2017年7月30日 『偽善者の災い』(ルカ11章37~52節) | 説教      

2017年7月30日 『偽善者の災い』(ルカ11章37~52節)

 主イエスが十字架にかかるという大きな使命を果たすためにエルサレムに向かって旅をしている途中にも、いろいろな出来事が起こります。11章では、イエスに対して反感を持っているユダヤ教のリーダーたちからの批判的な態度に、主は悩まされています。彼らの心があまりにも固くなっていたので、イエスが何をしても、何を教えても、彼らはイエスを批判しました。パリサイ人たちは、自分たちは律法の命令をちゃんと守っている真のイスラエル人だという誇りを持っていました。パリサイ人になるためには、まず1年間の訓練期間があります。そこでパリサイ人としてふさわしいことが認められたら正式にパリサイ人になるのです。彼らは聖書の律法が大好きでしたが、特に、清い生活と十分の一の捧げものに関して、厳格に律法を守っていました。パリサイとは「私は違う人」という意味ですが、律法をちゃんと守っていない人々とははっきりと線を引いていました。彼らは、人の目には非常に敬虔な生活をしているように見えたのですが、彼らの霊的な目は、主が34節で言っているように、暗くなっていました。そのために、ユダヤ人の中で最も宗教的に見えた彼らが、主イエスの最大の敵になっていました。彼らは、イエスが奇跡のわざを行って人々を助けた時でさえ、イエスを批判しました。そんな時、ひとりのパリサイ人がイエスを食事に招きました。これは、どう見ても、本当にイエスと一緒に食事をすることを望んだのではなく、イエスを訴えるチャンスをうかがうために行われた昼食会でした。もちろん、主イエスは、このパリサイ人が何を考えているのか知っていました。それで、食事に招かれた主は、おそらくわざと、食事の前にパリサイ人たちが行っている手を洗うという儀式を行いませんでした。ユダヤ人たちは旧約聖書の命令を実践するための参考書として「ミシュナ」と呼ばれる書物を持っていました。この本の中に、手を清めるための儀式が細かく書かれているのですが、それが本当に細かいのです。ミシュナによると、手を洗う場合、2回水をかけるのですが、1回目は手首にみずをかけ、2回目は手首よりも上の部分に水を注いで、その水を手のひらに流して手を清めます。ところが2回とも手首のところに水を注いだのでは、手は清くなりません。これ以外にも細かいルールが決められています。パリサイ人は、この儀式を厳格に守っていましたから、この時、主が手の清めの儀式を行わなったことを見て、非常に驚きました。主イエスは、彼らの心を見抜いていましたので、次のように言われました。「「なるほど、あなたがたパリサイ人は、杯や大皿の外側はきよめるが、その内側は、強奪と邪悪とでいっぱいです。愚かな人たち。外側を造られた方は、内側も造られたのではありませんか。」(39,40節)パリサイ人たちは食事の前に手を洗うことには非常に熱心で、そのために細かなルールを作っていました。それは悪いことではありませんし、衛生的にも良いことですが、彼らは自分の心の中を洗っていませんでした。彼らの手は清められていましたが、彼らの心は傲慢とプライドでいっぱいでした。主イエスは、外側の生活と内側の心が一致していないパリサイ人たちを「偽善者」と呼びました。偽善者という言葉は英語で「hypocrite」と言うのですが、ギリシャ語では「役者」という意味を持つ言葉でした。パリサイ人の生活は演技であって、真実なものではないと、主は言われたのです。ここで、主は人間をカップに例えています。どんなに高級なカップであっても、外側にどれほどきれいな細工がしてあり絵が描かれていても、内側が汚れていれば、そんなカップでお茶を飲みたいとは思いません。パリサイ人たちは外側はきれいに見えたのですが内側が汚れていました。しかも、神様は人間の外側も内側もお造りになり、私たちの外側も内側も見ておられます。
 清く正しい生活をすることは、決して悪いことではなく、クリスチャンは、みな、そのような生き方を求めていかなけれがなりません。しかし、神様が私たちに求めておられるのは、私たちが主イエスと同じような心を持つことなのです。神様の心をミカという預言者が記していますので、神様が私たちに求めているものが何なのか見てみましょう。「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」(6:8)神様が私たちに求めていることは3つの生き方です。公義を行うこと、すなわち神の目でみて正しく公平なことを行うこと、誠実を愛すること、これは英語の聖書では、「親切と慈悲深さを愛すること」と訳されていますので、周りの人々に親切で慈悲深い心と態度を示すこと、そして、謙遜な心で、神の教えに従って生きること、そのような生き方です。パリサイ人たちは、自分たちは清い生活をしていると思い込んでいましたが、神の目には、彼らの心は傲慢さと愛のなさで汚れていたのです。そういう訳で、主イエスはパリサイ人たちが本当の自分の姿が見えるようにと、42節から44節まで、パリサイ人たちの生き方の3つの間違いを厳しく指摘されました。でも、これはパリサイ人だけの問題ではなく、私たちも、知らず知らずのうちに、パリサイ人的な状態になりがちなので、そうならないように、自分の信仰の再点検のために読むことが必要だと思います。

