいたかったのです。マルタは、主イエスに喜んでもらうために一生懸命になっていましたが、実は、主イエスは寂しさを感じていたにちがいありません。マルタは、最初、自分を一人働かせてイエスの真ん前にすわって話を聞いているマリアに対して怒っていましたが、そのうちに、マリヤに何も言わないイエスに対しても腹が立ってきました。彼女は、自分をコントロールすることができなくなり、イエスに向かって言いました。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」主イエスを信じる者の中で、こんなに主イエスに対してはっきりと文句を言ったのはマルタだけです。でも、彼女は怒りをぶちまけた後、心の中はひどく落ち込んでいたことでしょう。自分がとても尊敬している主イエスに対して、きつい言葉を言ってしまったからです。
 それに対して、主イエスは非常に優しい言葉でマルタに言いました。主イエスはマルタを愛しておられました。主は彼女の名前を2回繰り返して呼んでいます。これは非常に珍しいことです。ここに主イエスの愛が込められています。そして「あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」と言われました。主はマルタが一生懸命にイエスや弟子たちをもてなそうとしていることを叱っているのではありません。マルタは、主を喜ばせようとしたのですが、それは彼女がやりたいと思ったことであって、その時主イエスが望んでいたものではありませんでした。そのために、彼女はこの世的なことに熱心になりすぎて、どうしても必要なことを忘れてしまったのです。すごく忙しくなって、そのために喜びを失ってしまいました。主イエスはマルタのプライオリティが間違っていることを彼女に伝えました。
 マルタの良いところは主の戒めを素直に受け入れたことです。というのは、ヨハネの福音書の11章に登場するマルタは立派な信仰告白をしているからです。自分の弟ラザロが死んで4日後にやって来たイエスとの会話の中でその告白がなされました。マルタはイエスに「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」と言いました。すると主イエスが彼女に言いました。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」するとマルタが信仰告白をしました。「私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」マルタのこの告白は、弟子ペテロの「あなたは生ける神の子キリストです。」という告白とともに新約聖書の最も偉大な信仰告白と言われています。この二人の信仰告白を土台としてキリスト教会は建てられてきました。彼女の信仰が変わったのです。

 私たちは何をプライオリティとして生きているでしょうか。この時のマルタのように、本当に必要なものではないことに熱心になってしまって、神の言葉を聞くことをおろそかにしていないでしょうか。私たちは、与えられている仕事や家庭のために一生懸命になることは大切なことです。また教会の中でいろいろな奉仕や伝道の働きを行うこともさらに大切なことです。しかし、最も大切なことは一つだけしかありません。それは、神の声、神の言葉をマリヤのような飢え渇きをもって聞くことです。主イエス自身がサタンの誘惑を受けた時に旧約聖書の言葉を引用して答えておられます。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」(マタイ4章4節)マリヤは、この時、み言葉を聞くことがどうしても必要だということを知っていました。それで、彼女は良いほうを選んだのです。聖書は、この世の中にどうしても必要なものは一つしかないと教えています。それは、神の言葉を聞き、それに従って生きることです。神の言葉を聞くことは、私たちに永遠のいのちを与えるからです。永遠のいのちを得る方法は一つしかありません。神様にとっては、私たちが何をしているかということよりも、神様とどのような関係を持って生きているのかということを重要なのです。ある時主は言われました。「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。」永遠と比べれば、私たちの人生は本当に短いです。しかし、この地上での生き方が私たちの永遠を決定します。私たちがこの世でどのように成功しても、有名になっても、それらはすべて死ぬときに消えてなくなるものです。このことを聖書ははっきりと宣言しています。私たちの人生のプライオリティは、この事実に基づくものでなければなりません。中国のことわざに「箱を買って真珠を返す」という言葉があるそうです。昔中国で一人の宝石商が真珠を売るために、特別にきれいに飾った箱に入れて売っていました。すると別の国から来た人がそのきれいな箱に入った真珠が気に入って買ったのですが、箱だけ受け取って真珠を宝石商に返しました。その人は箱がきれいだということは分かったのですが、真珠にどれだけの価値があるのかを知らなかったのです。
 クリスチャンも、この世の生き方に流されていないか、自分が聖書の言葉を読み、それに従って生きることをプライオリティにしているか自分自身に問うて見ることが必要です。ある人がこのような詩を書いています。

 あなたを悩ますものはなんですか

1.人が滅びに向かっていることか、自分の車に傷がつけられることか
2.礼拝を休んだことか、仕事を休んだことか
3.聖書を読まなかったことか、新聞を読まなかったことか
4.子どもが学校に遅刻することか、教会学校に遅刻することか
5.教会の献金が減っていることか、自分の収入が減っていることか
6.聖書の学び会い出られなかったことか、好きなテレビ番組を見逃したことか

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