2017年10月29日『神はわがやぐら』(詩篇46篇1-2節) | 説教      

2017年10月29日『神はわがやぐら』(詩篇46篇1-2節)

 10月31日は宗教改革記念日です。そして今年は宗教改革500周年を迎えています。今から500年前の1517年10月31日に、当時、ローマカトリック教会の修道士であったマルチン・ルターがカトリック教会が教えていること、行っていることに抗議してウィッテンベルの城の扉に95か条の抗議文を張り出したことがきっかけで宗教改革が始まりました。ただ、こルターは組織を変えるために改革を行おうとしたのではなく、当時、聖書の教えから離れていたキリスト教会を、聖書の教えに立ち返らせるためのものでした。
 ルターはドイツの田舎で炭鉱夫の息子として生まれました。父親が教育熱心で、彼も熱心に勉学に励みエアフルト大学で法学部に入りました。ある日、大学に行く途中激しい雷雨に出会い、落雷と死の恐怖に襲われたルターは「神様助けてください。修道士になりますから。」と叫んだそうです。彼は親の反対を押し切って大学を離れてエアフルトという町のアウグスチヌス修道会に入りました。そこで、聖書を学んでいくうちに、深く悩むようになりました。いくら禁欲的な生活をして罪を犯さないよう努力しできる限り良い行いを行ったとしても、神の前で自分は義である、すなわち正しいと確実に言うことはできない自分に、ルターは苦しみ続けていました。その頃から、ルターの心をとらえていたのはパウロが書いたローマ人への手紙で、そこに述べられていたのは「神の義」、つまり、神にとっての人の正しさとは何かという問題でした。これは、私たち今日のクリスチャンにとっても信仰の根幹にかかわる大問題です。ローマ書の4章4-5節で「働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」と述べられています。もし、人が良い行いをした結果、罪を赦されて救われるのであれば、それは、良いことをした結果のご報酬であり、自分がその報酬をもらえるかどうか、いつまでたっても確信を持つことができません。しかし、何の良い行いをすることができなくても、主イエスの十字架が自分の罪を赦すためのものであり、イエスが救い主であるとただ信じただけで、神様から罪赦されて神のこどもとなり永遠のいのちが約束されるとするならば、それは報酬ではなく、神様からのプレゼントです。ルターは、ローマ書を学んで、人は善い行いをした結果神から正しい人と認められるのではなく、ただイエスを救い主と信じる信仰を持つことによって、正しいと認められるのだということ、そして救いは、神様からの恵みのプレゼントだということを理解して、ついに魂の平安を得ることができました。
 ルターは、当時のローマカトリック教会が罪を赦されるために人々に免罪符を販売していたことを知り、悔い改めをしなくても免罪符を買うことによって罪が赦されることは聖書の教えに反すると考え、95か条の抗議文を貼りだしたのです。これがローマ法王の怒りにふれ、ルターは破門状を手渡されますが、彼はその破門状を人々の前で焼き捨てました。その後、彼はドイツ皇帝から国会に呼び出され、その中で、自分の著書をすべて取り消すように迫られます。しかし、ルターはこう答えました。「私の良心は神の言葉に捕らえられています。私は何物も取り消すことはできないし、取り消そうとも思いません。良心にそむくことは正しくないし安全でもないからです。神よ、私をお助けください。アーメン」このように、宗教改革はドイツ皇帝とローマ法王の弾圧のもとで行われたので、ルターは次々と大きな困難を経験しました。そんな時に、いつも一緒にいた仲間のメランヒトンが「さあ、詩篇の46篇を歌おう」と言って、二人は詩篇46篇を歌いながら互いに励まし合いました。ルターは、詩篇46篇の言葉に霊感を受けて歌を作っていたのでが、それが讃美歌267番の「神はわがやぐら」です。詩篇46篇はマルチン・ルターに不動の信仰と何物にも屈しない力を与えましたが、ルターだけではなく、今を生きる私たちにも同じ信仰と力を与えてくれます。

