2017年10月8日 『人を恐れてはならない』(ルカ12章4-12節) | 説教      

2017年10月8日 『人を恐れてはならない』(ルカ12章4-12節)

 今日のテーマは「恐れ」です。特に他の人への恐れです。人間は、心に恐れがあると、正しい判断や行動ができなくなり、パニックに陥ります。こんな話を読みました。あるアメリカの動物園に、一人の若者が仕事を求めてやって来ました。彼はライオンの調教師になりたいと言いました。どうしてライオンの調教師になりたいのかと尋ねられて、彼は次のように答えました。「僕は今、ひどいうつ病にかかっていて苦しんでいます。ドクターが、「この状態から回復する治療法は一つしかない。いつも悩まされているいろいろな恐れを忘れてしまうような、すごく怖い仕事をすることだ。」と言ったので、それで、ライオンの調教師がいいかなと思ったので、この仕事をやってみたいのです。」このようにして、この若者はライオンの調教師になり、やがて、非常に有名な調教師になりました。同時に、彼は、苦しんでいたうつ病からも解放されました。
 今日の箇所で、主イエスはどのようにこの問題を取り扱っているでしょうか。この頃、主イエスの教えを聞こうとして大勢の人が押し寄せていましたが、同時に、イエスに反感を持つ人も増えていました。11章の53節を見ると、「律法学者、パリサイ人たちのイエスに対する激しい敵対と、いろいろなことについてのしつこい質問攻めとが始まった。」と書かれています。この雰囲気は主イエスの弟子たちにも伝わっていました。そんな時に、イエスの周りにおびただしい数の群衆が集まって互いに足を踏み合うほどになりました。イエスの弟子たちは、この群衆の中にイエスに敵対する人々も多くいるのを感じて恐れを感じていたようです。そのことに気づいた主イエスは、群衆に向かって教える前に、まず、12人の弟子たちに向かって言われました。彼らが、人々を恐れると、自分がイエスの弟子であることを隠したり、人の前で自分を偽った行動を
取るかも知れないことを、イエスは分かっておられたからです。私たちクリスチャンも主イエスの弟子の一人です。ここで主イエスが弟子たちに言われた言葉は私たちにも当てはまるこだと言えるでしょう。

(1)人を恐れてはならない(4節)
 主イエスは言われました。「そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。」私たちが、他の人間から受ける最悪のことは、殺されることです。しかし、他人は私たちの肉体、すなわち外なる人を殺すことはできますが、私たちのたましい、すなわち、肉眼では見えない私たちの内なる人に対しては何もすることができません。聖書は、人間は、外なる人である体と内なる人である魂とが一つになって生きていると教えています。私たちの外なる人は、年を取るにつれて少しずつ衰えて行き、ついには死を迎えます。しかし、人間はそこで終わるのではありません。私たちの内なる人であるたましいはその後も生き続けます。肉体とともに地上で生きた時のことを全部覚えている状態で、たましいは生き続けます。他人は私たちの「内なる人」に対しては何もできません。そんなことはあってはなりませんが、たとえ、万一、クリスチャンが誰かに殺されることがあっても、その人の体は死にますが、たましいは永遠に生き続けます。そのことは他人は絶対に変えることはできません。だから、主イエスは続けて言いました。「恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺した後で、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。」ゲヘナとは、当時、エルサレムの南側にあった谷のことですが、そこは、エルサレムのごみ処理場となっていて、いつもごみを燃やしていたため、谷から常に煙が上がっていました。それで、ゲヘナは、主イエスを信じないで主イエスに反抗したまま肉体が死んだ人が死んだ後に行く地獄を意味する言葉となりました。外なる人、肉体の寿命は平均して70から90歳ぐらいです。それも確かに十分に長い時間ですが、肉体が死んだあと、私たちのたましいは永遠に生きるのですから、その長さの違いは歴然としています。だからこそ、私たちは、誰よりも神を恐れて、神の教えにしたがって生きていかなければならないのです。聖書の中に、主を恐れることによって、私たちは多くの良いものを得ることができると教えています。世界最高の知恵を持っていたと言われるソロモン王が書いた「箴言」という書物の中には、知識・知恵についてたくさんのことが記されています。1章7節には「主を恐れることは知識の始まりである」と書かれています。16章6節には「主を恐れることによって、人は悪を離れる。」と書かれています。また10章27節には「主を恐れることは日をふやし、悪者の年は縮められる。」と書かれています。主を恐れることによって、人の生活は正しいものに変わり、無茶な生き方をしなくなるため、寿命も伸びると言われています。22章4節には「謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。」主を恐れることが、人々に富や、名誉ある生き方や、長寿を与えるとあります。主を恐れることは、このように本当に祝福に満ちた生き方なのです。

