2017年10月22日『心配するのはやめなさい』(ルカ12章22-31節) | 説教      

2017年10月22日『心配するのはやめなさい』(ルカ12章22-31節)

 先週のメッセージは、「貪欲に気をつけなさい」というテーマでしたが、主イエスがこの教えをされたきっかけは、イエスの話を聞くために集まっていた群衆の中の一人の男が突然、「遺産相続でもめている自分の兄弟にちゃんと遺産を分けるように言ってほしい。」と声をあげたことがきっかけでした。しかし、主イエスは、男が頼んだ遺産相続の問題に関わることはせず、その代わりに、「貪欲に注意する」という教えを語られました。私たちは、人生の中でいろいろなことを経験する時に、この問題が解決すれば幸せになれるとか、これがあれば幸せになれるとか、一つの問題、一つの状況に気を取られることが多いと思います。しかし、本当の解決は、一つの問題、一つの状況にあるのではありません。というのは、またいつか同じような問題、同じような状況が現れることは十分に考えられることだからです。主イエスは、本当の問題の解決というのは、今、目の前にある具体的なことがらによるのではなくて、その人の考え方、生きる姿勢にあると教えています。ですから、主イエスは、具体的な問題の相談に乗るのではなく、幸福な、満ち足りた人生を生きるための原則を教えておられるのです。先週の問題は「貪欲」でした。これは金持ちにとっても貧しい人にとっても大きな誘惑です。必要以上にお金を愛すると、ものの見方が歪んで、心の平安が失われます。主イエスは、愚かな金持ちのたとえ話をされましたが、人間は、使いきれないほどの財産を持ったからといって、本当に満ち足りた平安な生活ができるとは限りません。むしろ反対のことが多いものです。アメリカの歌手フランク・シナトラは億万長者になっていたにも関わらず、いつも、「もっと稼がなければ、もっと稼がなければ」と言って80を過ぎて、声が出なくなり、歌詞が覚えられなくなっても、舞台に出ることに固執していたそうです。また、私たちは肉体の死を迎える時に、自分のいのち以外は、何も持っていくことはできません。私たちが持っていたものは、自分のいのち以外は全部誰か他の人のものになるのです。第一テモテ6章6節に「満ち足りる子ことを伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。」と書かれています。私たちは、神様を信頼し、神様が自分の人生で行ってくださることに感謝と満足する心があれば、その人生には大きな祝福があるのです。
 今日の箇所で、主イエスは「だから、わたしはあなたがたに言います。」と言われましたが、「だから」というのは、前に話したこととのつながっていることを表しています。主イエスは、貪欲に注意することを教えて、愚かな金持ちのたとえ話を語って、21節で「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」と言われました。これを聞いていた人々は、「じゃあ、どのように生きるのか。毎日の生活のことはどうなるのか。」とちょっと心配になったと思います。それで、主イエスは、彼らの心の思いが分かっていたので、「だから」と言って、「心配するのはやめなさい。」と言われたのです。