(1)神は、私たちの避け所(1-3節)
 この詩篇が書かれたのは、ヒゼキヤ王の時代だと言われています。当時、すでに北イスラエル王国はアッシリアによって滅ぼされて、王国は消滅していました。その南に位置するユダ王国の都エルサレムは永遠の神の都と呼ばれていましたが、ヒゼキヤ王の時代にアッシリア王のセナケリブが攻めて来て、エルサレムを完全に包囲しました。アッシリヤ軍の数は18万5千人、エルサレムは絶体絶命のピンチを迎えました。ところが、具体的に何が起こったのかよくわからないのですが、イザヤ書37章36-37節には「主の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな、死体となっていた。 アッシリヤの王セナケリブは立ち去り、帰ってニネベに住んだ。」神様の奇跡的な働きがあって、エルサレムは滅亡することなく守られました。この詩篇は、そんな状況の中で生まれたのです。
 1~3節を読みましょう「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。」私たちの人生には、時々、がっかりする出来事が起きたり、あるいは人から攻撃されたり非難されたりすることもあります。そのような時に、神様は私たちの避け所となってくださいます。主イエスを信じる者には、いつでも自分たちが避難することのできる場所があるというのは本当に感謝なことです。地震が起こって津波が襲ってくるとき、最初にするべきことは安全な場所に逃げることです。亀の甲羅は丸く膨れていますが、他の動物に踏みつけらないようになっています。そして甲羅は外側よりも内側が強くなっているそうです。亀は歩くのも非常に遅く、臆病な生き物ですが、危険が迫った時に甲羅の中に逃げ込むことができます。神様がそれぞれの生き物にユニークな能力と生存するための手段を与えてくださっていることは本当に驚きです。私たちにとって神様は亀の甲羅のような存在ではないでしょうか。自分を取り囲む状況が崩れ去っていくように思える時でも、神様の中に逃げ込むことができるからです。神様は確かに信頼できる避難所です。
 「苦しむとき、そこにある助け」「苦しむ」と訳されている言葉は、コーナーに追いつめられるという意味です。この詩篇が書かれた時、エルサレムは18万5千のアッシリアの大軍に完全に包囲されていました。「そこにある助け」と訳されている箇所も非常に力強い表現が用いられています。口語訳では「いと近い助け」新共同訳では「必ずそこにいまして助けてくださる。」と訳されています。ヘブル語では3つの言葉で表されていて、「助け」「見出される方」「非常に」という順番で並んでいます。英語の聖書では、「いつでも助ける準備ができているお方」とか英語でvery presentとかever-presentと訳されているものが多いのですが、everもveryも神様が私たちいつもともにおられることを強調する言葉です。私たちが信じている神様は、1日24時間365日、いつも私たちとともにおられる神です。困った時に、神様に叫ぶと、天から舞い降りてくるような神ではありません。また、詩篇121篇の1,2節では次のような言葉があります。「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。」私たちは、苦しいこと困難なことを経験すると下を向きがちですが、クリスチャンはいつも上を見上げなければなりません。下を見ても何も見えないし何も変わりません。周りを見れば、いろいろなものが見えてそれに心を奪われて、心配や恐れが大きくなります。しかし私たちが上を見上げ、空を見て、山を見て、これら天と地にあるすべてのものを造られた神が私とともにいることをはっきりと意識するならば、恐れる気持ちが薄れて新しい力や希望が湧いてきます。そして、この詩篇を書いた人と同じように、「私の助けは天地を造られた主から来る」と宣言することができるのです。

