2017年6月25日 「主よ、祈りを教えてください」(ルカ11:1-4) | 説教      

2017年6月25日 「主よ、祈りを教えてください」(ルカ11:1-4)

 今日の箇所は、いわゆる私たちが礼拝の中で神様に捧げている「主の祈り」が記されているところです。これは「主の祈り」と呼ばれて、教会の歴史の中で2000年間神様に捧げられて来た祈りですが、正確に言えば、これは「主の祈り」ではなく「主が弟子たちに教えた祈り」です。というのは、この祈りはイエスご自身が祈る祈りではないからです。「祈りの中に、私たちの罪をお赦し下さい」という祈りがありますが、主イエスは、罪のない神様ですから、この祈りを祈ることはありません。私たちが祈る時に、このように祈りなさいと主が教えてくださった祈りです。主の祈りは、マタイの福音書とルカの福音書に記されていますが、少し内容が違います。私たちが礼拝の中で捧げている主の祈りはマタイの福音書の祈りに基づいています。ルカの祈りはマタイのものよりもかなり短くなっています。それは、主が弟子たちに祈りを教えたのは1回だけではなく、何回か繰り返して教えられたからです。ルカの福音書11章1節によれば、主イエスがある所で祈っておられたのですが、祈りを終えると、弟子の一人が主イエスに、「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」と言っています。ここで言われているヨハネとは、バプテスマのヨハネです。旧約の時代、有名なユダヤ教の教師は、弟子たちに祈りを教え、弟子たちは、教えられたとおりの祈りを繰り返していました。バプテスマのヨハネも弟子たちにそのような祈りの模範を教えていたのでしょう。弟子の一人が、自分たちもそのような祈りを教えてもらいたいと思ったのです。この祈りは2節から4節までに記されていますが、2つの部分に分かれます。2節の祈りと、3,4節の祈りです。前半は、神と自分の関係における祈りで、いわば縦の祈りです。後半は、私たち人間だけに関わる祈りなので、横の祈りと言えるでしょう。

