2017年7月2日 『祈り続けなさい』(ルカ11章5~13節) | 説教      

2017年7月2日 『祈り続けなさい』(ルカ11章5~13節)

 ルカの福音書の11章は、イエスの弟子たちがイエスに「祈りを教えてください。」と言ったことから始まっています。1節から4節では、主は弟子たちに、何を祈るべきかということについて教えられました。主イエスが最初に教えられたのは、私たちは祈る時に自分の父親に語りかけるように、「お父さん」「父よ」と呼びかけることができるということでした。そして、祈りの内容として、神についての祈りは「神様の名前があがめられる」ことと「神の国、つまり神の支配がこの世に実現すること」であり、地上の生活に関わる横の祈りとしては、「毎日の食べ物が与えられること」「自分の罪が赦されること」そして「自分に耐えられないような試みに会うことがないこと」であると主は教えられました。この教えは祈りの基本的アウトラインですから、私たちがこの祈りを一字一句同じ言葉で祈るようにと教えられているのではありません。どのようなことを第一に求めるべきなのかを教えておられるのです。今日の箇所は、それに続いて、主イエスが弟子たちに、どのような態度、どのような期待をもって祈るのか、具体的な祈り方を教えるために、5節から8節で一つのたとえ話を話されました。

(1)パンを借りに来た友だちの例え話(5-8節)
 当時のユダヤ人の家には部屋は一つしかなく、家族が全員その部屋で寝ていました。ある真夜中、すでに子供たちも眠っていた家族に、一人の友人が尋ねて来てドアをノックします。子供たちがようやく眠りについたときにドアをノックされるとその音で子供たちが目を覚ますかも知れません。その友人は、その人の友だちが旅の途中にやって来たけれども、その人に食べさせるものが家に何もないので、パンを3つ貸してほしいというのです。どうして、その人の友だちは真夜中にやって来たのかというと、イスラエルは昼間は非常に暑いので、日が落ちてから旅に出かける人が多いのです。そのため、目的地に到着するのが真夜中になることも珍しいことではありませんでした。また、イスラエルでは、「客人をもてなす」ことは最も大切なことと考えられていましたので、どんなに客が遅く着いたとしても、ご飯を出さない訳にはいかないのです。それで、この人は、たまたま家にパンの残りがなかったのか、友だちのところに借りに来たのでした。寝ていたその家の主人は、せっかく一日の仕事を終えて休んでいるのに、ドンドンと扉をたたく音が聞こえて、腹が立ったと思います。彼は友だちに言います。「面倒をかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。」そして、イエスが言われました。この家の主人は、友だちがドアをたたき続けるなら、うるさくて寝られないので、友だちだからという愛の心ではなく、早く面倒なことから逃れたいという気持ちから、その友だちにパンを3つ貸すだろうということです。
 このたとえ話で、イエスが弟子たちに教えようとしたことは何でしょうか。友達にパンを借りるために来た人のように相手にどんな迷惑が掛かっても求め続けなさいということでしょうか。そうではありません。主イエスは、このたとえ話で、寝ていた家の主人と神様を比べているのです。この家の主人は、相手が求め続けるので、厄介払いをしたいために、自分がゆっくり寝られるためにという理由で、友だちのリクエストに応えました。そこには愛情も友情もありません。ところが私たちが祈っている相手は、私たちの天のお父様です。愛に満ちた天の父なる神は、自分の愛する子どもが助けを求めたら、この家の主人よりもっと早く、もっと喜んで、私たちの願いを聞いてくださるはずです。私たちと神様の関係は、友だちの関係ではなく親子の関係です。私たちの父なる神様は、たとえ話の家の主人のように、寝ることもうとうとすることもありません。また、夜中にやってきて迷惑だと腹を立てる方でもありません。親切でない友だちにパンを貸して欲しい頼みに来た人が、ドアをたたき続けた結果パンを借りることができたとするならば、私たちが父なる神様に捧げ続ける祈りに、天の父なる神様は喜んで答えてくださるのです。私たちが全能の神様のにいつでもどこでも自由に祈ることができるとは、何と素晴らしい特権でしょうか。