(2)恐れるな。神を信頼せよ。
 神を信頼しないで生活をすると、私たちは様々な恐れにとらわれてしまいます。私たちは人を恐れます。神が私をどう見るかということよりも、周りの人々が自分をどう見るのかと恐れます。しかし、聖書は「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」(箴言29:25)と教えています。私たちは失敗を恐れることもあります。自分には能力がない価値がないと思い込んでいる人もいます。しかし、私たちは神に作られた作品ですから、存在そのものに価値があります。自分にできることをやり続けることが大切です。イソップ物語に「うさぎと亀」の話があります。亀は絶対にうさぎに勝つことはできません。誰が見ても明らかです。しかし、亀は最後までレースを走りぬきました。すると、うさぎが油断していたために、想像もしない勝利を勝ち取ることができました。また、将来を恐れる人もいます。これは先週学びましたが、明日という日はまだ存在していないので、存在しないものを恐れても意味がありません。明日がどんな火になるかを予想して今日できることをすればよいのです。また、死を恐れる人も多いでしょう。私たちの外なる人、すなわち肉体は日に日に衰えて行きます。しかし、内なる人、私たちの魂は、毎日新しくされることが約束されています。イエス・キリストを信じる者の肉体は死んでも、魂は永遠に神様とともに生きることがはっきりと約束されていますから、何も恐れる必要はありません。恐れを感じると、私たちは自由に行動できなくなります。神様が私たちに命令しておられます。「恐れるな。」神様を信頼することが恐れに打ち勝つ最大の方法なのです。
 4-5節には次のように書かれています。「 川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる。神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。神は夜明け前にこれを助けられる。」聖書では、川はゆったりと流れる大河のイメージで平和やいのちのシンボルとして描かれています。海は、いつも波が打ち寄せていますし、風が吹くと荒れ狂うことがあります。聖書では、海は私たちに恐怖を与えるものと見なされています。そういう訳で、天国の中心にはいのちの川が流れているのですが、海はありません。この詩篇が書かれた時、エルサレムは嵐のただ中に置かれていました。アッシリア軍に包囲されて、いつ滅ぼされるかわからない状況でした。しかし、詩篇の記者は、エルサレムの中心に川が流れ、神がともにおられるから、都はゆるがないと記しています。エルサレムは山の上に建てられていましたから川は流れていません。しかし、エルサレムには住民のいのちを守る神様がともにおられたのです。神様が人々にいのちを与え、安全を与えておられました。神様は、今も私たちにとって、暑い土地を流れる涼しい川のようになってくださり、私たちの生活に希望と平安を与えることのできるお方なのです。私たちの人生においても、時に、敵に囲まれた困難に出くわすことがあります。しかし、神様がともにおられならば、私たちは恐れる必要はありません。神様が私たちに困難に立ち向かう力と平安を備えてくださるからです。

(3)神の力を認める(10-11節)
 10節で、神様は「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。」と言われました。「やめよ」と訳されているところは、口語訳では「静まれ」、新共同訳では「力を捨てよ」と訳されています。私たちは、困難に出くわすと、何とか自分の力で解決しようとします。それが必要の場合もありますが、多くの場合、少し静まることが必要です。私たちはパニックになると正しい判断ができなくなるからです。この時、ユダの王ヒゼキヤはエルサレムにいて、町がアッシリア軍に完全に包囲されていることを知っていました。その時、ヒゼキヤは神様に祈りました。「主よ。どうか今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、あなただけが神であることを知るでしょう。」この時は、ヒゼキヤ王は神の働きに委ねることしかできませんでしたが、神様はヒゼキヤの祈りを聞き、彼の願いに答えてくださいました。神様が奇跡を起こしてくださったのです。イザヤ書37章36節には「主の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな、死体となっていた。」と記されています。
 11節に「ヤコブの神はわれらのとりでである。」と記されています。ヤコブとは創世記に出てきますが、アブラハムの孫です。ヤコブは、神様の働きを待つこと、神に委ねることができない性格で、自分で何とかしようと行動したために様々なトラブルに巻き込まれました。ヤコブはそれほど欠点の多い人物でした。しかし、そのようなヤコブに対しても神様はいつもともにいて彼の生活を守ってくださいました。
 ルターの宗教改革は、苦難の連続でした。人々から誤解されののしられ、悪魔呼ばわりまでされました。そのため彼はうつ状態になって落ち込んでいました。それを見た彼の妻が喪服を着てルターの部屋に入って「神は死にました」と言ったのを聞いて、ようやく彼の心に再び力が与えられるということがあったほどだったのです。私たちは偉大な信仰者には悩みも恐れもないと思いがちですが、そんなことはありません。ルターは苦しい時、いつも詩篇46篇を思い出し、自分が作った讃美歌「神はわがやぐら」を歌っていました。私たちも、ルターのように、またこの詩篇を書いた人のように、どんな状況の中でも「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」と口ずさみつつ、生きて行きたいと思います。

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