(1)縦の祈り
 主イエスは、弟子たちに祈りを教えられましたが、2節には次のように書かれています。「父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。」まず、主は祈る時に「父よ」呼びかけて祈りを始めるように言われました。私たちにとっては、神様に向かって「天のお父様」と呼ぶことに慣れていますが、当時のユダヤ人は、非常に驚いたと思います。旧約聖書では、神様は天地創造の神であり、歴史を支配する神です。父なる神という呼び方は非常に少いですし、その場合も、イスラエル民族の父という考えです。旧約聖書の時代の人々にとって、神様は偉大な神であり、また、自分からは遠く離れた神でした。しかし、主イエスは、私たちと神様との関係をまったく新しいものにされました。主イエスの教えは、一人のクリスチャンが、自分の個人的な霊的な父親として神様に向かって「お父様」と呼ぶことができるのだということを教えているのです。ローマ書8章15節には次のような言葉があります。「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。」イエス・キリストを救い主と信じる時に、私たちは、神のこどもとなる特権が与えられます。この世界を造り、人間の歴史を支配しておられる神様が、私の霊的な父親になってくださるのです。これまでは、自分から遠く離れていた神様が、今では、私の父親になってくださいました。私たちが信じている神様は、偉大な神様ですが、同時に、私の個人的な父親のように私に個人的に働いてくださる神様です。親は、自分のこどものためなら喜んで働きます。いつでも子供の味方になります。子供が家を出て一人暮らしを始めると、両親は子供がちゃんと食事をしているのか心配になって、電話したり、ものを送ったりします。それと同じように、神様は、私という一人の人間のことを心配してくださり、見守っていてくださるのです。私たちの祈りはそのような神様に向けられています。
 主イエスは、続いて「御名があがめられますように」と祈りなさいと言われました。名前は、私たちにとって大切な名前です。親が新しく生まれた赤ちゃんに名前を付ける時に本当に悩みます。できるだけ良い名前をつけたいからです。普通親が子供につける名前は、プラスイメージの名前、目で見た感じも耳で聞いた感じも美しい名前であることを願います。「つよし」と名付けても「よわお」とは名付けません。「よしこ」と名付けても「わるこ」とは名付けません。ところが、ユダヤ人にとっては、名前とはその人のラベルやイメージだけではなく、名前はその人の性質そのものを表すものと考えられていました。特に神の名前は、神そのものだと考えられていました。ですから、詩篇20篇7節に「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。」とありますが、これは、神様の名前がかっこいっから自慢しようという意味ではありません。この言葉の意味は、人間の力に頼るのではなく、神の力を信頼しようという信仰告白なのです。ですから、「御名があがめられますように」という祈りは、神ご自身がいつも崇められていますようにという祈りです。でも、私たちはどのようにして神を崇めることができるのでしょうか。宗教改革者のルターは、「人はどのようにして神の御名をあがめることができますか」という質問に対して、「私たちの生活と信仰が真実なものであることによって」と答えています。もう少し具体的に言えば、生活の中で、私たちが何をしている時でも、神様のことを考え、神様の言葉に耳を傾け、その言葉に教えられて、従う生き方をしている時に、神の名があがめられるのです。
 第三に、主は「御国が来ますように」と祈りなさいと言われました。ギリシャ語はとても表現が細かい言葉なのですが、ここで「御国が来るように」という願いは、繰り返して起こることではなく、一回、ある時に起こる出来事ととして語られています。御国と訳されている言葉は、英語では「Kingdom」ですが、王様が支配する国という意味ですが、「神の王国が来る」とは、一つには、聖書が預言してまだ実現していない「主イエスの再臨」を意味しています。聖書は、この世が終わる時に、御子イエスがもう一度この世に目に見える姿で現れることを預言しています。主イエスは、一度目は苦しむしもべとして、私たちの身代わりになって十字架にかかるために来られましたが、2度目はこの世をさばき支配するために来られます。その時、神のさばきによってすべての悪は滅ぼされ、この世界は神様の支配の下に置かれます。そして、神を信じる人々は神の御手によって守られることが約束されています。クリスチャンの未来は勝利です。神の支配する時が来るからです。
 もう一つの意味としては、クリスチャンの毎日の生活に関わるものです。ルカの福音書の17章20-21節で主イエスは言われました。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。 『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」私たちの心の中に神の王国があるとは、神様に従う心を持つことを意味します。ですから、私たちは、主の祈りで、「御国が来ますように」と祈っているのは、私たちが死ぬまで神様に従いとおしますという信仰の告白を表しています。