(1)忌まわしい捧げもの
 イエスがパリサイ人の信仰生活で最初に批判したのは、彼らの捧げものでした。「忌まわしいものだ。パリサイ人。あなたがたは、はっか、うん香、あらゆる野菜などの十分の一を納めているが、公義と神への愛とはなおざりにしています。これこそ、実行しなければならない事がらです。ただし他のほうも、なおざりにしてはいけません。」彼らは神に捧げものをすることを非常に大切なこととしていてました。その姿勢は決して間違ってはいません。聖書は、私たちが収入として与えられるものの10分の1は神様のものであると教えています。例えば申命記の14章22節に「あなたが種を蒔いて、畑から得るすべての収穫の十分の一を必ず毎年ささげなければならない。」と書かれています。彼らは10分の1を捧げることを誇りとしていましたので、台所にあるスパイスまでも、10分の1を捧げていました。実は、聖書のガイドブックである「ミシュナ」には、「シロザ、スベリヒユ、セロリ、パクチー、ルッコラなどは10分の1の捧げものからは免除される」と書かれているそうです。しかし、彼らは、敢えてそのようなものまで10分の1を捧げていました。そして、彼らは、自分たちと同じように神様に捧げものをしていない人を見下して、批判していました。彼らは捧げものの律法を守ることには一生懸命でしたが、彼らの心には、正しさも、神への愛もなかったのです。彼らが捧げものをしていたのは、自分の評判を高めるため、人々から賞賛されるためであって、純粋に神様を愛する心からではありませんでした。旧約時代のユダヤ人の中にもパリサイ人と同じような態度の人が多くいましたので、神様は、預言者をとおして、「わたしは、あなたがたのいけにえや捧げものを喜ばない。目もくれない。」と言われました。(アモス5:2)

(2)忌まわしいプライド(43節)
 続いて主イエスは43節でこう言われました。「忌まわしいものだ。パリサイ人。あなたがたは、会堂の上席や、市場であいさつされることが好きです。」ユダヤ教の会堂の中で一番良い椅子は、会堂の最前列の椅子で、会衆のほうを向いていました。パリサイ人たちは、会堂に行く時には、派手な服を着て、最前列の椅子に座って、みんなから見られるのを好みました。聖書が読まれる 時には真剣な顔つきをしたり、讃美歌が歌われる時は目を閉じてうっとりとした様子を見せたりといかにも自分が敬虔な信仰者であることを人々に見せつけていました。また、通りを歩いている時には、人々から挨拶をされることを好んでいました。道でパリサイ人に出会ったときは、簡単に「~先生」とだけ呼ぶのは大変失礼なことでした。パリサイ人に向かって挨拶する時には、その人のあらゆる肩書を言わなければなりませんでした。「どこどこの家系の、だれだれ先生の門下生であり、律法については卓越した学者であり、ソロモン王に匹敵する知識の宝庫である、だれだれ先生」と言うふうに挨拶されると、そのパリサイ人は非常に喜ぶのでした。主イエスが、ある時、パリサイ人たちに次のように言われました。「互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。」(ヨハネ5:44)パリサイ人たちはユダヤ人社会では、人々から非常に尊敬されていました。また、パリサイ人は、人々から褒められることを求めていました。お祈りをする時は、わざわざ多くの人が通っている道の交差点に立って、両手を広げていかにも「私は祈っています」というような感じて祈りを捧げました。また、断食をしている時は、人に分かるように、わざとやつれた顔をしていました。このようにふるまって、彼らは人々から褒められることを求めていたのです。もし、私たちが周りの人々から褒められること、賞賛されることを求めるようになると、その人の心には神様からの栄誉を求める心が失われてしまいます。本当の賞賛は、唯一の神様から来るのです。そして、人の見る目と神様の見る目は全く違います。神様が見られるのは、正しさであり憐れみであり謙遜な心です。私たちも、自分の中にパリサイ人たちと同じような心、態度がないのか、点検することが必要です。