(2)私たちは神にとって大切な存在です(6-7)
 「五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。」聖書には人を恐れると罠にはまるという言葉がありますが、人を恐れることによって私たちは間違った判断をしがちなのです。人を恐れていた弟子たちに主イエスは、弟子たちが神にとってどれほど大切な存在であるのかを思い出させることによって、彼らを励ましておられます。今も、主イエスの時代も、スズメはごくありふれた鳥でした。誰も雀を見てきれいだとも思いませんし、雀を見るためにバードウォッチングをする人もいないでしょう。主イエスの時代、スズメは5羽で2アサリオンで売られていました。200円で売られていたような感じです。しかも、マタイの福音書では2羽で100円で売られていた書かれています。1羽で売るには安すぎるので、2羽1セットで売られていました。雀をたくさん買う人などいなかったのか、2セット買えば、1羽おまけがついてきたので、200円払えば5羽の雀が買えました。そんな価値の低い、目の前に飛んで来ても人々から無視されるような雀の一羽でさえも、神様は忘れてはいないと主イエスは言われました。だとすれば、神様がご自分のかたちに似せて作ってくださった人間のことを、どんなに小さな一人であったとしても、忘れているはずがありません。しかも、7節では神様は一人一人の髪の毛の数まで知っておられると書かれています。統計によると、金髪の人は約145000本、黒髪の人は約12万本だそうです。しかも髪の毛は毎日抜けたり生えたり、あるいは抜けたり抜けたりしていますので、その数は毎日変わっています。それも全部知っておられるのです。ここにいる人の中で、神様に忘れられている人、神様が知らない人は一人もいません。そんな神様が私たちに向かって「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。」と言われるのです。神様は目には見えませんが、今は一人一人に聖霊としてともにおられるのです。目には見えないボディガード、人生の案内人としてともにおられることをぜひ知ってください。
 ある人は、神様を「傘」に例えています。神様を雨傘に例えるのはちょっと失礼かも知れませんが、道を歩いている時に、突然雨が降って来たとしましょう。傘を持っていない人はどうするでしょうか。急いで走って建物の中に入ろうとするでしょう。服は濡れてしまうし、とにかく慌ててしまいます。私は慌て者なので、途中で財布やスマホを落としてしまうかもしれません。しかし、傘を持っていれば、慌てることなくかばんから傘を取り出し、傘を開いて、そのまま歩き続けることができます。私たちの人生にも、突然、びっくりするようなことが起きることがあります。でも、もし、そんな時、神様の守りという傘があれば、私たちは何も慌てる必要はないのです。

