2017年8月6日 『祈りで始まるプロジェクト』(ネヘミヤ1章) | 説教      

2017年8月6日 『祈りで始まるプロジェクト』(ネヘミヤ1章)

 今日から6回にわたってネヘミヤ記を読みます。ネヘミヤ記を取り上げたのは、ネヘミヤ記のテーマがエルサレムの町の城壁を再建することが中心だからです。非常に大きなプロジェクトを成し遂げたエレミヤという人物の生き方を学ぶことをとおして、会堂の建て替えというビジョンが与えられている私たちの教会が、これからどのように進んでいくべきなのかを共に学んで行きたいと思います。
 
 ネヘミヤ記が書かれた時代背景を少し説明しましょう。イスラエルは、紀元前1000年ごろダビデ王と息子ソロモン王の時に最も国が栄えて、広い領土を持ちましたが、ソロモンの次の王様の時代に、国は北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂してしまいました。当時、イスラエルの東側には次々に大国が生まれ、北イスラエルはBC721年にアッシリアによって滅ぼされました。エルサレムを都とする南ユダ王国はそれから150年ほどは独立していましたが、BC586年に、ついにアッシリアの後を継いだバビロン帝国によって滅ぼされてしまいました。バビロン帝国は非常に強い国でしたが,わずか80年ほどであっけなく滅びました。バビロンを滅ぼしたのはペルシャ帝国のクロス王でした。ペルシャのクロス王は非常に寛大な王様で、人質としてイスラエルから強制的に連れてこられたユダヤ人たちが自分の国に帰ることを認めただけでなく、彼らがバビロンによって破壊されたエルサレムの神殿を再建することを許可し、さらに再建のための資金援助をするとまで言いました。この結果、、バビロンにいたユダヤ人たちの多くが自分の国に帰るのですが、イスラエルへの帰還には3つ大きな波がありました。最初がBC538年に政治的指導者ゼルバベルをリーダーにした帰還があり、その次にBC458年の祭司エズラをリーダとした帰還、そして最後にBC445年に信徒ネヘミヤをリーダとする帰還でした。最初に帰還した人々は、エルサレムの神殿の再建のために働きました。しかし、その工事は、敵の妨害を受けたために予定よりもかなり遅れて、BC516年に完成しました。神殿は再建されましたが、エルサレムの町を守るための城壁は破壊されたままでしたので、エルサレムの町自体も荒れ果てたままでした。
 ペルシャ帝国の王は、初代のクロス王に続いて、カンビュセス王、ダリヨス王、クセルクセス1世(別名:アハシュスエロス)、この王の妻となったのがエステルです。その次がアルタクセルクセス1世、別名アルタシャスタ王がBC464年から424年までの40年間ペルシャ王として君臨します。ペルシャ帝国の首都はスサ、またはシュシャンと呼ばれ、バビロンから400キロ東にありました。スサにはダリヨス王が建てた壮大な宮殿があって、宴会のための大ホールは現在のサッカーコートよりも大きかったそうです。ネヘミヤは、ユダヤ人でありながら、ペルシャ国王の献酌官という非常に高い地位についていました。

(1)ネヘミヤが置かれていた状況
 1章の最後で、ネヘミヤが「私は王の献酌官であった。」と述べています。献酌官とは、王様が食事をするたびに、王様が飲むブドウ酒に毒が入っていないことを確認する人でした。いつも王様の隣にいますので、献酌官はハンサムで、教養があり、王様とふさわしい会話をすることができる人物でなければなりませんでした。また、王の側近なので、大きな権力と影響力を持っていました。彼が仕えていたアルタシャスタ王の治世の20年目ですから、この出来事が起きたのはBC444年であったことが分かります。バビロンにいたユダヤ人たちのイスラエルの帰還は100年前に始まっていましたが、荒れ果てたたエルサレムに帰還するには、現在の生活を捨てて大きな犠牲を払わなければならないので、帰還を拒むユダヤ人も多く、メソポタミア地域に多くのユダヤ人が住み着くことになります。この人たちは後に、ディアスポラ(離散の民)と呼ばれるようになります。ユダヤ人であるネヘミヤがペルシャ国王の側近になったのですから、彼は非常に優秀で人々の間で評判の良い人物であったに違いありません。ユダヤ人のカレンダーの「キスレウの月」は、今日の11月末から12月中頃までの時期をさします。ある日、ネヘミヤは王宮でいつものように仕事をしていたのですが、親戚の一人で「ハナニ」という人物がエルサレムへの旅から戻って来た時に、彼が数人の者といっしょにネヘミヤを訪ねて来ました。ネヘミヤはペルシャ王の宮廷で働き何一つ不自由のない生活をしていましたが、自分の同胞たちやエルサレムの街がどうなっているのか、いつも心にかけていました。それで、ネヘミヤは彼らにエルサレムの現状について質問しました。すると彼らは次のように答えました。「あの州の捕囚からのがれて生き残った残りの者たちは、非常な困難の中にあり、またそしりを受けています。そのうえ、エルサレムの城壁はくずされ、その門は火で焼き払われたままです。」当時の都市は敵の攻撃から守るためにしっかりとした城壁と門で守られていました。今日も、エルサレムの旧市街には城壁と門が残っています。ところがエルサレムの城壁と門は破壊されたままで、町全体が敵の攻撃にさらされていたのです。ネヘミヤはエルサレムの現状を知って、深く悲しみ、数日間、喪に服し、断食をして、神に祈りました。