(3)忌まわしい影響力(44節)
 旧約聖書の律法では、墓に触れる人は宗教的に汚れました。墓だけでなく、死んだ人や死に関係するものすべて、それに触ると人は1週間の間宗教的に汚れました。宗教的に汚れると神を礼拝することができなくなります。そのため、イスラエルでは、人がうっかり墓に触って汚れることがないように、墓は墓だとはっきり分かるように白く塗られていました。ところが、墓が白く塗られていなかったり、時代を経て白い色が落ちてしまうと、人はそこに墓があることに気づかずに墓を踏んでしまい、宗教的に汚れてしまうことがありました。44節で、主イエスはパリサイ人たちに「忌まわしいことだ。あなたがたは、人目につかぬ墓のようで、その上を歩く人々も気がつかない。」と言われました。この言葉を聞いて、パリサイ人たちは激怒したと思います。彼らは、自分たちは聖書の律法をきちんと守っている聖い人間だと思っていたからです。彼らは、宗教的な儀式や律法を守ることには非常に熱心でした。にもかかわらず、イエスは彼らを人目につかない墓のようで、人々を汚すような者だと言われました。彼らは、非常に宗教的な生活をしていたので、人々の目には聖人のように見えましたが、彼らの心の中には、傲慢や貪欲や悪意があり、憐れみや愛がありませんでした。人々は、パリサイ人の外側がきれいに見えるために近づいて来ます。そして、人々はパリサイ人と交わることによって彼らの本当の姿を見ることになります。また、彼らから悪い影響を受けて、彼らもパリサイ人と同じような人間になってしまうことがあったのです。。人目につかない墓とは厳しい言葉ですが、私たちも教訓とするべき言葉です。どんなに表面的に信仰深く見える生き方をしても、心の中に聖霊の実が結ばれていなければ、最終的には必ず内側にあるものが、周りの人に伝わって行くのです。

 それでは、私たちは、どのように生きればよいのでしょうか。41節で、主イエスは「うちのものを施しに用いなさい。そうすれば、いっさいが、あなたがたにとってきよいものとなります。」パリサイ人たちは自分が献金していることを自慢していました。しかし、心の中にあるものを人々に分け与えることをしていませんでした。外側をきれいにするにはまず内側がきれいにならなければなりません。ガラテヤ書の5章22、23節に御霊の実について記されています。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」ここに記された9つの品性は聖霊によって備えられる実です。私たちは、日々、心の中にこれらの品性が自分の内側を満たされるように祈らなければなりません。主イエスは「うちのもの施しに用いなさい。」と言われましたが、施しというのは返してもらうことを考えないで一方的に与えることです。私たちの周りに、愛に飢えている人、喜びに飢えている人、この世の生活に疲れ果ている人などが大勢います。それらの人々に、御霊の実を与えていくことによって、私たちは、偽善者ではなく、イエス様と同じ姿を持つものへと変えられて行くのです。ある人が言いました。「汚い言葉を使わないようにするためには、口の中を洗うのではなく、心を洗うことが必要です。」私たちは、日々、聖霊に祈って心の中にたくさんの実を与えてもらいましょう。

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