(2)イエスを告白して生きる者となる(8-10節)
 続いて、主イエスは、神を恐れる者として生きる上で、いくつかの警告の言葉を言われました。一つは、口で主イエスを告白するということです。ローマ人への手紙10章10節でパウロは「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」と述べています。本当に主イエスを救い主と信じるなら、その信仰は心から始まり口で告白するようになるはずです。もし、人が結婚しているなら、心の中にやましいものがなければ、結婚していると告白するはずです。言い換えると、もし私たちが他の人に、自分が主イエスを信じているクリスチャンだと告白することを恥ずかしいと思うならば、私たちは、自分自身に改めて尋ねる必要があります。「自分は本当にクリスチャンなのか」と。私たちの罪を赦すために、自分のひとり子をも惜しみなく十字架にかけてくださった私たちのいのちの恩人を、なぜ私たちは恐れるのでしょうか。もし、あなたが神様だとしたら、主イエスを救い主と信じる者が、そのことを人に言うことを恥ずかしいと思っていることを知ったらどんな気持ちがするでしょうか。私たちの周囲には、聖書を全然読んだこともないのに、聖書を嫌い、キリストを嫌う人は大勢います。しかし、主イエスを信じることによって救いを得たいとひそかに願っている人も同じように大勢います。私を救いに導いてくれたグレアム・フォーセットが、もし自分がクリスチャンであることを私に言うことを恥ずかしいと思って、集会に誘ってくれていなかったら、私の人生はまったく違うものになっていましたし、大げさに言えば、この教会の運命も変わっていたのです。私たちの人生は一度きりなのですから、他人の考えに支配されたり流されたりして生きることはあまりにももったいないことです。自分の信仰、自分の信念をしっかり持って、自分の人生をまっすぐに歩んで行きたいものです。
 もう一つの警告の言葉が10節に記されています。「たとい、人の子をそしることばを使う者があっても、赦されます。しかし、聖霊をけがす者は赦されません。」この言葉は、多くのクリスチャンを悩ます言葉で、この前の祈りのセミナーでも質問が出ました。「聖霊をけがす者は赦されません。」とはどういう意味なのでしょうか。主イエスは、自分に対して罪を犯したとしても、その罪は赦されると言われました。もちろん、私たちが主イエスをののしったり、拒否したり、無視したりすると、主はとても悲しまれます。しかし、主イエスは、十字架の激しい苦しみの中でそのような人々の罪が赦されるように祈られました。彼らの中には後で悔い改めた人もいます。十字架につけられていた一人の強盗も最初はイエスをののしっていましたが、十字架の上のイエスの姿を見、イエスの祈りの言葉を聞いて、イエスをののしっていたことを悔い改めて、イエスに赦しを求めました。すると主イエスは「あなたは今、わたしと一緒にパラダイスにいます。」と言われたのです。
 それでは聖霊をけがす者とは誰のことでしょうか。第一コリント12章3節に「また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。」と書かれています。聖霊は、私たちの心に語りかけます。「あなたは神の目に100%正しい人間ではなく罪人だ。でもあなたの罪が赦されるために、主イエスがあなたの身代わりになって十字架で死んでくださった。あなたは、自分の罪を認めて、主イエスを救い主として信じなさい。」あの十字架につけられた強盗も、この聖霊の働きを受け入れて主イエスを救い主と信じました。だからかれは、自分の小さな信仰を告白した瞬間に赦されました。しかし、いくら聖霊が私たちの心に働きかけても、自分の罪を認めず、主イエスが十字架で死なれたことも自分には関係ないと主張し、主イエスを救い主と告白しないならば、これこそ聖霊の働きをけがすことなのです。つまり、意図的に、死ぬまでずっと聖霊の働きかけを拒み続けることは、主イエスを救い主と信じないことなので、そういう人の罪は赦されないのです。ですから、もし、あなたが、「もしかして自分は聖霊をけがすような罪を犯してしまっただろうか」と悩んでおられるとしたら、悩んでいるという事実そのものが、聖霊をけがしていないことを意味するので、悩む必要はまったくありません。それよりも、いつまでも自分の罪を認めず、主イエスに赦しを求めようとしないことが聖霊をけがすことなのです。ローマ人への手紙の8章30節でパウロは言いました。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」主イエスを救い主と信じて、敵なしの人生を歩みましょう。

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