(2)ネヘミヤの涙
 1章4節で、ネヘミヤは、親戚のハナニたちからの報告を聞いて、すわって泣いたと書かれています。ペルシャ王の側近という高い地位についている人が、人前ですわって泣くというのは珍しいことです。ただ、人が何について笑い、何について泣くのか、これによって、その人がどんな人であるか分かると思います。人の失敗や不幸を笑う人がどんな人か明らかです。ここでネヘミヤが泣いたのはどんな涙だったでしょうか。主イエスも泣かれた時がありました。十字架にかかるためにエルサレムに来た時に、「都を見られたイエスは、その都のために泣いた」(ルカ19:41)と記されています。主イエスは、エルサレムの都に住む人々が罪の重荷に苦しんでいるのを見て、泣かれました。ネヘミヤも、バビロンからエルサレムに戻った人々が味わっていた苦しみを、自分自身の苦しみのように感じて泣いたのです。彼はペルシャの都シュシャンの王宮に住み、ペルシャ王の側近として成功し、満ち足りた生活をしていました。普通、自分が快適な生活をしていると、自分の同胞の苦しみを知っても、無関心になることが多いものですが、ネヘミヤは、報告を聞いて胸が引か裂かれるような思いになりました。この涙は決してむなしい涙ではなく、かえって、この涙が神様の大きな働きをもたらすことになります。私たちは、困難や悲しみを経験することを良いこととは考えにくいですが、しかし、人生の苦しみや悲しみが私たちの人生の力になることも多いと思います。ネヘミヤにとっては、この悲しみは新しい行動を起こすモチベーションになりました。彼が直面していた問題があまりにも大きいので、彼は自分の無力さを感じましたが、それによって心と思いを神様にむけるようになりました。また、ネヘミヤは、この苦しみを、自分と自分の国が犯してきた罪を悔い改める時にしました。これらのプロセスをとおして、彼は、これから自分が何をするべきなのか、何を優先するべきか、どのように働くべきか、など、いろいろなことを整理しながら、働きを始める準備をしたのです。