(1)心配するのはやめなさい。(22節)
 一週間のうち、一番心筋梗塞や心臓マヒが起きやすいのは何曜日かわかりますか。月曜日だそうです。日曜日が終わって一週間が始まる時に、人は一番心配が多いのでしょう。このように心配は体にも危険をもたらすものです。心配は、自分の周りにおこった出来事や周りの状況によって、引き起こされます。英語で「心配」は「worry」と言いますが、この言葉の古い意味は「喉を締め付ける」という意味を持っていたそうです。心配すると体にいい影響を与えることはないようです。ある人が言いました。「多くの人は明日への不安と昨日の後悔の間で生きている」確かにそれは事実のようで、専門家の分析によると、人が心配することの40%は、将来決して起きないことから来ているとのことです。将来起きることがないことを心配するのは時間の無駄です。また、心配の30%は、過去に起きた出来事に関するものだそうです。私たちの過去は消すことも変えることもできません。だから、私たちは、過去のことをいろいろ悔やんで何もできなくなってしまうのではなく、過去の経験から(多くは失敗の経験から)将来、よりよい生き方ができるための学びの時として受け取るべきです。赤ちゃんは、その点、何も心配せず、幸せに生きています。赤ちゃんは明日の生活のことを心配していません。お母さんに抱かれているだけで安心しています。私たちも神様の腕に抱かれていることを忘れてはなりません。また、過去の失敗も気にしていません。昨日歩こうと思っていたのにうまく立ち上がれなくて倒れても、くよくよしません。とにかく立ち上がることを目指して、赤ちゃんなりに、昨日はどこが悪かったのかを考えて今日は少し上手にやってみようとしてたちがります。再び倒れても気にしません。その積み重ねによって少しずつコツを覚えているからです。さらに、心配の12%は健康に関するもので、たいていはまったく体に何も問題がない時の心配です。これはすぐに病院にいけば解決することです。その他の10%の心配は、非常に小さなこと、ほとんどその人の将来に影響を与えないことに関するものだそうです。これで計算すると、心配のうちの92%は、心配するために時間を使う必要のないものであって、本当に考えなければいけないのは100の心配のうちの8つだけということになります。そういう訳で、主イエスは22、23節で「だから、わたしはあなたがたに言います。いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。」と言われたのです。私たちは、おいしい食べ物を食べると幸せを感じますし、おしゃれな服を着るとうれしくなります。それ自体は別に悪いことではありませんが、おいしいものばかり食べていれば、絶対に健康を害します。尿酸や血圧やコレステロールが上昇して、良いことはありません。また、私たちはブランドの服を着、かばんを持ち、かっこいい車を運転し、立派な家に住むことは、いいことですが、それは私たちのいのちに何の益ももたらしません。格好いい服を着て人からほめられても、あなたが褒められたのではなく来ている服が褒められたのです。格好いい車を運転して人から褒められても、あなたが褒められたのではなく、乗っている車が褒められたのです。立派な家に住んで褒められても、あなたが褒められてのではなく家が褒められたのです。一度しかない人生を、いろいろな会社の広告塔になって(しかもお金ももらわずに)生きるのは、本末転倒の生き方ではないでしょうか。それらのものは死ぬとき全部誰かほかの人のものになりますし、何よりも、私たちの永遠のいのちには何のプラスもありません。だから、主イエスは、そんなことに心配して時間とエネルギーを使ってストレスを感じることはまったく無意味だと言われるのです。

(2)烏を見よ、野のユリを見よ。
主イエスは、心配する必要がないことを人々に教えるために、例えを用いてお話されました。「烏のことを考えてみなさい。蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。けれども、神が彼らを養っていてくださいます。あなたがたは、鳥よりも、はるかにすぐれたものです。」よく「空の鳥を見よ」と言いますが、空の鳥と言われると、私たちは普通、カラスを思い浮かべません。ヒバリとかツバメを思い浮かべるのではないでしょうか。カラスは、頭がいい鳥であることは分かりますが、ごみをあさったりして、あまり好きになれない鳥です。なぜ、イエスは「カラス」を見なさいと言われたのでしょうか。第一に、カラスは何でも食べるからだと思います。カラスはネズミや、昆虫や木の実や穀物だけでなく、ほかの鳥の卵や人間が出す食べかすや、腐った肉なんかも食べます。食べ物に関して何でもOKで、これじゃないとダメ、あれじゃないとダメなんて思っていません。だからこそ、カラスのサバイバルの能力は大きいのです。与えられたもので満足しています。また、神様はカラスをお造りになった時に、カラスに特別な視力と聴力を与えられたました。だからカラスは食べ物を見つけるのがとても上手なのです。何でもカラスは他の鳥の卵などが大好きなので、白くて丸いものを特に好むそうです。そのため、ある時、ゴルフの試合中に、カラスが次々とゴルフボールをくわえて飛んでいったために試合会場が変更になったこともあるそうです。いずれにせよ、カラスだけではありませんが、自然界を生きる動物たちは、神様から与えられた本能や能力を用いて食べ物を見つけることができるのです。でも、主イエスは、「カラスが種まきもせず、刈り入れもしない」と言われましたが、それは、一生懸命に働くことを否定しておられるのではありません。主イエスは、何もしないでぶらぶらすることを勧めているのではなく、「種まきもせず刈り入れもしないで、将来のために自分で備えることができないようなカラスでさえも、神様は目を留めてくださり、必要を満たしてくださるのだとすれば、神様は、自分のかたちに似せて造った人間のために、どれほどのことをしてくださるのか考えなさい。」と言っておられるのです。主イエスは12章5節でも「あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。」と言われました。
 また、主イエスはもうひとつの例えとして「ユリの花を見なさい。」と言われました。イスラエルには美しい花がたくさんあります。イエスがユリと言われたのは私たちが知っているユリの花というよりも、イスラエルにたくさん咲いているアネモネやデイジーやポピーを指しています。これらの花は大変かわいくて美しいのですが、イスラエルの東にある砂漠から暑い風が吹いてくると一日で枯れてしまいます。どんなに美しい花でも、値段の高い花でも、枯れてしまったら、本当に汚いですね。捨てるしかありません。そんな寿命の短い花でも、細かく見ると不思議なほどの美しさがあります。そんなに値段の高くない花でも、よく見ると不思議な模様があったり、色がきれいであったり、絶対に人間の力でその美しさを造ることはできません。しかし、これらの花は何もすることなく、自然の力に助けられて美しく咲いているのです。