(2)横の祈り
 つづいて、私たちにかかわる横の祈りとして、最初願いは「私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。」というものです。ここで、「日ごと」と訳されている言葉は、非常に珍しい言葉で、新約聖書では、ここと、マタイの福音書の「主の祈り」の箇所だけに使われているもので、有名なギリシャの古典文学でもほとんど使われていないそうです。そして、その言葉の意味が「明日の」という意味なのです。ですから、ここでの意味は「明日食べるパンを毎日与えてください」ということになります。パンというのは主食ですから、それは私たちの毎日の生活で必要なものの代表と言えます。祈りは、基本的に神様への願いですが、その第一の祈りが「パンを与えてください。」ということに神様の愛を感じます。神様が、私たちの生活の基本的な必要を心配してくださるからです。よく、ドラマで、都会に出て来た子供のことが心配で、母親が電話で、「ちゃんとご飯食べているか」と聞く場面がありますが、それと同じことです。神様は、私たちがちゃんとご飯を食べられているのかいつも心配しておられるのです。しかし、もう一つの面として、イエス様が、ヨハネ福音書6章で、「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。」(51節)と言われました。私たちの体が健全な生活をするためには食べ物を食べなければなりません。その代表がパンです。それと同じように、私たちの霊的な部分が健全に働くためには、霊的なパンを食べることが必要です。主イエスが、「わたしがいのちのパンです」と言われました。そしてわたしを食べるものは永遠に生きるとも言われています。主イエスこそが、私たちの目に見えないいのちが生きるのに必要なものです。体のためにパンを食べなければならないのと同じように、私たちが永遠のいのちを持つためには、いのちのパンであるイエスを受け入れなければなりません。
 第二の祈りは、赦しを求める祈りです。「私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。」マタイの福音書でも同じことが言われています。私たちは、毎週、主の祈りを祈っていますが、この祈りはよく考えると、ある種の厳しさをともなっています。というのは、この祈りによれば、私たちが神様から自分の罪を赦してもらうためには条件があります。その条件は、自分が他の人からひどいことをされた時に赦したということです。しかも、ルカは「私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します」と書いていますが、「赦します」という動詞が現在形になっているのは、一回、過去に赦した経験があるということではなく、いつでも人を赦す心を持っています、つまり繰り返して赦しますという意味を持っています。ですから、人を赦そうという心を持たない人が、この祈りをささげるならば、その人は神の赦しを受けることができないということになるのです。主イエスが弟子たちに伝えようとしておられるのは、真のキリストの弟子は赦す人であるということです。しかし、信仰があれば誰でも人を赦すことができるほど、赦すことは簡単ではありません。赦そうと思っても、その思いを持ち続けることは本当に難しいです。しかし、赦すことの出来ない自分を見て葛藤しているという事実自体、神様の恵みがその人の心の中で働いていることの証拠です。葛藤を感じていない人は最初から赦す心がなく、すぐに憎しみや怒りに走るからです。主の祈りが警告を与えているのは、クリスチャンでありながら、最初から人を赦そうという心も願いも持っていない人たちです。
 第三の祈りは「試み」 に関するものです。4節に「私たちを試みに会わせないでください。」と記されています。「試み」と訳されている言葉は、「試練」「誘惑」とも訳される言葉です。日本語で考えると、これらはまったく別のことのように思われますが、共通するのは、それらを経験する時に、私たちの信仰がどれほどのものかがテストされるという点であり、対応を間違えると罪を犯してしまうという点です。これらは、それ自体悪いものではなく、むしろ、私たちの信仰にとっては良い結果をもたらすものです。主イエスご自身、神の御子として働きを始める前に、40日間、悪魔の誘惑を受けられましたが、それらに打ち勝つことによって、神の子としてふさわしい者であることを示されました。また、十字架にかかる前に、ゲッセマネの庭でお祈りをされた時も、十字架にかかるという自分に与えられた任務から逃れたいという思いに勝利してから、十字架に向かわれました。へブル人への手紙2章10節に次のような言葉があります。「神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。」
この言葉は、簡単に言うと、主イエスが、私たち罪人に救いを与える救いの創始者、パイオニアになられたのは、苦しみの経験をとおしてであって、それは父なる神の御計画に基づいていたということです。主イエスは罪のない神の御子ですから苦しみを受ける必要はまったくなかったのですが、私たちの身代わりになるために苦しみを受けてくださいました。私たちが試みや苦しみを経験する時に、主イエスの十字架の愛がより深く理解できるようになりますし、同じように苦しみを経験している人の気持ちが理解できてその人を励ますことができます。キリスト教の歴史においても偉人と言われる人々は、みな、何らかの苦しみを経験しています。試みを受けたことによって、信仰が強められたからです。イエスがここで「試みなわせないでください。」と祈るように勧めているのは、このような試練をすべて取り除いてくださいと願うことではありません。むしろ、主イエスは、私たちが自分の弱さを認めて、罪に陥ってしまうほどの力を持つ大きな試みから守ってくださいと願うことです。どんなに強い信仰者でも、神様の恵みの働きがなければ、試みに支配され、負けてしまうことを私たちは覚えておかなければならないのです。
 主イエスは、弟子たちに「主の祈り」を教えられました。これは非常に簡潔な祈りです。この祈りを絶えず捧げる時に、私たちは神様から新しい力やを受けることができます。でも、これは最初に言いましたように、正確に言うと、「主の祈り」ではなく、「主が弟子に教えた祈り」です。本当の主の祈り、つまり主イエスが祈った祈りはヨハネの福音書の17章に記されています。十字架にかかる直前、主イエスは、自分の願いをかなえるためではなく、弟子たちのため、クリスチャンのために長々と祈られました。主は、よく、父なる神と夜を徹して祈られました。それが主イエスの力の秘訣でした。神の御子でさえ、そのように、父なる神との時間を過ごされたのですから、私たちも、神様と1対1になって祈ることはどうしても必要なのです。

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