(3)ネヘミヤの祈り
 ネヘミヤ記には、ネヘミヤが祈ったことや祈りの言葉が12回も記されています。このことから、ネヘミヤは絶えず神様に祈り、何を行う時にも、まず神様に祈りをささげていたことが分かります。クリスチャンが何かの行動を始める時、最初にすべきことは祈りです。一人で働くのではなく、神とともに、神に導かれて働くことが何事においても成功する秘訣です。
 彼の祈りは,自分が直面している問題から祈るのではなく、神様を賛美することから始まっています。「ああ、天の神、主。大いなる、恐るべき神。主を愛し、主の命令を守る者に対しては、契約を守り、いつくしみを賜わる方。」祈りとは、私たちが神に自分の願いを伝えることですが、大切なのはどんな神に祈っているかということです。ネヘミヤは、自分が祈っている神がどのような神だと言っているでしょうか。最初に「天の神」と呼んでいます。バビロンやペルシャには人間が作った偶像の神々がありましたが、ネヘミヤは「天の神」と呼びかけています。これは、人の手によらない、天と地を創造された偉大な神を意味しています。私たちが自分ではどうすることもできない困難な状況に出会った時に、人の手がつくった偶像の神や、すでに死んでしまった過去の偉大な人物に祈っても、何にもなりません。偉大な全能の神に祈らなければ、何の解決もないのです。しかも、ネヘミヤは、聖書の神は「主の命令を守る者に対しては契約を守り、いつくしみを賜る方」と告白しています。旧約聖書の申命記には、神の言葉を守る者には神様があらゆる祝福を与えることが記されています。しかし同時に、神の言葉に従わない者には神は懲らしめを与えます。懲らしめを与えるのは、人々を滅ぼすためではなく、自分の過ちに気づいて正しい道に立ち返らせるためです。ネヘミヤが知ったのは、エルサレムが破壊されたままになっていることでした。エルサレムの悲惨な姿は、イスラエルの民が神の言葉に従わずに自分勝手な行動に出た結果であることを、ネヘミヤはよく分かっていました。
 そのため、1章に記されたネヘミヤの祈りの大部分は罪の告白の祈りでした。神様は、私たちを愛し祝福を与えると約束してくださいますが、同時に、罪によって神から離れていた者が、悔い改めて神に立ち返る時に大いなる赦しをも約束しておられます。私たちにとって、自分に悪いことをした人を赦すことは本当に難しいです。一度赦したと思っていても、ちょっとしたことで赦したことを忘れてその人を非難します。ところが、聖書の神様は、人を赦すことにおいても完全な方です。エレミヤ書31章34節で神様はこう言っておられます。「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」神様が「二度と思い出さない」と言われたら、本当に二度と思い出すことはありません。ネヘミヤは、この神の赦しの約束に訴えて、自分自身とユダヤの国のために祈っています。
 6節から9節まで、ネヘミヤは罪の悔い改めの祈りを捧げています。注目すべきことは、彼は6節や7節で、「私たちがあなたに対して犯したイスラエル人の罪」「私たちはあなたに対して非常に悪いことをした」と言っている点です。実際に、エルサレムが滅んだのは、それまでのイスラエルの民が罪を犯した結果でしたが、ネヘミヤは「彼ら」とは言わずに「私たちは」と言って自分自身を昔のイスラエルの民の一人に加えているのです。先祖が犯した罪を批判することは簡単ですが、彼は自分の内側にも彼らと同じ性質があることを認めて、自分の罪として告白しています。神の信じる民として、私たちクリスチャンはみなキリストの体の一員となってお互いにつながっています。私たちは神の家族としてお互いに影響を与え合っているのです。かつて、ヨシュアがリーダーの時代、神様の助けによってイスラエルの民は、約束として与えられた土地を次々と征服して行きましたが、ある時、民の一人のアカンという男が神の命令に背いた時に、彼らは大きな敗北を経験しました。その時、神様は「アカンが罪を犯した」とは言わずに、「イスラエルの子らは罪を犯した」と言われました。その結果、一人の人の罪によって、民全体が神の裁きを受けたのです。しかし、アカンの罪が適切に処理された時に、神様は再び、イスラエルの民に勝利を与えられました。
 私たちは、罪を告白する時に、どのようにしてそれが赦されたと分かるのでしょうか。それは聖書に記された神様の約束を信じることによって分かります。ネヘミヤは、8節で「どうか、あなたのしもべモーセにお命じになった言葉を思い起こしてください。」と神に訴えています。ネヘミヤは旧約聖書に記された神に約束を知っていたので、このように祈りました。私たちには、主イエスの十字架と聖書という2重の約束があります。第1ヨハネ1章9節には「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」と記されています。私たちは、このみ言葉に立つことができるのです。そして10節で、彼は、謙遜に、自分たちのことを「あなたが贖われたあなたのしもべ、あなたの民だと言って、神の偉大な力にすべてを委ねて祈りを終えています。
 
 ネヘミヤは、王宮の仕事を辞めることはできません。王自身から任命されたからです。そしてこれから、彼がやろうとしていることを実現するためには王様の許可をもらわなければなりません。城壁が完成するまでは王宮に戻って来ることはできませんし、工事のための許可も必要ですし、工事のための十分な費用も必要です。人間的に見ると非常に大きな壁がネヘミヤの前に立ちはだかっていました。しかし、ネヘミヤは信じていました。神様にとって不可能がないこと、そして、神ご自身が王様の心に働いてくださることを信じました。それは聖書に記されていたからです。「王の心は主の手の中にあって、水の流れのようだ。みこころのままに向きを変えられる。」(箴言21:1)

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