(2)求めなさい、探しなさい、叩きなさい(9,10節)
 主イエスが9,10節で言われました。「わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」求める、捜す、たたくとは、祈りのいろいろな面を表わしていると思います。これは命令文ですが、厳密に訳すと、「求め続けなさい、捜し続けなさい、たたき続けなさい」となります。この命令は、1回やりなさいという命令ではなく、いつもそのようにする状態でいなさいという命令なのです。最初の、「求めなさい」という言葉ですが、ギリシャ語には「求める」を意味する言葉が2つあって、一つは、同じ立場の人同士が要求する場合でエロタオーと言う言葉です。この言葉は、主イエスが父なる神に求める時に使われています。ヨハネの福音書の17章9節の「わたしは彼らのためにお願いします。」の「お願いします」が、この言葉です。もう一つの言葉は、低い立場の人が上の立場の人にお願いする場合でアイテオと言う言葉で、9節の「求めなさい」はこの言葉です。この言葉は、こどもが親に頼むとき、人が神に頼むとき、部下がリーダーに頼むときに使われます。ここでは、「アイテオー」が使われています。このことは、私たちが神様に求める時に、神の前に謙遜な心を持つことが必要だということを教えていると思います。「祈ったら答えてもらって当然」というような心ではいけないのです。子どもが親に何かを買ってもらおうとするときに、考えると思います。「これは親が買ってくれるだろうか、それともだめだと言われるだろうか。」神に何かを求める時に、これは神様が喜ぶ求めなのか、神様が認めてくれる求めなのか。」子どもなりに計算をして親に求めると思いますが、私たちが神様に求める時も同じです。自分が求めているものは、本当に必要なものか、自分にとって本当に良いものなのか、神様が認めてくれるものなのかと考えて求めることが大切です。
 2番目は「探しなさい。」です。探すというのは、求めることに行動が伴うことです。何かが必要だと思うだけでなく、立ち上がって助けてくれそうな人を探して見回すことです。たいてい、何かを探している時は、それが見つかるまで探し続けます。ここで使われているギリシャ語の言葉(ゼテオー)も、何かを熱心に必死に捜すという意味を持っています。私自身、しょちゅう探し物をしているので分かるのですが、探すのに必要なものは根気強さとエネルギーです。これがないと途中であきらめてしまいます。主イエスが「探しなさい」と言われたのは、祈りとは、ちょちょっとお祈りして終わる、そのようなものではないということです。絶対見つけるのだという決意をもって探し続けることが必要なのです。
 3番目は「叩きなさい」です。これも厳密にいえば「叩き続けなさい」という命令です。これは、たとえ話のように、助けを求めて友達の家のドアをたたき続ける姿を現しています。ドアをノックする時、ドアは閉ざされています。ドアが開けられることを願ってノックします。私たちがお祈りをする時も、自分の目の前のドアが閉ざされているように思える時があります。様々な困難に直面する時、私たちは八方ふさがりの中にいるように感じます。そんな時、私たちは「神様を信じているのに、どうしてこんなんことになるんだろう。」と不信仰な思いが浮かんで来ます。しかし、こんな時こそ、神様を信頼してドアをノックし続けることが大切なのです。また、私たちがドアをノックするのは部屋の中に入る許可をもらうためです。部屋の中にいる人のほうが偉い場合、ドアをノックします。一方、身分の高い人は、身分の低い人の部屋に入る時はノックをしません。ですからドアをたたくということにも、私たちが謙遜な心で祈るべきことが示されているように思います。主イエスは言われました。「求め続けなさい。捜し続けなさい。叩き続けなさい。」私たちが祈る時、祈り続ける決意が必要です。その時、求めているものが与えられ、探しているものが見つかり、閉ざされていたドアが開かれると主イエスは約束しておられます。

(3)私たちは神の子どもである。(11-13節)
 弟子たちがイエスに「祈りについて教えてください」と頼んだ時に、イエスが最初に言われたことは、私たちの神は私たちの父親のような神だから、祈る時は「天のお父様」「父よ」と祈りなさいと言うことでした。そして、11-13節で、主はもう一度、私たちと神様の関係が父親と子供の関係であることを教えられました。「あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。」主は、ここで、少し極端なたとえを使っておられますが、子供がお腹が空いていて、魚が食べたい、卵が食べたいという言う時に、その子供に蛇やサソリを与えるような父親がいるはずがありません。最近は、時々、子供を虐待する親がいますが、普通、親は子供を守り、子どもが元気に育つことを願います。人間は神の目には自己中心な心を持つ罪人ですが、それでも父親は子どもに良いものを与えようとします。だとすれば、天におられる完全な神様は、喜んで私たちにもっとも良いものを与えてくださるに違いありません。ローマ人への手紙8章32節には次のように書かれています。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。そして13節にあるように、神様は、私たちにもっとも大切なものとして、聖霊を与えてくださるのです。聖霊とは、主イエスを信じる一人一人の心の中に、目には見えませんが主イエスが聖なる霊として私たちとともにいてくださることです。聖霊は、ギリシャ語でパラクレートスといい「助け主」と訳されます。、私たちが困難を経験するとき、悩むとき、悲しむとき、孤独を感じるときに、主が聖霊となって私たちに導きを与え、私たちを慰め励ましてくださいます。クリスチャンには、いわば、自分専用のカウンセラーでありボディーガードとなってくださる助け主が与えられているのです。私たちが祈る時に、聖霊が大いに働いていろいろな形で私たちの祈りに答えてくださいます。このことを知っているなら、私たちは何も恐れる必要はありません。クリスチャンには死んだ後、天国に行くことが約束されていますが、それだけではありません。地上の生活においても、私たちはいつも目には見えませんが聖霊なる神様と一緒に歩んでいます。神様に祈りながら、神様にたくさんのものを与えられ、教えられ、慰められて生きることができる、何とすばらしい生き方ではないでしょうか。

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