(3)するべきこととしてはならないこと(29~32節)
 29節で主イエスは言われました。「何を食べたらよいか、何を飲んだらよいかと、探し求めることや気をもむことをやめなさい。」主イエスは心配することをやめなさいと言われました。なぜ心配してはならないのでしょうか。1つは、心配することによっては何も良いものは生まれないからです。主は25節で言われました。「あなたがたのうちのだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。」心配したからと言って、自分の寿命を一日でも延ばすことはできません。病気になるかもしれないと心配していると、不安な心から免疫力が下がって、結局、病気になってしまいます。仕事がクビになるかもしれないと心配していると、仕事への集中力が下がって、仕事の効率が下がり、結局クビになって良くなることもありません。心配している毎日の生活からは喜びが消えて充実した生活ができません。このように心配は何もよいものを生み出さないのです。
 それでは、私たちはどのように日々過ごせばよいのでしょうか。主はその答えを31節で言われています。「あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。」神の国を求めるとは、一羽のすずめさえも守ってくださる神様を信頼して、神様の御心にかなった生活を追い求めることです。私たちの持ち物に対する欲望はキリがなく、持てば持つほど、もっと持ちたくなります。ものがあれば心が平安になるかというと、むしろ反対に、持っているものを失うのではないかと心配になって思い煩いが大きくなります。私たちが信じている神様は、天地の作り主全能の神であり、また私たちの父親として私たちを守ってくださる偉大な神です。いつも神様を信頼し、神様を第一にする生活をしましょう。
 もう一つは、同じ主イエスの言葉を記したマタイの福音書の6章では、主はこう言われました。「あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」明日という日は、まだ存在していませんし、極端な言い方をすると、明日自分が生きているかどうかその保証はありません。存在していない明日のことを心配するのは無意味です。しかし、今日という日は存在していますから、私たちは今日という一日が価値あるものになるように生きることが大切です。もし、今日、何か昨日よりも進歩できること、上達できることがあれば、それに励みましょう。もし、何か心配なことがあって、それが自分の力で変えられるものであるならば、それを変えるようにやってみましょう。もし何か心配なことがあってもそれを自分では変えられない場合、例えば明日強烈な台風が来るような場合、その台風に備えて今日できる準備をすればよいのです。このようにして毎日、今日という日を価値ある一日にして生き続けるならば、勝利の人生を生きることができるでしょう。
 アメリカにJCペニーというデパートがありますが、その創業者のJCペニーは、1929年にアメリカの株が暴落した時に、たくさんの株を持っていたのですごく心配になって、夜眠られなくなりました。その後、帯状疱疹になり、入院して治療を受けましたがなかなか回復しませんでした。彼は、自分はまもなく死ぬと思って家族あてに遺書まで書きました。彼がひどい恐怖に襲われて病室で夜を過ごしていると、病院の礼拝堂から讃美歌が聞こえて来ました。それは「神様が支えてくださる」という内容の讃美歌でした。彼はその讃美歌を聞いて、藁をもつかむ思いで聖書を読み始め神様に祈り始めました。その時、彼の身に奇跡が起こりました。彼の言葉によると、「突然真っ暗な部屋から、まぶしい光の中に引き出されて、自分が地獄から天国に移されたように感じた。本当に自分に神の力が働くのを体験した。その日以来、私は思い煩いから解放された。」私たちも、神様を第一にして、一日一日、勝利を積み重ねて行きましょう。
 

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